蜀鑑曹操、張魯を平らげ漢中を取る(曹操平張魯取漢中)
益州牧の劉焉に派遣された張魯が漢中を奪って自立し、劉璋の代には公然と敵対するに至る経緯から、曹操が自ら大軍を率いて陽平関を破り、張魯を巴中へ追って南鄭を手に入れるまで。初平二年(191年)から建安二十年(215年)までの二十五年間を扱う。曹操は夏侯淵と張郃を残して漢中を守らせ、「鶏肋」の語を残して引き揚げた。末尾の史論は、曹操が二度漢中に入りながら蜀を取り切れなかったことを、天が昭烈帝と諸葛亮に漢中を残したのだと評する。
漢獻帝初平二年(191年)
- 益州牧の劉焉が張魯を派遣して漢中を襲わせた。劉焉は益州にあって密かに叛意を抱いていた。
- 沛の人である張魯は、祖父の張陵以来、五斗米道を伝えて蜀に住んでいた。劉焉は彼を督義司馬に任じた。
- 張魯は漢中太守の蘇固を不意打ちにして殺し、閣道を断ち切って、朝廷からの使者も殺害した。
建安五年(200年)
- 劉璋が父の劉焉の地位を継いだ。張魯は劉璋が暗愚で気弱だとみて従わなくなった。
- 張魯は別部司馬の張修を襲って殺し、その兵をあわせ、漢中に拠って劉璋と敵対した。
建安二十年(215年)
- 曹操が張魯を攻撃した。武都から氐の地に入ろうとしたが、氐人が道を塞いだので、張郃・朱靈を遣わしてこれを撃ち破った。
- 曹操は陳倉から散関を出て河池に至り、氐王の竇茂とその衆一万余人を皆殺しにした。
- 軍は武都から山道を千里行き、険阻な上り下りを重ねた。曹操はここで大々的に将兵をねぎらった。
- 秋七月、曹操は陽平に到着。張魯は弟の張衛や将の楊昂らに陽平関を守らせ、山にまたがって十余里にわたる城壁を築かせた。攻めても抜けなかったが、曹操は険しい地形を利用して夜襲をかけ、大いに破った。
- 張魯は総崩れとなって巴中へ逃げ、曹操は南鄭に入って府庫の珍宝をことごとく手に入れた。
- 十二月、曹操は夏侯淵と張郃を残して漢中を守らせた。
- 曹操がこの二人を残すにあたり「鶏肋」の語を外に示したが、意味を察する者はいなかった。ただ主簿の楊修だけが、鶏の肋骨は捨てるには惜しいが食べても得るところがない、という意味だと言い当てた。
史論(論曰)
曹操は群雄を刈り払って一時の天下をとりあえず定めたが、二度も漢中に攻め入りながら結局これを取り切れなかった。それは強弩の末勢というべきもので、本当に手が出せなかったわけではない。むしろ天が漢中を残して昭烈帝と諸葛孔明に与え、万世の三綱を絶やさぬようにしたのではないか。