蜀鑑昭烈の君臣、長江の道より蜀に入る(昭烈君臣由江道入蜀)
諸葛亮の草廬の対で示された荊州・益州併有の策に沿って、昭烈帝が江州から水路を北上し涪に入って劉璋と会し、葭萌に留まったのち張松の誅殺を機に反転して蜀を攻める経緯を追う。建安十六年(211年)から劉璋の降伏までの数年間。諸葛亮・張飛・趙雲が別路から巴東・江陽・巴西を平定して三方から進み、雒城の陥落と馬超の来降を経て、成都は数十日の包囲ののち降伏した。
年表(5件)
- 建安十六年211年昭烈帝が江州から涪に入り劉璋と会し、葭萌に駐留する
- 昭烈が葭萌から蜀を襲い涪城を占拠212年張松誅殺に怒り楊懐・高沛を斬って涪城を取る
- 建安十八年213年昭烈帝が雒城を包囲する
- 建安十九年214年諸葛亮・張飛・趙雲が入蜀し、三方から益州を平定する
- 昭烈が成都を包囲し劉璋が降伏馬超の来降で城中が動揺し、劉璋が降伏する
建安十六年(211年)
- 昭烈帝が荊州から数万の兵を率いて蜀に入り、江州に至って、そこから北へ墊江の水路をとって涪に向かった。
- これに先立ち、昭烈帝は荊州にあって諸葛亮を草廬に三度訪ね、方策を尋ねた。諸葛亮は答えた。荊州は北に漢水・沔水を押さえ、南海の利を尽くし、東は呉会に連なり西は巴蜀に通じる用兵の地だが、今の主はこれを守り切れない。これは天が将軍に与えようとしているものだ。益州は要害に囲まれた沃野千里の天府の地で、高祖はこれによって帝業を成した。劉璋は暗弱、張魯は北にあり、民は豊かで国は富んでいるのに民をいたわることを知らず、才ある士は明君を求めている。将軍は帝室の一族で信義は天下に知られ、英雄を集め賢者を渇望している。荊州と益州の両方を領有して要害を保ち、西は諸戎と和し南は夷越を手なずけ、天下に変事があれば一人の上将に荊州の軍を率いさせて宛・洛に向かわせ、将軍自身は益州の軍を率いて秦川に出れば、民は喜んで迎えるだろう。そうすれば覇業は成り、漢室は再興できる、と。
- 昭烈帝が曹操を破ったのち、張松が劉璋に勧めて法正を荊州へ遣わし昭烈帝を迎えさせた。法正はひそかに益州奪取を勧めたが、昭烈帝は迷って決しなかった。龐統が重ねて賛成し、ようやく決断した。
- 昭烈帝は諸葛亮を残して荊州を守らせ、趙雲を留営司馬とし、歩兵数万を率いて益州に入った。江州から北へ墊江の水路をとって涪に至った。涪は成都から三百六十里の地である。劉璋は歩騎三万を率いて出迎え、百余日にわたって歓を尽くして酒宴を開いた。
- 劉璋は昭烈帝を大司馬に推し、張魯を討たせようとした。昭烈帝は葭萌に至った。
- 劉璋は昭烈帝の兵を増やし物資を手厚く与えて張魯を討たせ、あわせて白水軍を監督させた。劉璋が成都に帰ったあとも、昭烈帝は北の葭萌に至ったまま、すぐには張魯を討たなかった。
昭烈が葭萌から蜀を襲い涪城を占拠(212年)
- 劉璋が張松を斬ったため昭烈帝は激怒し、白水軍の督である楊懐・高沛を呼びつけ無礼を責めて斬った。
- そのまま兵を率いて関頭に直行してその兵を併合し、進んで涪城を占拠した。
建安十八年(213年)
- 昭烈帝が雒城を包囲した。
建安十九年(214年)
- 諸葛亮は関羽を残して荊州を守らせ、張飛・趙雲とともに川をさかのぼって巴東を攻略し、江州に至って巴郡太守の顔厳を破り生け捕りにした。
- 別働隊として趙雲を外水経由で遣わし江陽・犍為を平定させ、張飛には巴西・徳陽を平定させた。
- 法正は劉璋に書を送り、張益徳(張飛)の数万の兵がすでに巴東を定め犍為の境に入って資中・徳陽を平らげ、三方から進撃していると述べ、これをどう防ぐのかと問うた。さらに魚復と関頭という益州の禍福を分ける二つの門がともに開かれ、諸道から敵が心腹に入り込んでいる以上、身の処し方を変えて家門を保つべきだと説いた。
昭烈が成都を包囲し劉璋が降伏
- 雒城が陥落し、昭烈帝は進んで成都を包囲した。諸葛亮・張飛・趙雲も兵を率いて合流した。
- 馬超が武都から密書を送って降伏を申し出たので、昭烈帝は彼に城の北へ布陣させた。城中は震え上がり、数十日の包囲ののち劉璋は降伏した。