諸葛忠武書贊・評・論・碑碣・詩賦(雜述(贊/) (評/) (論/) (碑碣/) (詩賦/))

編者按

  • 『武侯全書』の評論篇は、楊戲の贊、陳壽の評、張儼の論、それに袁孝尼・習鑿齒らのものだけでよい。碑碣は劉鎮南と裴晉公の二人だけで、しかも劉の碣は遺事にも入っていて分類が乱れている。詩は少陵(杜甫)の数首だけ。ほかに崔浩・薛能の誤り、呂温・段文昌らの拙い作まで載せて簡冊を汚しているのはどうしたことか。
  • そこで削り併せて「雜述」と総称し、その下に贊・評・論・碑碣・詩賦と分注する。

  • (楊戲『季漢輔臣贊』より)忠武は英邁で高く、江のほとりで策を献じ、呉に攀じ蜀に連なって我が世の真を権った。遺を受けて阿衡(宰相)となり、武を整え文を斉え、徳教を敷き陳べ、物を理め風を移した。賢も愚も心を競い、みな身を忘れた。国内を大いに静め、四方の夷を綏んじ、しばしば敵の廷に臨んでその威を輝かせた。大国と精を研ぎ合いながら、平らげ得ぬまま終えたことが恨みである。
  • (東坡『三國名臣贊』より)西漢の士は知謀に富むが名義に薄く、東漢の士は風節を尚ぶが権略に短い。両者を兼ねたのが三国の名臣である。中でも孔明は巍然として三代の王者の佐であり、そもそも世の基準で論じられる人ではない。

  • (陳壽の評より)諸葛亮の相国たるや、百姓を撫で、儀軌を示し、官職を約め、権制に従い、誠心を開いて公道を布いた。忠を尽くして時を益する者は仇でも必ず賞し、法を犯して怠慢な者は親しくても必ず罰した。罪に服して情を吐く者は重罪でも必ず釈し、言葉を弄して巧みに飾る者は軽くても必ず戮した。善は微かでも賞さぬことなく、悪は纖かでも貶さぬことがなかった。庶事に精練し、物はその本を理め、名に循って実を責め、虚偽を歯しなかった。ついに国内はみな畏れて愛した。刑政は峻しくとも怨む者がなかったのは、用心が公平で勧戒が明らかだったからである。治を識る良才、管仲・蕭何に次ぐ者というべきだ。
  • (陳壽「上蜀丞相亮故事」より)亮は若くして群を抜く才と英霸の器があり、身の丈八尺、容貌は甚だ偉く、時の人は異とした。漢末の擾乱に遭って叔父玄に従って荊州へ難を避け、野に躬耕して聞達を求めなかった。左将軍劉備は亮に格別の器量があるとして三たび草廬に訪ね、亮は備の雄姿傑出を深く認め、帯を解いて誠を写し、厚く結び納れた。
  • (同)魏の武帝が荊州を南征し、劉琮が州を挙げて質を委ねて備は勢いを失い、衆は寡なく錐を立てる地もなかった。亮は時に年二十七、奇策を建てて自ら孫権に使いして呉会に援を求めた。権はかねて備を服し仰いでいた上、亮の奇雅を見て甚だ敬重し、ただちに兵三萬を遣って備を助けた。備はこれを用いて武帝と交戦して大破し、勝ちに乗じて江南をことごとく平らげた。
  • (同)後に備は西して益州を取り、平定すると亮を軍師将軍とした。備が尊号を称すると亮を丞相・録尚書事に拝した。備が殂して嗣子は幼弱、事は大小となく亮がすべて専らにした。そこで外は東呉と連なり、内は南越を平らげ、法を立て度を施し、戎旅を整理し、工械技巧はその極を究めた。科教は厳明、賞罰は必ず信があり、懲らさぬ悪なく顕さぬ善なく、吏は姦を容れず人は自ら励む心を懐き、道に落ちた物を拾わず、強きは弱きを侵さず、風化は粛然としていた。
  • (同)このとき亮の素志は、進んでは龍のように驤り虎のように視て四海を包み括り、退いても辺疆を跨ぎ陵いで宇宙を震わせることにあった。また自ら、自分の亡き後には中原を蹈み渉って上国と抗衡できる者はいないと考えていた。だから兵を戢めず、しばしばその武を輝かせた。
  • (同)ただし亮の才は戎を治めるに長じて奇謀に短く、民を理める幹は将略に優った。しかも相対した敵はときに人傑であり、加えて衆寡は等しからず攻守は体を異にした。だから連年、衆を動かしながら克つに至らなかった。昔、蕭何は韓信を薦め、管仲は王子城父を挙げた。自分の長を計って兼ね得ぬところを知っていたからである。亮の器能と政理は管仲・蕭何に次ぐが、時の名将に城父や韓信がいなかった。だから功業は遅れ、大義は及ばなかったのか。思うに天命に帰するところがあり、智力で争えぬのである。
  • (同)青龍二年(234年)春、亮は衆を率いて武功に出て、兵を分けて屯田し久しく駐する基とし、その秋に病んで卒した。庶民は追慕して語り草とし、今も梁・益の民は亮を語り、その言葉は耳に残るようである。甘棠に邵公を詠い、鄭人が子産を歌ったのも、遠い譬えではない。
  • (同)論者は亮の文彩が艶やかでなく、丁寧周至に過ぎることを怪しむ。臣の愚案では、咎繇は大賢であり周公は聖人であるが、『尚書』を見ると咎繇の謨は略にして雅、周公の誥は煩にして悉い。なぜか。咎繇は舜・禹と共に談じ、周公は群下に矢誓したからである。亮が語った相手はみな衆人凡士であったから、その文の指すところは遠くに及び得なかった。しかしその声教と遺言はみな事を経め物を綜べ、公誠の心が文墨に現れており、その人の意理を知り当世を補うに足りる。謹んで録して著作に上る。
  • (王士騏の説・全書小引より)東坡は「出師の二表は伊訓・説命と表裏をなす」と言った。言を知る者だ。陳壽はそれに先立って周公と比べており、尊ぶことも至っている。将略を貶した点は本心ではなく、司馬懿に媚びただけだ。壽は実は武侯を知っており、その称述にも斟酌が多い。孔明がこれを聞けば、きっと三たび嘆じたろう。壽は知らぬ者ではなかった。

  • (袁子より)ある人が「諸葛亮はどういう人か」と問うた。袁子は答えた。張飛・関羽は劉備と共に起った爪牙腹心の臣だが武人である。晩年に諸葛亮を得て佐相としたところ群臣が悦服したのは、劉備が信ずるに足り、亮が重んずるに足りたからだ。六尺の孤を受けて一国の政を摂り、凡庸の君に仕えて権を専らにしながら礼を失わず、君の事を行いながら国人が疑わなかった。かくして君臣百姓の心が欣んで戴いたのである。
  • (同)法を行うのは厳しかったが国人は悦服し、民を用いて力を尽くさせても下は怨まなかった。兵が出入りするさまは賓客のようで、行っても寇せず、草を刈り薪を採る者を狩り立てず、国中にいるのと変わらなかった。その用兵は、止まれば山のごとく、進退は風のごとし。兵を出す日には天下が震動しながら人心は憂えなかった。亮が死んで数十年、国人は歌い慕うこと周の人が召公を思うようである。孔子は「雍や、南面せしむべし」と言ったが、諸葛亮にはそれがある。
  • (同)また問う。「亮が初めて隴右に出たとき南安・天水・安定の三郡が反いて応じた。速く進めば三郡は中国のものでなくなったのに、亮は徐々に進んで果たさず、やがて官兵が隴に上って三郡はまた安んじた。亮に尺寸の功もなくこの機を失ったのはなぜか」。袁子は「蜀の兵は軽鋭で良将が少ない。亮は出たばかりで国中の強弱を知らず、だから疑って試したのだ。しかも大挙する者は近い功を求めぬ。それで進まなかった」と答えた。
  • (同)「疑ったとどうして分かるか」。袁子「初めの進み方が遅く重く、屯営は幾重にも重ね、後の輸送は降りて兵を進めず戦おうとした。亮は勇にして能く闘うのに、三郡が反いても速く応じなかった。これが疑った徴である」。
  • (同)「勇にして能く闘うとどうして分かるか」。袁子「亮が街亭にいたとき、前軍が大破されても亮は数里離れた屯にいて救わず、官兵と接しても徐々に行った。これが勇である。亮の行軍は安静にして堅重、安静なら動きやすく、堅重なら進退できる。亮は法令が明らかで賞罰に信があり、士卒は命を用いて険に赴いて顧みなかった。これが闘える理由である」。
  • (同)「亮は数萬の衆を率いながら、その造るものは数十萬の功のようだ。それが奇とされるが、行く先々の営塁・井・竈・厠・垣・障塞がみな縄墨に適い、一月の行軍でも去るときは着いたときのままである。労費して徒らに飾るのはなぜか」。袁子「蜀の人は軽薄で脱けたところがあるから、亮はあえて堅くこれを用いたのだ」。
  • (同)「どうしてそうと分かるか」。袁子「亮は実を治めて名を治めず、志は大きく欲するところは遠く、近くて速いものを求めなかった」。
  • (同)「亮は官府・宿舎・橋梁・道路を整えるのを好んだが、急務ではあるまい。なぜか」。袁子「小国は賢才が少ないから、その尊厳を保たせたいのだ。亮の蜀の治めようは、田疇は拓け倉廩は実ち、器械は利く、蓄積は豊かで、朝会は騒がず、路に酔人がいなかった。本が立ってこそ末が治まる。余力あって後に小事に及ぶ。これがその功を勧めたゆえんである」。
  • (同)「あなたの諸葛亮論には証がある。ただ亮ほどの才で功が少ないのはなぜか」。袁子「亮は本を持する者で、応変は長ずるところではない。だからその短を用いなかったのだ」。
  • (同)「では、なぜあなたは彼を美とするのか」。袁子「これこそ賢者の遠いところだ。どうして体を備えよと責められよう。自分の短を知って用いぬのは賢者の大なるところだ。短を知れば長も知れる。前もって知って言い、当たらぬような真似は、亮のせぬところだ。これが私のいう『可なり』である」。
  • (呉の大鴻臚張儼『默記』述佐篇より)漢朝が傾覆して天下は崩壊し、豪傑の士が競って神器を望んだ。魏氏は中土を跨ぎ、劉氏は益州を拠って、ともに兵を海内に称して世の霸王となった。諸葛・司馬の二相はその際会に遭い、盟主に身を託し、あるいは蜀漢に功を収め、あるいは伊洛に名を冊した。曹丕と劉備が歿すると、後嗣が統を継ぎ、それぞれ保阿の任を受けて幼主を輔翼し、然諾の誠に背かなかった。ともに一国の宗臣、霸王の賢佐である。前世を経て近事を観れば、二相の優劣は詳らかにできる。
  • (同)孔明は巴蜀の地に起こって一州の土を踏み、大国に比べれば戦士も人民も九分の一である。それでいて大呉に贄を貢いで北の敵に抗し、耕と戦に伍を立て刑法を整え、歩卒数萬を提げて祁山に長駆し、慨然として河洛に馬を飲ませる志を抱いた。仲達は天下の十倍の地を拠り、併呑した衆を杖み、牢固な城に拠って精鋭を擁しながら、敵を擒える意はなく、ただ自らを保全することに努めただけである。孔明を自由に来させ自由に去らせた。この人が亡くならず志を全うし、連年思いを運らせ日を刻んで謀を興していたら、涼・雍は甲を解けず中国は鞍を離せず、勝負の勢いは決していたろう。昔、子産が鄭を治めて諸侯は兵を加えられなかった。蜀の相はそれに近い。司馬に比べて優れているではないか。
  • (同)ある人が言う。「兵は凶器、戦は危事である。国を有つ者が境内の安を保ち百姓を綏静することに努めず、好んで土地を開き天下を征伐するのは得策ではない。諸葛丞相にまことに匡佐の才があったとしても、孤絶の地に処り戦士は五萬に満たぬ。関を閉ざして険を守れば君臣は無事であったろうに、いたずらに師旅を労して征かぬ所とてなく、それでいて咫尺の地も進めず帝王の基を開けず、国内はその荒残を受け西土はその役調に苦しんだ。魏の司馬懿の才と兵衆は軽んじがたい。敵を量って進むのは兵家の慎むところだ。丞相に必ず策があったなら、坦然たる勲は見えぬ。策なくして裁いたのなら、明哲とはいえず、海内が帰向する意にも合わぬ。私はひそかに疑う。その説を問いたい」。
  • (同)答えて言う。聞くところでは、湯は七十里、文王は百里の地で天下を有ったが、みな征伐によって定めた。揖譲して王位に登ったのは舜と禹だけである。今、蜀と魏は敵対して戦う国で、勢いはともに王たるに至っていない。曹操と劉備の時から強弱は懸け離れていたが、備はなお兵を陽平に出して夏侯淵を擒え、関羽は襄陽を囲んで曹仁を降らせようとし于禁を生け捕った。当時、北辺は大小となく憂え懼れ、孟德は自ら南陽に出て、樂進・徐晃らが救援に向かっても囲みはすぐには解けなかった。だから蔣子通は「あのとき許を移し河を渡る計があった」と言う。折しも国家(呉)が南郡を襲い取ったので羽は軍を解いた。玄德と操では智力の多少も士衆の衆寡も、用兵行軍の道も同年に語れぬのに、なお暫くは勝ちを取れた。しかも当時は大呉の犄角の勢もなかったのである。
  • (同)今、仲達の才は孔明に劣り、当時の勢いは昔と異なる。玄德ですら抗衡したのに、孔明がどうして軍を出して敵を図ってはならぬのか。昔、樂毅は弱い燕の衆に五国の兵を従えて強い齊に長駆し七十余城を下した。今、蜀漢の卒は燕軍に劣らず、君臣の交わりは樂毅より信がある。加えて国家(呉)が唇歯の援となって東西相応じ、首尾は蛇のごとく、形勢の重大さは五国の兵の比ではない。何を憚って進めぬことがあろう。そもそも兵は奇によって勝ち、智によって敵を制する。土地の広狭、人馬の多少に偏って頼ることはできぬ。
  • (同)私は彼の治国の体を観るに、当時すでに粛整であり、遺教は後にも残った。その辞意の懇切さ、進取の図を陳べるさま、忠謀の謇々として義が主に現れるさまは、古の管仲・晏嬰でも何を加え得よう。
  • (張裔傳より)公は賞するのに遠い者を遺さず、罰するのに近い者に阿らず、爵は功なくして取れず、刑は貴い勢いで免れられない。これが賢も愚もみな身を忘れたゆえんである。
  • (漢晉春秋より)樊建が給事中となったとき、晉の武帝が諸葛亮の治国について問うた。建は「悪を聞けば必ず改め、過ちを誇らず、賞罰の信は神明を感じさせるほどでした」と答えた。帝は「善いかな。私がこの人を得て自ら輔けさせられたら、今日の労苦はなかったろう」と言った。
  • (劉義慶『世説』より)諸葛瑾の弟の亮と従弟の誕はともに盛名があり、それぞれ別の国にいた。当時「蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得た」と評された。誕は魏で夏侯玄と名を斉しくし、瑾は呉にあって呉朝がその弘い度量に服した。
  • (弇州続稿より)孔明と子瑜(諸葛瑾)は実の兄弟、公休(諸葛誕)は従弟である。孔明は漢の丞相として国を秉り、子瑜は大将軍に至って呉の大政に参与し、公休は魏に仕えて司空に至った。それぞれ身を分けて三国に事えながら互いに猜まず、みな三公となり、みな自ら功名を致して徹侯に封ぜられた。ただ公休だけが全うしなかった。
  • (同)『世説』のいう「蜀は龍、呉は虎、魏は狗」では公休の望も実も下の下ということになる。しかしその行いを考えれば、公休を狗と分けるのは酷であろう。洛下では夏侯泰初と名を斉しくし、吏部郎・中丞・尚書としていずれも望と実があった。出て壽春を鎮め一方を粛め整えた。敗死したとき麾下の数百人に一人も敵に降る者がなく、「諸葛公のために死ぬのは恨みでない」と言った。これは常人の及ぶところではない。
  • (同)それは公休だけではない。子瑜の子の元遜(諸葛恪)も、その材は孔明に次ぐ。ただ識度が及ばなかった。元遜は事ごとに孔明に倣った。孔明が幼主を相ければ自分も幼主を相け、孔明が魏を伐てば自分も魏を伐ち、孔明が馬謖を斬れば自分も朱異を斬り、孔明が李嚴を責めれば自分も孫嘿を責めた。跡を循って倣ったから、いよいよ禍を速めたのである。
  • (同)山越の平定は孟獲を擒えたのに劣らず、淮南の勝は祁山の捷にも光がある。それなのに人の情がこうも隔たり、後の事が天地ほど違ったのは、孔明が密で元遜が疎、孔明が静で元遜が躁、孔明は遂げて順い元遜は遂げて踞り、孔明は厳にして仁、元遜は厳にして刻であったからだ。
  • (同)ああ、孔明が漢に忠であったのと、子瑜が呉に忠であったのは同じであり、思遠(諸葛瞻)が孔明を継いで死んだのは忠、尚が死んだのは孝である。壽はこれを知り、言うこともできた。公休が魏に忠であったことを壽は知らなかったが、後世はなお知り得る。しかし元遜が呉に忠であったことは後世も知らない。ああ、壽は知らなかっただけでなく、公休を鍾会に列し元遜を孫峻・孫琳に列した。冤ではないか。
  • (習鑿齒の説)昔、管仲は伯氏の駢邑三百を奪ったが、伯氏は歯が抜け落ちるまで怨言がなかった。聖人はこれを難しとした。諸葛亮は廖立に涙を垂れさせ李平を死に致らせた。ただ怨言がなかったどころではない。水は至って平らかだから邪な者もそれに法を取り、鏡は至って明らかだから醜い者も怒りを失う。水と鏡が窮めても怨まれぬのは私がないからだ。水鏡でさえ私がなければ謗りを免れる。まして大人君子が生を楽しむ心を懐き矜恕の徳を流し、用いざるを得ぬところに法を行い、自ら犯した罪に刑を加え、爵を与えても私せず、誅しても怨まれぬなら、天下に服さぬ者があろうか。諸葛亮は刑をよく用いたというべきで、秦漢以来これに及ぶ者はない。

碑碣

  • (蜀記より)晉の永興年間、鎮南将軍の劉宏が隆中に至って亮の故宅を観て、碣を立てその里を表し、太傅掾の犍為の李興に文を作らせた。
  • (李興の文より)天子が私に沔水の北を命じ、鼓鞞を聴いて永く思い、先哲の遺した光を庶い、隆山に登って遠く望み、諸葛の故郷に軾した。神物は機に応じ、大器は方がなく、通人は滞らず、大徳は常ならぬ。だから谷風が起これば騶虞が嘯き、雲雷が升れば潜む鱗が驤る。伊尹は三たびの聘に褐を解き、孔子は招きを得て裳を褰げた。管仲は命を受けて豹変し、子貢は感激して莊を回らせた。徐生が宝を摘むように、臥龍を深い隠棲から釈き出した。偉いかな劉氏の傾蓋、嘉すべきかな吾子の周行。
  • (同)知己の主があってこそ命を竭くす良臣がある。だからこそ我が漢の鼎を三分し、我が辺荒を跨ぎ帯び、我が北面に抗衡し、我が魏の疆を馳駆したのである。英なるかな吾子、独り天の霊を含む。神の祇か、人の精か。何と思いの深いこと、何と徳の清いこと。世を異にして夢に通じ、同じ世に生まれられなかったことが恨めしい。
  • (同)子の八陣を推せば孫子・呉子にもなく、木牛の奇は公輸般の型にも比べうる。神弩の功は何と微妙なこと、千の井を斉しく甃むのも何と秘要なこと。昔の顛頡・夭は名があって跡がない。我らのために良い籌と妙な画を残した吾子とは比べられぬ。臧文仲は歿して言によって称されたが、子の言と行がともに徴される方には及ばぬ。夷吾(管仲)は玉に瑕を残し、樂毅は終わりを全うしなかった。どうして爾の明哲に比べられよう。
  • (同)冲を守って臨終に寄託を受け、譲は許由に過ぎた。扆を負って事に莅み、民の言は流言とならず、刑は鄭に中り、教は魯より美しく、蜀の民は恥を知り、河・渭は安堵した。皋陶でなければ伊尹であり、管仲・晏嬰の比ではない。聖宣(孔子)が慷慨してしばしば嘆じたのも、これに似る。
  • (同)昔、爾が隠れてこの宅を卜したのは、仁智の処るところ、規と廓なきを得ようか。日は居り月は諸り、時はその夕べに殞ちる。誰が歿せずにおれよう。貴いのは遺した格を持つことだ。ただ子の勲だけが風を来世に移し、余の典を詠歌して懦夫をも励ます。遥かなり邈かなり、その規は卓れている。凡そ吾子のごときは究めがたい。昔日は道を異にして万里を隔てたが、今、我は来て爾の故墟を覿る。漢の高祖は魂を豊沛に帰し、太公は五世にして周に反った。魍魎を想って髣髴とし、影響の残ることを冀う。魂にして霊あらば、これを識るであろうか。
  • (裴晉公「蜀丞相祠堂碑銘」より)度(裴度)はかつて旧史を読んで往哲を詳らかに求めたが、君に事える節を秉りながら国を開く才のない者、身を立てる道を得ながら人を治める術のない者がいる。四つを備えて兼ね行った者は、蜀の丞相諸葛公その人である。公の本系は簡策にあり、大名は天地とともにあって今さら言うまでもない。
  • (同)漢の祚が衰え人心が競い逐うとき、威を取り霸を定める者は賢を求めて及ばぬかのようであり、器を身に蔵する者は主を択んでから動いた。公はこのとき南陽に躬耕して自ら管仲・樂毅になぞらえた。まだ虎に従わぬうちから世に臥龍と称された。『詩』に「潜みて伏すといえども、また孔だ昭らかなり」とある。だから州平は心を寄せ元直は神交した。三顧に至って馳駆を許し、一言でその機勢を定めた。
  • (同)こうして劉氏を翼け扶けて旧服を継がせ、呉と結んで魏に抗し、蜀を擁して漢を称した。刑政は荒外にまで達し、道化は域中に行われた。誰が険阻の地を強国となせようか。誰が脆弱の兵を励まして勁兵となせようか。地に常の形はなく人に常の性はない、我より作せば金が鎔にあるようなものだと知られる。
  • (同)九州の地のうち魏が七つを有し、我には一つもない。僻陋から雄図を啓き、封疆を出て大敵を延き、財用は足りても「我を浚って生かす」とは言われず、干戈を動かしても「人を残なって逞しくする」とは言われなかった。南方を底定するにも力で制せず心服を取り、諸夏を震え上がらせるにも勝負を争わずその存亡を候った。人に法を加えても、たとい死に移されても怨まれず、人に徳が及べば、代を重ねても思われた。これこそ精義入神、誠より明らかになる者である。
  • (同)その人が在って政が挙がっていれば、四海は平らげられ五服も傾けられたろう。それを陳壽の評はその能事を極め尽くさず、崔浩の説はその成功を詰った。これはみな変詐の略で節制の師を論じ、進取の方で化成の道を語るものだ。誤りではないか。荊州を委ね棄てて三郡を遂に有せなかったのは、徳を増して宇宙を呑もうとしたのであって、武を黷して尋常の地を争わなかったのである。斜谷に出て武功に拠り、兵を分けて屯田して久しく駐する計とし、敵と塁を対して勝つべき時期を待ち、住民に雑じって空の邑に入るようであった。彼は気を喪い、我は威を養った。天が年を貸したなら、大漢の祀を継ぎ先主の志を成すのは難しくなかったろう。
  • (同)しかも権は一国を傾け声は八紘を震わせながら、上下に異なる辞なく、始終に愧じる色がなかった。五百年の運に膺り道が生知に冠たる者でなければ、どうしてここに至れよう。だから玄德という人を知る明ある者が「魚に水あるがごとし」と頼み、仲達という姦人の雄が「天下の奇才」と嗟称したのである。度はつねにその行事を辿りその遠い心を測って、短い札を奮って群議を排したいと願ったが、文字が拙く志は果たせなかった。
  • (同)元和二年(807年)冬十月、聖上は西南の要地が寇乱の余孽に苦しみ、疲れた民が息まず汚れた俗が清まらぬとして、股肱の臣を割いてその父母とされ、相国臨淮公に詔された。公は鈞を秉る重きから推轂の寄を承け、戎軒が降ると藩服は治まり、帝道を明らかにして辺陬を綏め懐け、仁風をあまねく暢べたので、閭閻は栄え、府中に留まる事なく、宇下に棄てられる才なく、人は向かうべき方を知り、我に余地があった。とすれば諸葛公の昔の治と相国の今の政は、代を異にして法を同じくする。
  • (同)度は庸薄の身で管記に参じ、旌旄に随って止まり、祠宇を望んで謁を修めた。象るべき儀があってその霊は赫々としているのに、徽烈は忘れられずとも碑表は立っていない。古人は一つの善に拳々とし、一城の長であっても文を流して後裔に示した。まして「仁の如し」との嘆が終古絶えぬ方に、それを欠いてよいものか。そこで貞石に刻み、この都の人が必ず拝する感を存することを庶う。
  • (同・銘)昔、先主は疆宇を啓こうと思ったが、擾乱して依るところなく、英雄でありながら輔けがなかった。ここに武侯を得て、まず蜀の土を定め、道徳を城池とし礼義を干櫓とした。物を煦めること春のごとく、人を化すること神のごとし。労しても怨まれず、用いるに倫があった。蛮落を柔らげ服させ、渭浜に敦く布いた。跡を摂して威を畏れさせ、雑居して仁を懐かせた。中原は食事も遅れ、測れず克てず、勝つべき時を待ってその極みに臻った。天がまだ禍を悔いず、公の命は果たされなかった。漢の祚は亡び、将星は中途に墜ちた。旗を返し鼓を鳴らして、なお司馬を走らせた。死して作すことができるなら、天下を小さしとしたろう。尚父は周を作し、阿衡は商を佐け、齊の管仲・晏嬰を兼ね、漢の蕭何・張良を総べる。代を易え地を易えて理めても、遭遇の豊約は同じであったろう。ああ、奇謀は奮い発ったが、美しい志は夭れ遏まれた。ああ、厳しく立って皆が謫罰を受けながら、これを聞いて痛み、泣く者も絶える者もあった。甘棠は翦らず、駢邑は奪われた。これによって言えば、途は異なっても轍は同じく、本は忠恕にある。誰が感じ悦ばぬだろう。誠慤でなければ、いくら固く結んだと言っても空しい。古い柏は森々とし、遺廟は沈々として、禋祀は絶えず今日に至る。驚き奔らぬ者なく、照り臨むものがあるかのようだ。蜀国の風、蜀人の心、錦江の清らかな波、玉壘の峻しい岑、海に入り天に際するさまは、公の徳音のようである。

詩賦

  • 杜少陵「謁先主廟」——風雲の会に乗じてそれぞれ人がいたが、力は社稷を分かつに侔しく、志は経綸に屈した。漢を復す長策を留め、中原は老臣に仗った……と詠み、廟の荒廃と英雄の遺恨を述べ、末に「向来、国を憂うる涙、寂寞として衣巾に灑ぐ」と結ぶ。関羽・張飛と並び耿弇・鄧禹に比べて、その才の大きさを歌う。
  • 同「諸葛廟」——巴子の国に久しく遊び、しばしば武侯の祠に入る、と起こし、君臣が共に事を済し賢聖が時を同じくしたことを述べ、画壁を虫蛇が穿ち巫覡が蜘蛛の糸に酔う荒廃を嘆じ、梁父を吟じた躬耕の起ちも遅くはなかったと結ぶ。
  • 同「武侯廟」——遺廟の丹青は落ち、空山に草木が長けている。なお後主に辞した言葉が聞こえるようで、もはや南陽に臥すことはない、と四句で詠む。
  • 同「八陣圖」——功は三分の国を蓋い、名は八陣図に成る。江は流れても石は転ばず、遺恨は呉を呑もうとしたことにある、と四句で詠む。
  • (東坡『志林』より)私はかつて夢に杜子美と名乗る人を見た。「世人は私の八陣図の詩を誤解して、先主と武侯が関羽の仇を復そうとしたのに呉を滅ぼせなかったのが恨みだ、と解している。そうではない。私の本意は、呉と蜀は唇歯の国で互いに図るべきではなく、晉が蜀を取れたのは蜀に呉を呑む意があったからだ、それが恨みだ、というのだ」と言った。子美が死んで四百年、なお詩を忘れず細々と自ら意を弁じている。まことに書生の習気か。
  • 同「古柏行」——孔明廟の前の老柏を歌う。枝は青銅、根は石のごとく、霜の皮は雨に濡れて四十囲、黛の色は天に参して二千尺。君臣はすでに時に会したが、樹木はなお人に愛惜される……と続き、大廈が傾けば梁棟を要するのに万牛は首を回らす重さだと詠み、「古来、材大なれば用を為しがたし」と結ぶ。
  • 同「蜀相」——丞相の祠堂はどこに尋ねようか、錦官城の外、柏が森々としている。階に映える碧草はおのずと春の色、葉を隔てた黄鸝はいたずらに好い音をたてる。三顧の頻繁は天下の計、両朝を開き済した老臣の心。出師いまだ捷たずして身は先に死し、長く英雄をして涙に襟を満たさしむ。
  • 同「咏懐古跡」二首——その一は「蜀主は呉を窺って三峡に幸し、崩年もまた永安宮に在り」と起こし、翠華を空山に想像し、玉殿は野寺の中に虚しいと詠じ、武侯の祠屋が長く隣り合い、君臣が一体として祭祀を同じくすることを述べる。その二は「諸葛の大名は宇宙に垂れ、宗臣の遺像は粛として清く高し」と起こし、三分割拠に籌策を紆らせ、万古の雲霄に一羽毛と称え、伊尹・呂尚の伯仲にあり、指揮が定まれば蕭何・曹参も色を失うと言い、「運は移りて漢祚は終に復しがたく、志は決して身は殱び軍務に労す」と結ぶ。
  • 東坡「八陣図」詩(節)——平沙は茫々として、髣髴として石の蕝が見える。縦横に江上を満たし、年々、砂と水に噛まれる。孔明が死んで久しく、誰がまたその行列を弁じよう。神兵は学んで到るものではなく、古より訣を留めない。至人の心はすでに悟っている。後世はいたずらに妄説するだけだ。
  • 掲奚斯の詩(節)——八陣は神明に通じ、二表は穹蒼を貫く。天運に隆替はあれど、吾が君は自ら虞・唐である。煌々たる十萬の師、声威は八荒を揺るがした。大星は渭南に隕ち、万古の悲傷となった。ただ漢と賊の分が立てば、どうして終に亡ぶことがあろうか。
  • 楊鐵崖「八陣図賦」——蠶叢の故墟の遥かさに始まり、剣閣の峥嶸と石桟の縈紆、車も馬も通えぬ地は王業の基ではないと言い、中山王の苗裔がこの隅に厄せられたことを嘆く。黄星が宋野を射て強猘が江東に吠えるとき、伏龍が感激して隆中を顧みて起った。八陣を図いて武に用いたのは先天にして独り得たもので、六十四の成算は馬図の全画に本づき、三十二の岐分は陰陽の互いに宅ることの妙である、と説く。
  • (同)続けて、天地の衝軸に風雲が盤り辟け、龍が飛び鳥が逝き蛇が蟠り虎が翼を張るごとく、撓めても跡なく運らせても方なく、進退に愆ちなく出没に常がなく、奇は正を失わず怪は堂々を越えぬ、至静に至動を伏せ、能剛に能柔を寓すと讃え、常山の蛇の勢に喩えてもなおその大きさを測れぬと言う。巴の水は崖を砕き壁を折り、峡の濤は風霆のごとくだが、箕を張り翼を布いた石は転ばぬ。神物が陰に衛るのでなければ、誰が万夫の力で支えられよう、と続ける。
  • (同)末では、貔貅が塁に対し白羽の一麾を指すさまを想い、縦擒を掌握に運らせて算は八奇を出でず、賊は望んで走り巾幗を受けて雌たるに甘んじたと言い、渭浜の屯こそ鼎国の王師であったと断ずる。風后の図から尚父の六韜、孫子・呉子・司馬の剽掠までを並べ、腐儒(譙周)の敗事を鄙しみ、この八陣は軒轅・天老をも凌ぐと称える。流馬と木牛も神機の造るところ、中営に変を告げて夫人(諸葛亮)を早く奪われたことを哀しみ、黄芒が天に当たって炎精の皜々たるを掩ったと嘆く。最後に岷峨を西に望み錦江を南に遡り、梁父を歌って觴を釃み、謫仙を招き子長を呼び、魚復の沙磧を訪ね新都の戦場を弔い、武が今の時に用いられずとも我が文の気を剛くすると結ぶ。

跋──客との問答

  • (楊時偉の跋より)この書が成ったとき、読み終えた客が笑って言った。「忠武はこれで尽きているのか。文中子は『諸葛亮にして死なざれば、礼楽はそれ興らんか』と言った。あなたはそれを落としている。なぜか」。時偉は蹶然として起ち、「私の誤りだ」と言った。そう思って見れば、宋儒の諸先生の評論を一つも載せていない。客の言がなくとも、自分がよく忘れて多く落とすことは分かっていた。
  • (同)客は「一人の見識では一書を尽くせず、一書の記録では千古を備えられぬ。何を疑うことがありましょう」と言った。時偉が「ひそかに観るに、宋儒の諸先生はみな文中子の言をもって孔明を許さない。どういう説なのか」と問うた。
  • (同)客は答えた。「名が正しくなければ言は順わず、言が順わなければ事は成らず、礼楽は興らぬ。孔明の言に『漢と賊は両立せず』とある。名は正しく言は順っている。何事が成らぬだろう。揖譲も征誅も備わらぬところはない。刑罰が中って感泣し発病する者まで出た。唐虞三代の規模、高祖・光武二祖の締構は、孔明に至って遺憾がない。これを捨てて別に礼楽を求めるなら、それは後世の礼楽であって、決して堯舜周孔の礼楽ではない。
  • (同)しかも孔明が蜀で名を正したのは、夫子が衞で名を正したのと同じだ。その雍容たる礼楽は言うまでもなく、身は敵の廷に死に、子も孫も戦地に死んで、慷慨従容として天地と和節を同じくした。かの南渡の宋は言うも憚られる有様で、礼はすでに壊れ楽はすでに崩れているのに、干戈を釈いて礼楽を談じ、しかも干戈の外に礼楽を求めた。とすれば蜀はいまだ亡びず、宋はいまだ存していないのだ。
  • (同)宋のために計るなら、君は苫と塊に死に、臣は金革に死に、岳武穆の壮心怒髪のごとく黄龍府を直ちに衝いてこそである。たとい不幸にして斬られ滅亡しても、奄然覿然として百年の安を偸み多くの辱めを受けるよりましではないか」。
  • (同)時偉が「孔明や鵬挙(岳飛)なら必ず魏を殄し金を摧けたか」と問うと、客は「それは分からぬ。司馬懿の善く守り宗弼の善く謀るのは、一時に死命を制せる相手ではない。しかも孔明も鵬挙も孤忠を独り運らせ、助ける者が少なかった。営星が墜ちたことも誣獄に沈んだ冤も、天が順を助けなかったとはいえ、必ずしも二侯の終わりを善くする所以でなかったとはいえまい」と答えた。
  • (同)客が退いてからその言を思い返すと、考えるべきものがあった。そこで併せて録して、自らの忘れやすさを戒めとする。己未(1619年)六月望、酷暑の日、臝孫が瓜牛廬の中に記す。