諸葛忠武書逸話と遺跡(遺事)

編者按

  • 『武侯全書』の遺事篇は諸書や各地の志を集めて浩瀚だが、苦心のほどは分かるものの、あまりに繁雑で冗長な箇所が多い。『抱朴子』の訛りの談や、韋南康と胡僧の話などは駁されぬまま載っているので、ひとまず按を付けた。
  • 南中の細かな事は割いて南征に入れたので、代わりに他篇のうち世系・八陣・遺命・異同の中で遺事に入れるべきものを取ってこの篇を成した。

伏龍・鳳雛と龎徳公

  • (襄陽記より)昭烈が司馬德操に世事を訪ねると、德操は「儒生や俗士に時務が分かりましょうか。世務を識るのは俊傑です。この地には伏龍と鳳雛がおります」と答えた。誰かと問うと「諸葛孔明と龎士元です」と言った。
  • 諸葛孔明を伏龍、龎士元を鳳雛、司馬德操を水鏡というのは、みな龎德公の言葉である。
  • 德公は襄陽の人。孔明はその家に行くたび、独り床の下に拝した。德公は初めからそれを止めなかった。
  • 德操がかつて德公を訪ねたとき、德公は沔水を渡って先人の墓を祀りに出ていた。德操はそのまま部屋に入り、德公の妻子を呼んで「早く黍を炊いてくれ。徐元直が先ほど『客が来る、私と龎公に会いに』と言っていた」と告げた。妻子はみな堂の下に並び拝し、走り回って支度をした。ほどなく德公が還り、まっすぐ入って一緒になったので、どちらが客か分からなかった。
  • 德操は德公より十歳年下で、兄として仕え「龎公」と呼んだ。そのため世人は「龎公」を德公の名と思っているが、そうではない。德公は字を山民といい、諸葛孔明の姉を娶った。

妻と木牛流馬

  • 黄承彦は闊達で開けた沔南の名士。諸葛孔明に「聞けば君は妻を選んでいるとか。私には醜い娘がいる。髪は黄色く肌は黒いが、才は釣り合う」と言った。孔明が承諾すると、すぐ車に載せて送ってきた。時の人は笑いぐさとし、郷里で「孔明に倣って妻を択ぶな。阿承の醜女をつかまされるぞ」と諺した。
  • (編者按)主を択んで英雄を得、婦を択んで醜女を得た。天の作った合わせとはいえ、千古の善く択ぶ者で孔明に及ぶ者はない。しかも木牛・流馬の法は実は妻から伝わったのだから、これも一人の大英雄であり、天が侯を助けるために生んだ人だったのだ。
  • 侯が隆中にいたころ、客が来て妻に麵の支度を頼むと、たちまち出てきた。侯はその速さを怪しみ、後にひそかに覗いてみると、数体の木人が麦を斫り磨を回すこと飛ぶがごとくであった。そこでその術を伝えてもらい、後にその仕組みを変えて木牛・流馬にしたという。
  • (亮集「作木牛流馬法」より)木牛は腹が方形で頭は曲がり、一本の脚に四つの足。頭は襟の中に入り、舌は腹に付く。積載が多く進みは遅いので、大がかりな用途に向き、小さく使うのは向かない。単独なら数十里、群行なら二十里進む。曲がった部分が牛の頭、二本の部分が牛の脚、横の部分が牛の襟、回る部分が牛の足、覆う部分が牛の背、方形の部分が牛の腹、垂れた部分が牛の舌、曲がった部分が牛の肋、刻んだ部分が牛の歯、立った部分が牛の角、細い部分が牛の鞅、締める部分が牛の鞦軸である。牛が仰いで双轅となり、人が六尺行くあいだに牛は四歩進む。一年分の糧を載せて日に二十里行き、人は大して疲れない。
  • (同)流馬の寸法。肋の長さ三尺五寸、幅三寸、厚さ二寸二分、左右同じ。前の軸孔は墨から頭まで四寸、径は中二寸。前脚の孔は墨から二寸、前軸孔から四寸五分、幅一寸。前杠の孔は前脚孔の墨から二寸七分、孔の長さ二寸、幅一寸。後軸孔は前杠の墨から一尺五分、大小は前と同じ。後脚の孔は墨から後軸孔まで三寸五分、大小は前と同じ。後杠の孔は後脚孔の墨から二寸七分。後の載せ刻みは後杠孔の墨から四寸五分。前杠の長さ一尺八寸、幅二寸、厚さ一寸五分。後杠も同じ。板の方囊二枚は厚さ八分、長さ二尺七寸、高さ一尺六寸五分、幅一尺六寸で、一枚に米二斛三斗を受ける。上杠の孔は肋の下から七寸、前後とも同じ。上杠孔から下杠孔までは墨から一尺三寸、孔の長さ一寸五分、幅七分。八つの孔は前後とも同じ。四脚は幅二寸、厚さ一寸五分。形は象に似る。靬は長さ四寸、径の面四寸三分、孔の径は中。三脚の杠は長さ二尺一寸、幅一寸五分、厚さ一寸四分で、杠の耳と同じ。

八陣図

  • (劉賓客嘉話より)夔州の西市は江岸を見下ろし、砂石の下に諸葛亮の八陣図がある。箕を張り翼を舒べたような、鵝の形、鸛の勢が今もはっきり残る。峡の水が増し三蜀の雪が解ける頃には、湧き返る激流は言葉に尽くせぬ。十囲の大樹、百丈の枯れ枝、割れた磑や巨石が波に随って川を塞いで下り、水は岸と斉しくなって人は山上へ逃げる。石を集めて堆とした程度のものがどうなるかは知れよう。ところが水が落ちて川が平らぐと万物はもとの姿を失うのに、諸葛の陣図の小石の堆だけは並びも列も元のままである。こうして六、七百年、毎年洗われ押し流されながら今日まで動かない。
  • 魚復県の塩井から西は石の跡が平らかに広がり、四方を遠く見渡せる。細かい石を積んだ塁は方数百歩ほど。塁の西の郭にはまた石を集めて八行に並べ、互いの間隔は二丈ばかり。これを八陣図といい、見る者はみな理解できなかった。桓宣武(桓温)が蜀を伐ってここを通り、常山の蛇の勢だと言った。
  • (東坡より)諸葛亮は魚復の平らかな砂の上に八陣図を造り、石を積んで八行に並べ、間隔は二丈。桓温が譙縦を征したとき見て「これは常山の蛇の勢だ」と言った。私もかつてここを過ぎ、山上から百余丈下を俯瞰した。八行で六十四の蕝を成し、蕝はきれいな円形で凹凸が見えず、日中の蓋の影のようであった。近づいて見ればみな卵石が漫々と広がって見分けもつかない。まことに不思議である。
  • 唐の太宗が李靖に「卿の作った六花陣の法はどの術に出るか」と問うと、靖は「臣が本としたのは諸葛亮の八陣法です。大陣が小陣を包み、大営が小営を包み、隅と落は鈎のように連なり曲折して相対する。古の制はこの通りで、臣はそれに因って図を作りました。外を方に画き内を円に環らせて六花となります」と答えた。太宗が「内が円で外が方なのはなぜか」と問うと、靖は「方は歩より生じ、円は奇より生じます。方は歩を矩り、円は旋回を綴ぐもの。だから歩数は地に定まり、旋回の綴ぎは天に応じます。歩が定まり綴ぎが斉えば、変化しても乱れません。八陣を六としたのは、武侯の旧法です」と答えた。
  • (編者按)衞公の六花も、元子(李靖)のいう常山の蛇の勢である。東坡の詩に「神兵は学びて到るにあらず、古より訣を留めず」とあるのがよい。馬隆や李靖の説は、その意をよく師とし、その名を巧みに借りたと言えば足りる。
  • (楊升庵集「新都県八陣図記」節より)諸葛武侯の八陣図で蜀にあるものは二つ。一つは夔州の永安宮、一つは新都の彌牟鎮にある。夔にあるものは、侯が先主に従って呉を伐ち、江路を防ぎ守るための行営布陣の遺制であり、新都は成都の近郊なので日ごろ武を講じた場であろう。兵機に深く通じた者でも解し尽くせぬが、その古い塁や遺墟だけは惜しんでやまぬのは、その忠義が人を動かすからで、陣法の妙だけによるのではない。そうでなければ、竇憲も八陣を布いて匈奴を撃ち、晉の馬隆も八陣で涼州を回復しており、武侯以前にもあり以後にも絶えなかったことになる。功を成しても後世に称される例はまれなのに、まして遺跡が今日まで伝わろうか。
  • (同)私はかつて舟を放って夔門を過ぎ、永安の宮を弔い陣図の跡を尋ねた。ちょうど春の初めで水勢は衰えており、山上から百余丈を俯瞰すると、みな細かい石を集めて作られ、八行六十四蕝であった。土地の人は「夏に水が盛んなときは深淵に没するが、水が落ちれば元のままだ」と言う。わが新都のものは、地形が城門のように四方に起こり、中に土の塁が並んで高さ三尺ほど。耕す者が均してしまっても、十日余りでまた突き出る。これはその精誠が天を貫き、天が支えて壊させぬのであって、人が惜しむからだけではない。
  • (編者按)昭烈の呉伐に侯は従軍していない。それをここで「従って伐ち行営した」というのは誤りではないか。永安宮は魚復県の改名で、少陵(杜甫)の詩に「崩年もまた永安宮に在り」とあるのがそれ、いわゆる白帝城である。昭烈は病篤くしてここに侯を召して孤を託したのだから、侯が至ったことはある。しかし制作の前後は軽々に判じがたい。

器物と技術

  • (魏氏春秋より)亮は八務・七戒・六恐・五懼を作り、いずれも条章を備えて臣子を訓え励ました。また連弩を改良して「元戎」と名づけた。鉄の矢で長さ八寸、一つの弩から十本の矢が一斉に発せられる。
  • 蒲元は諸葛の西曹掾。亮が北伐にあたって糧の輸送に苦しんだとき、元は孔明に牒を送り、「元らは意を推して木牛一体を作り、双環を設けました。人が六尺行くあいだに牛は四歩進み、人はみなこれに糧を載せられます」と言った(元の別伝、『北堂書鈔』に見える)。
  • (同)蒲元は斜谷で孔明のために刀三千口を鋳た。自ら「漢水は鈍く弱く焼き入れに堪えぬ。蜀江は爽烈で、これぞ大金の元精だ」と言い、人を成都に遣って水を汲ませた。水が届くと元は「涪水が混じっている。使えぬ」と言った。汲んだ者が「混ぜていない」と言い張ると、元は刀で水を画いて「八升混じっている」と言った。汲んだ者はようやく叩頭して伏し、「実は涪津を渡るときこぼしたので、涪水を八升足しました」と白状した。皆が驚き服した。刀ができると、竹筒に鉄を詰めて刀で断つと、手に応じてすとんと落ちた。当世に絶品と称され「神刀」と呼ばれた。今の耳環を曲げた形の刀は、その遺した型である。
  • (宋書より)宋の御仗に諸葛孔明の筒袖の鎧と帽があり、二十五石の弩で射ても通らなかった。上はこれを殷孝規に賜った。
  • 武崗のある幕官が渠を掘って瓦の枕を得た。枕にすると中で鼓が鳴り、一更から五更まで順序を違えず、鶏鳴も三唱して夜が明けた。暮れになるとまた同じ。その人は怪しんで砕いてみると、中に機軸が仕込まれて夜気に応じるようになっていた。諸葛の鶏鳴枕である。
  • (升庵集より。「窩」は「鍋」の誤りか)平谷県の耕す民が釜を一つ得た。冷水を注ぐとひとりでに沸き、それで飯を炊けばすぐ炊けた。釜の下に「諸葛行窩」の字があった。郷民は中に宝物があると思って砕いたところ、釜の二重になった層の中に「水」「火」の二字があった。これも不思議である。『瑞應図』に「丹甑は炊かずして自ら熟し、玉皋は汲まずして常に満つ」とあるのは、この類か。まことに孔明の才芸は後世の神禹・周公である。世に伝わる划車弩や鶏鳴枕も一つや二つではない。

人物をめぐる話

  • (抱朴子より)曹操は刑法が厳峻で殺戮に果断だったが、心では孔明を用いたいと思った。孔明が自ら仕官を好まぬと述べると、操は謝して帰し、「義として、高世の士を汚れた君の朝で辱めさせはせぬ」と言った。九州を鞭撻して皇基を草創したのも、妄りではなかったわけだ。
  • (編者按)孔明が荊州に寓していたころ、これを知る者は德公・德操・元直らだけであった。昭烈でさえ長く同じ地に流寓し賢を渇くように求めながら、それまで聞き及ばず、元直の言によって初めて会えたのである。曹瞞(曹操)はまだ荊州を得ていなかったのに、どうして孔明を用いようとする縁があろう。しかも「汚れた君」とは、操が自らを言うのか、誰を指すのか。九州を鞭撻し皇基を草創しながら第一流の人士を得られなかったのなら、どこが「妄りでない」のか。だいたい『抱朴子』は葛洪の妄誕の書なのに、蘇子瞻も楊用脩もこれを談資にしている。まったく解せない。
  • (袁子より)張子布(張昭)が亮を孫権に薦めたが、亮は留まろうとしなかった。人がその理由を問うと、亮は「孫将軍は人主というべきだ。しかしその度量を見るに、亮を賢とすることはできても亮を尽くさせることはできぬ。だから留まらぬ」と答えた。
  • (裴松之の説)袁孝尼は文を著し論を立てて諸葛の人となりを甚だ重んじているのに、この言だけは大きく外れている。亮の君臣の相遇は希世の一時というべきで、終始の分を誰が離間できよう。どうして途中で金を断つほどの交わりに背き、主を択ぼうという心を抱くものか。もし権がその度量を尽くしたなら、翻然と去就を変えたとでもいうのか。葛生の身の処し方がそんなであろうか。関羽は曹公に捕らえられて甚だ厚遇され、その用を尽くさせられたといえるのに、なお義として本に背かなかった。孔明が雲長に及ばぬとでもいうのか。
  • 侯がかつて使いして呉に至り、秣陵の山を見て「鍾山は龍が蟠り、石頭は虎が踞る。帝王の宅だ」と嘆じた。
  • 侯が司馬懿と渭浜で対峙して戦おうとしたとき、懿は戎服で事に臨みながら、人を遣ってひそかに侯を覗かせた。侯は葛巾に羽扇で三軍を指揮していた。懿は「諸葛君は名士というべきだ」と嘆じた。
  • 黄権が魏にいたとき、司馬懿は亮に書を送って「黄公衡は快士です。坐るにも起つにも足下を嘆じ述べて口から離しません」と言った。
  • 万里橋は成都県の南八十里。費禕が呉に使いするのを諸葛亮がここで送り、「万里の路もこの橋に始まる」と嘆じたので万里橋と名づけた。
  • (桓温の逸話)桓温が蜀を征したとき、武侯の時の小吏で年百歳余りの者に会った。桓が「諸葛丞相は今の誰に比べられるか」と問うたのは、かなり自負するところがあってのことだった。答えて「葛公が在世のころは格別とも思いませんでした。ただ公が歿されて以来、その比を見ません」と言った。

廟と祠

  • (襄陽記より)亮が亡くなったばかりのころ、各地でそれぞれ廟を立てたいと求めたが、朝議は礼の秩序を理由に聴かなかった。百姓は節ごとに道端で私に祭った。歩兵校尉の習隆、中書郎の向充らが共に上表した。「周の人は召伯の徳を懐って甘棠を伐らず、越王は范蠡の功を思って金でその像を鋳ました。漢が興って以来、小さな善徳で像を図き廟を立てた例は多い。まして亮の徳範は遠近に及び勲は季世を蓋うのに、烝嘗の祭が私門にとどまり、廟も像も立たず、百姓が巷で祭り戎夷が野で祀るのは、徳を存し功を念い昔を述べ追うゆえんではありません。今、民心にすべて順えば瀆れて典がなく、京師に建てれば宗廟に迫ります。臣の愚案では、その墓の近くの沔陽に立て、奉祀を望む者はみな廟に限り、私祀を断って正礼を崇めるべきです」。これに従った。
  • 劉先主が荊州に寓していたころ、南陽の大姓晁氏から銭千萬を借りて軍需に充て、孔明が保証の券を作った。宋の代までそれが残っていた。
  • (一統志より)龍透関は嘉定州の南七里。亮が立てたと世に伝える。
  • 龍州の武侯廟は宣慰司の東百八十里。もと州の人が鄧艾がここを通ったというので廟を立てて祀っていたが、宋の知州洪咨夔がその像を毀ち、諸葛に改めて、民に「仇讐に事えて父母を忘れるな」と告げた。
  • (一統志より)臥龍山は叙州府城の東北五里。上に孔明の祠があり、また極めて清冷な泉がある。
  • 成都の劉先主廟の傍らに諸葛武侯の祠があり、前に周囲数丈の大樹があった。唐の末に次第に枯れ、王建・孟知祥の二偽国の代にも生き返らなかったが、あえて伐る者もなかった。宋の乾德五年(967年)夏五月に枯れ枝が再び生じ、時の人は異とした。皇祐の初めには新しい枝が中に聳え、枯れた部分も残って虬龍の形のようだったという。
  • 諸葛井は臥龍岡の上、草廬の前にある。青石を床とし、汲む縄の跡が百十条もあって数えきれない。
  • 諸葛の草廬には道士が住んだことがあったが、夜に兵の声を聞いて懼れ、移り去った。宣德年間に有司がその廬を新たにし、楊士奇が文を撰した。
  • 黄陵廟は夷陵州の西、黄牛峡にある。神がかつて禹の治水を佐けて功があったと伝え、諸葛が祠を建てた。一名を黄牛廟という。
  • 隆中山は府城の西北二十五里。麓に隆中書院がある。
  • 臥龍岡は府城の西南七里。嵩山の南から起こって数百里連なり、ここでぱたりと止まって巣のように回り込む。草廬はその内にあり、その下は掌のように平らで、孔明が自ら耕した所である。
  • 碁盤嶺は府城の南五里。諸葛が賓客を宴して碁を打った所と伝え、広さ六尺の石の盤があり、碁の痕が今も残る。
  • 孔明廟の下は「相公潭」と呼ばれ、深さは測れない。
  • 相公山は耒陽県の東北四十里。諸葛がここに兵を駐めたのでこの名がある。
  • 諸葛廟は石鼓山にある。亮が臨烝に駐して賦を調え軍資に充てたので、後にここで廟食した。宋に再建され、張栻が記を作った。
  • 先主廟は府城の南二里。もとは惠陵の右にあり、諸葛亮の廟を附していた。唐の杜甫の詩に「先主と武侯は閟宮を同じくす」とある。本朝(明)の洪武の初めに廟を合わせて祀った。
  • 剣門関は剣州の北境。大剣山がここに至って両壁が峭立し、隘路が締まる。亮がこれによって剣門を立てた。姜維が退いて守った剣門はここである。
  • 将軍池は岳池県の東五里。諸葛がここに兵を駐めたと伝える。
  • 武侯塔は長寧県の治所の東。諸葛が蛮戎に誓うために建てたもの。
  • 火烽山は中江県の東南。諸葛がここに烽火を置いた。
  • 蓮池は沔県の治所の北。畔に諸葛亮の読書亭の跡があり、花の季節には県の人が遊ぶ。
  • 諸葛祠は沔県の東南八里。
  • 諸葛墓は沔県の東南十里。
  • 夔の人は諸葛を重んじ、人日には町を挙げて八陣の跡へ遊びに出る。
  • 八陣台は武侯廟の前にあり、下に八陣の石の跡を見下ろす。
  • (夔州より)諸葛武侯廟は府の治所の八陣台の下にある。
  • (漢中府より)八陣図は定軍山の下、諸葛亮の作。督軍壇も山の下にある。亮がここで軍を督したので、郷の人は「陰雨のたびに鼓を撃つ音が聞こえる」と言う。
  • (顧璘より)武侯の兵書匣は定軍山の上。壁が万仞に立ち人の登れる所ではない。二度その地を経たが、初めに見たときは匣の色が淡い紅、後には新しくしたように鮮やかだった。どうにも解せない。
  • 綿竹の武都山の上に白い蓴菜が出て、たいそう美味い。武侯が掘らせたもので、李膺に記がある。
  • 臨卭県に火井がある。漢室が盛んなときは赫々と燃え、桓帝・靈帝の際には火勢が次第に衰えた。孔明がひと目見るとまた盛んになり、景耀元年(258年)に人が燭を投げ入れると消えた。その年、蜀は魏に併呑された。
  • 襄陽郡の孔明の故宅には深さ五丈・広さ五尺の井戸があり、堂の前に三間の家がある。地の基は極めて高く、避暑台だという。先に董家が住んだが衰えて滅び、後の人は敢えてそこで休まなくなった。
  • 華陽に読書台がある。孔明が蜀の相となって築き、諸儒を集め、あわせて四方の賢士を待った。
  • 諸葛亮が留まった所では兵士がもっぱら蔓菁を植えた。芽が出ればすぐ生で食べられるのが一つ、葉が伸びれば煮て食べられるのが二つ、長く居ればそのまま育つのが三つ、捨てても惜しくないのが四つ、戻ればすぐ見つけて採れるのが五つ、冬も根を掘って食べられるのが六つ。三蜀や江陵の人は今も蔓菁を「諸葛菜」と呼ぶ。
  • 隋の西蜀郡福縁寺の僧淵は、錦水で溺れる者が多いので南路に飛橋を架けようとした。昔、諸葛武侯が二江の中に七星の三つの鉄錞を造らせた。長さ八、九尺、径三尺ばかりで、人は「鉄鎗」と呼び、橋柱を打ち込むのに用いた。用が済むと江に投げ入れ、必要なときは祈って祠らねば水から出せないという。淵が新橋を造って柱を立てようとすると、その錞はおのずと水に浮かんで橋のたもとまで来た。橋が成るとまた自ら水に入った。
  • 韋南康(韋皋)が生まれたとき、胡僧が来て見て「別れて以来、恙なきや」と言った。理由を問うと「武侯の後身です。私は昔この方と友であったので、遠くを厭わず来ました」と答えた。それで武侯と字した。
  • (編者按)これは無稽の言で、羊祜の金環のような証もないのに、姜女の玉環の訛りまで起こした。世が欺かれやすいのは久しいことだ。『唐書』の本伝では韋皋の字は城武であって、武侯とは言っていない。
  • (蜀古蹟記・補遺より)宋の曹彬が蜀を伐ち、武侯の祠に詣でて建物の雄大さを見て左右に「孔明は漢に忠であったが、軍民を疲れさせて中原を回復できなかった。どうして『武』の諡に値しよう。頽れた所を取り壊し、中だけ残して香火を祀らせよ」と言った。左右はみな諫めて止めた。ほどなく「中殿が崩れ、榻の石碑が一尺ほど土から出て、字が刻まれています」と報せがあった。「吾が心腹の事を測る者は、ただ宋の曹彬あるのみ」とあった。彬は読み終えて下って拝し、「公は神人である。小子にどうして窺い測れよう」と言い、祠を新たにし文を作って祭って去った。

詩文の真偽

  • 「梁父吟」——齊の城門を歩み出て、遥かに蕩陰里を望む。里の中に三つの墳があり、累々として似通っている。これは誰の家の墓かと問えば、田疆と古冶子。力は南山を排するに足り、文は地紀を絶つに足りた。ひとたび讒言を被り、二つの桃が三士を殺した。誰がこの謀をなしたか。国相の齊の晏子である。
  • (旧説)齊に三人の勇士がおり、晏嬰が君に讒して桃二つを贈り、功を計って食べさせたところ、みな自刎した。
  • 「黄陵廟記」——私は南陽の畝に躬耕していたが、劉氏が草廬を顧みられ、勢いとして辞せず、事を計って善しとし、以来、情好は日ごとに密になった。共に軍を率いて蜀道へ趨り、黄牛を過ぎて江山の勝を見た。乱石は空に排し、驚濤は岸を拍つ。巨石を江中に集めて崔嵬たる峰を三つ列ね、絳水を平らかに治めてその道に順わせた。神が禹を扶け助けたのでなければ、人力でどうしてこれができよう。
  • (同)私は歩を放って見回し、江の左の大山が壁のように立ち、林と峰が絵のようなのを見た。大江の重なる石壁の間をよく見ると、神の像の影が現れていた。鬢髪も鬚眉も冠も裳もはっきりして彩画のようで、前に旌旗を一つ立て、右に黄い犢を一頭駐めており、なお工を董して開き導く勢があった。古伝にいう「黄龍が禹を助けて江を開き水を治め、九年で功成る」は、まことに偽りでない。惜しむらくは廟の姿が廃れて、人を太息させる。神は功あって禹を助け江を開き、斧鑿を事とせず舟航を順済させた。この土地で廟食すべきである。私は改めてこれを興し、廟を再建して「黄牛廟」と名づけ、神の功を顕す。
  • (編者按)「梁父吟」は義が浅く詞は庸で、決して孔明の自作ではなく、彼が好んで吟じたものでもないのは弁ずるまでもない。二桃の話に至っては児戯のようなもので、景公と晏子を誣うに足りぬのは明らかだ。平仲(晏嬰)は賢相であり、孔明がそれを知らずに斉東野人の語を信じようか。古来、平仲のために誣いを弁じ孔明の誤りを証した者を聞かぬのはなぜか。
  • (同)「黄陵廟記」の中の「乱石排空・驚濤拍岸」の二語は東坡の「大江東去」に見える。坡の詞にあれば佳いが、記としては韻に合わず、孔明の時代の渾樸な語ではあるまい。王弇州の『宛委餘編』に「公孫接・田疆・古冶子は齊で死んだのに、どうして海鹽の東十五里に葬られようか」とある。古今の伝えの訛りは、弁ずるか弁ぜぬかにあるだけだと知られる。
  • (王弇州『宛委餘編』より)南陽に諸葛の祠があり、また諸葛の草廬が郡城の西南七里の臥龍岡の上にある。しかし漢末には曹・劉の兵の要衝であり、諸葛が兵を避ける場所ではなかったのではないか。宋人の小説に「南陽とは襄中の郷の名だ」とある。『水經』沔水の条に「また東して山都県の東北を過ぐ」とあり、新野の山都県の治所と注する。「沔水はまた東して樂山の北を徑る」の注に「諸葛は好んで梁父吟を為し、多く登り遊んだ。俗に樂山と名づける」とある。「沔水はまた東して隆中を逕る」の注に「孔明の旧宅。いわゆる『臣を草廬の中に三顧す』とはこの地である。劉宏が襄陽を鎮めたとき李安に命じて宅銘を作らせた」とある。これは拠るに足りよう。
  • (編者按)荊州は景升が牧となって以来、玄德が流寓していた時期、曹操はちょうど袁氏父子と対峙して幽・冀に数年も兵を用いていた。だから襄陽・鄧県に曹・劉の争いはなく、昭烈に髀肉の嘆があったのである。もし本当に兵の要衝だったなら、どうして長嘯して登り遊び、樂山で高吟できよう。弇州もたまたま思い至らなかっただけだ。李安は太傅掾の李興のことで、王隠『晉書』に「興は一名を安という」とある。

書簡と誡め

  • (上事)臣はまず孟琰を進めて武功水の東に拠らせた。司馬懿は水を頼んで二十日に騎一萬を出して琰の営を攻めた。臣が車橋を作ったところ、賊は橋が成りかけたのを見てすぐ兵を引いて退いた。
  • (遠渉帖)師も徒も遠く渉り、道はたいそう険しかったが、褒斜に及ぶまで幸い皆恙なかった。使いが還るのでこれを馳せ書く。詳しくは記さない。
  • (張魯への書)霊仙は命を養うのに松や霞さえ節するという。身を享け味を嗜んでいて、どうして道を尚べようか。
  • (張裔への書)去った妻は門を顧みず、委ねた韭は園に入らぬという。婦人の性、草菜の情でさえ恥じるところがある。まして忠にして壮なる者の意はどこへ向かうか。
  • (誡子)君子の行いは、静によって身を修め、倹によって徳を養う。澹泊でなければ志を明らかにできず、寧静でなければ遠きに致せない。学は静を須ち、才は学を須つ。学ばなければ才を広げられず、静でなければ学を成せない。怠り慢れば精を研げず、険しく躁げば性を理められない。年は時と馳せ、意は歳と去り、ついに枯れ落ちて、窮廬に悲歎してももはや及ばない。
  • (誡子・その二)酒の設けは、礼に合い情を致し、体に適い性に帰するもの。礼が終われば退く。これが和の至りである。主人の意がまだ尽きず、客になお余力があるうちなら、酔うまで飲んでもよい。迷い乱れるに至ってはならない。
  • (誡外甥)志は高遠に存すべきである。先賢を慕い、情欲を絶ち、滞りを棄て、庶幾の情を掲げて存するところを持ち、惻然として感ずるところを持て。屈伸を忍び、細かなことを去り、広く問い尋ね、嫌いと吝しみを除け。それが美しい趣にどんな損があり、事の成らぬどんな患いがあろう。もし志が強毅でなく意が慷慨でなければ、いたずらに碌々として俗に滞り、黙々として情に束ねられ、永く凡庸に竄れ伏して下流を免れない。

後世に伝わる言葉

  • (張敬夫の説)『貞觀政要』に載る孔明の語に「吾が心は秤の如し。人のために軽重をなすことあたわず」とある。これこそ真の孔明の語である。
  • (楊用脩集に載る武侯の格言より)勢利の交わりは遠くまで保ちがたい。士の相知るは、温かくとも華を増さず、寒くとも葉を改めず、四時を貫いて衰えず、夷険を経ていよいよ固い。