諸葛忠武書法を行い自らを検める(法檢)

編者按

  • 原集は「法檢」が何を扱うか言わず、『武侯全書』は刑罰に属させている。おおむね近いだろう。ただし下を裁くことばかり記して、自らを検めることに及んでいない。
  • 群下に「勤めて私の欠けを攻めよ」と敕し、「直言に違い覆すこと」を望み、「成らねば臣の罪を治めて先帝の霊に告げよ」と言い、自ら三等の降格を請うて軍を喪った咎を負った。とすれば、法檢は下を馭することだけではないと言ってよい。
  • 郭沖の記事はことに政体に関わるので、特に採って篇の初めに置いた。

蜀を治める法──厳を尚ぶ

  • (郭沖五事の一より)諸葛亮が蜀を治めるのにかなり厳峻を尚んだので、法正が言った。「昔、高祖は関に入って法三章を約し、秦の民はその徳を知りました。今、君は威力を借りて一州を跨ぎ拠り、国を有ったばかりでまだ恵撫を垂れていません。しかも客と主の義として互いに降るべきです。どうか刑を緩め禁を弛めて、その望みを慰めてください」。
  • (同)亮は答えた。「君は一を知って二を知らぬ。秦は無道で政は苛く民は怨み、匹夫が一声叫んで天下は土崩した。高祖はそれに乗じて大きく済えたのだ。劉璋は暗弱で、劉焉以来、累世の恩がありながら徳政は挙がらず威刑は粛まらなかった。蜀の人士は権を専らにして恣にし、君臣の道は次第に廃れた。位で寵すれば位が極まって主を賤しみ、恩で順わせれば恩が尽きて慢る。弊に至った原因は実にここにある。
  • (同)今、私は法で威し、法が行われてこそ恩を知らせる。爵で限り、爵が加えられてこそ栄を知らせる。栄と恩がともに済えば、上下に節度ができる。政を治める要はここに現れるのだ」。

赦を軽々しく下さぬ

  • 丞相亮の時、「公は赦を惜しむ」と言う者があった。亮は答えた。「世を治めるのは大徳によるのであって小恵によらぬ。だから匡衡・呉漢は赦を願わなかった。先帝も『私は陳元方・鄭康成の間に周旋し、治乱の道を説き聞かされて備わったが、赦については語られなかった』と言われた。景升(劉表)・季玉(劉璋)父子のように毎年赦宥しても、治にどんな益があろう」。だから亮の時は軍旅がたびたび興ったが、赦を妄りに下さなかった。

自らを検める言葉

  • (前出師表より)聖聴を開き広げて先帝の遺徳を光らせ、志士の気を大きくすべきで、みだりに自らを卑しめ、たとえを引き違えて忠諫の路を塞いではならない。宮中と府中は一体であり、昇進も処罰も善悪の評価も異にしてはならない。姦を作し科を犯す者、忠善を尽くす者があれば、有司に付して刑賞を論じ、陛下の公平明察な政を明らかにすべきで、偏り私して内外の法を異にしてはならない。
  • (同)願わくは陛下、臣に賊を討ち興復する成果を託されよ。成らなければ臣の罪を治めて先帝の霊に告げられよ。徳を興す言がなければ攸之・禕・允らの怠りを責めてその咎を明らかにされよ。陛下もまた自ら謀って善道を諮り、雅言を察して納れられよ。
  • 街亭の敗の後、亮は上疏した。「臣は弱い才で分不相応の地位を掠め、自ら旄鉞を秉って三軍を属した。にもかかわらず章を訓え法を明らかにできず、事に臨んで懼れ、街亭で命に違う欠けを生じ、箕谷で戒めを怠る失を招いた。咎はみな臣が任を授けるのに方を得なかったことにある。臣は明らかならずして人を知らず、事を恤むのに暗いところが多い。『春秋』は帥を責める。臣を責めるのが当然である。自ら三等を降して咎を負いたい」。こうして亮を右将軍・行丞相事とした。
  • ある人が亮に増兵を勧めると、亮は言った。「大軍は祁山にも箕谷にもいて、いずれも賊より多かった。それで賊を破れず、かえって破られたのだ。とすれば病は兵が少ないことにはなく、一人(私)にある。今は兵を減らし将を省き、罰を明らかにして過ちを思い、将来のために変通の道を考えたい。それができぬなら兵が多くても何の益があろう。今より後、国のために忠を尽くそうとする者は、ただ勤めて私の欠けを攻めよ。そうすれば事は定まり賊は死に、功は足を挙げて待てる」。
  • こうして小さな労を考え、壮烈を選び顕し、咎を引いて身を責め、失を天下に布告し、兵を励まし武を講じて後図とした。戎士は簡練され、民はその敗を忘れた。
  • (群下への教より)参署とは衆の思いを集めて忠益を広げるものだ。小さな嫌疑を憚って互いに違い覆すことを遠ざければ、欠けが生じて損なわれる。違い覆して中を得るのは、敝れた履を棄てて珠玉を得るようなものだ。しかし人の心は言い尽くせぬのが苦しく、ただ徐元直だけはそこに惑いがなかった。また董幼宰は参署して七年、事に至らぬところがあれば十度でも往復して申し出た。もし元直の十分の一、幼宰の殷勤さに倣って国に忠を尽くしてくれるなら、亮の過ちも少なくなろう。
  • (同)昔、初めて州平と交わってたびたび得失を聞き、後に元直と交わって熱心な教誨を受けた。以前は幼宰に参軍として仕えられ、言えばつねに尽くしてくれた。後には偉度(楊顒)に事を従わせ、たびたび諫めて止められた。姿性は鄙しく暗くてすべては納れられなかったが、この四人とは終始よく合った。私が直言を疑わぬことの証にはなろう。
  • 亮はかつて自ら後主に表した。「成都に桑八百株、薄田十五頃があり、子孫の衣食は自ずと余りがあります。臣が外に任ずるにあたっては別の調度はなく、身に随う衣食はすべて官に仰ぎ、別に生業を営んで尺寸を増やすことはしません。臣の死ぬ日には、内に余った帛、外に余分な財を残して陛下に負くことのないようにいたします」。卒したときは、その言葉の通りであった。
  • (編者按)以上の六則は、あるいは時宜を斟酌し、あるいは宮府を糾し縄すもので、互いに切磋するばかりでなく、自ら影と衾に恥じぬかを勘べている。法檢の途はここにおいて広い。千古の聖賢豪傑も、誰がこれを越えられよう。物を検めるだけの話ではないのである。

劉封

  • 劉封はもと羅侯寇氏の子。先主が荊州に至ったとき、まだ嗣子がなかったので封を養って子とした。武芸があり気力は人に過ぎ、兵を率いて西上し行く先々で勝った。
  • 関羽が樊城・襄陽を囲んで続けて封に発兵の助けを呼びかけたが、封は羽の命を承けなかった。折しも羽が覆敗し、先主はこれを恨んだ。また孟達と忿り争って達の鼓吹を奪った。達は罪を懼れ、かつ封を怨んで、ついに上表して先主に辞し、率いる兵とともに魏に降った。魏は達を遣って封を襲わせ、封は破れて成都に走り還った。
  • 先主は封が達を侵し陵いだこと、羽を救わなかったことを責めた。亮は封が剛猛で、代が替われば結局は制御しがたいと慮り、これを機に除くよう先主に勧めた。

彭羕

  • 彭羕、字は永年、治中従事となった。羕は徒歩の身から一朝にして州の人の上に立ち、顔つきも態度も驕り高ぶって自ら得意になっていた。諸葛亮は外では羕を待遇したが、内心はよく思わず、たびたびひそかに「羕は心が大きく志が広い。安んじて保ちがたい」と言った。先主は亮を敬い信じていたので、あらためて羕の行いを察し、次第に疎んじて江陽太守に左遷した。
  • (彭羕傳より)羕は遠方へ出されると聞いて内心悦ばず、馬超を訪ねた。超が「卿は才が秀で抜きん出て、主公の待遇も至って重い。孔明・孝直らと足を斉しくして駆けるべき人が、外の小郡に授けられて本望を失うことがあろうか」と問うと、羕は「あの老いぼれの荒れ狂った男に、何を言うことがある」と答えた。さらに超に「卿が外を、私が内を担えば、天下は定めるに足りぬ」と言った。超は旅の身で国に帰した者としてつねに危懼を抱いていたので、羕の言に大いに驚き、黙って答えず、退いてその言をつぶさに表した。そこで羕は捕らえられて有司に付された。
  • (同)羕は獄中から諸葛に書を送った。「私は昔、諸侯に仕えて、曹操は暴虐、孫権は無道、振威(劉璋)は暗弱で、ただ主公にだけ霸王の器があると考えました。公が西へ来られたとき、私は法孝直の伝手で自らを売り込み、龎統がその間を取り持って、葭萌で公にお目にかかり、掌を指して語り、治世の務めを論じ霸王の義を講じ、益州を取る策を建てました。公もかねて思案しておられて明らかに定め、すぐさま賛同されました。風雲に遭い矢の飛ぶ中で、君を求めて君を得、志は行われ名は顕れた。分に過ぎた厚遇として、これに勝るものがありましょうか。
  • (同)どうして羕が一朝にして狂い悖り、自ら醢にされて不忠不義の鬼となることを求めましょう。先人の言に『左手に天下の図を握り、右手で喉を刎ねるようなことは、愚か者でもせぬ』とあります。まして私は菽と麦の区別くらいはつく者です。怨み望むところがあったとすれば、事業を興す先頭に立ちながら江陽へやるとの論が出たからで、酒に酔って年寄り呼ばわりの言葉が口を滑っただけです。主公はまことに老いてなどおられません。しかも業を立てるのに老少は関係ありません。西伯は九十でも志が衰えましたか。慈父たる主公に背いた罪は、百度死んでも足りません。
  • (同)内と外の言については、孟起(馬超)に北州で功を立てさせ、力を尽くして主公と共に曹操を討たせようとしただけで、どうして他意がありましょう。孟起がそう説いたのは正しいのですが、その間を分けて説明しなかったのが心を痛ませます。足下は当世の伊尹・呂尚です。よく主公と事を計り、その大猷を成してください。天は明らかに地は察し、神祇に霊があります。もう何を言いましょう。ただ足下に私の本心を明らかにしたいだけです。行きます。努めて自愛、自愛なさいませ」。羕はついに誅せられて死んだ。

廖立

  • 廖立、字は公淵。立はもともと、自分の才名からして諸葛亮に次ぐ地位にあるべきだと思っていたのに、閑職に回されて李嚴らの下に置かれたので、つねに怏々としていた。
  • 亮は立を表して言った。「長水校尉の廖立は自ら貴く大きく構えて群士を品定めし、『国家は賢達を任じず俗吏を任じている』と公言し、また『萬人を率いる者はみな小僧だ』と言う。先帝を誹謗し衆臣を疵つけ毀る。ある人が『国家の兵衆は簡練され部伍は分明だ』と言うと、立は頭を上げて屋根を見上げ、憤り舌打ちして色をなし『言うに足るか』と言った。この類は数え切れぬ。羊が群れを乱してさえ害となる。まして立は大位に託されている。中人以下に真偽が見分けられようか」。こうして立を廃して民とし、汶山郡へ移した。立は自ら妻子を率いて耕し、身を守って暮らした。諸葛亮の卒を聞くと涙を垂れて「私はついに左衽(夷狄の風)になるのか」と嘆じた。
  • (亮集の表より)立は先帝に奉仕して忠孝の心がなく、長沙を守れば門を開いて敵につき、巴郡を領すれば暗く卑しい振る舞いがあり、大将軍に随えば誹謗し譏り、梓宮に侍すれば刃を挟んで梓宮のかたわらで人の首を斬った。陛下の即位後、あまねく職号を増したとき、立は同輩並みに将軍とされた。すると私に面と向かって「私がどうして諸将軍の中にいるのが相応しいのか。表して卿(九卿)の上、五校に置くべきだ」と言った。臣は「将軍としたのは同輩並みにしただけです。卿については正方(李嚴)もまだ卿ではありません。まずは五校に処すべきでしょう」と答えた。それ以来、怏々として恨みを抱いた。
  • (同)詔に言う。「三苗が政を乱したとき、有虞は流して宥した。廖立は狂惑だが、朕は刑するに忍びない。急ぎ不毛の地へ移せ」。

馬謖

  • 馬謖は才器が人に過ぎ、好んで軍計を論じ、丞相亮は深く器として重んじ、参軍とした。
  • 建興六年(228年)、亮が出軍して祁山へ向かったとき、魏延・呉壹ら宿将がおり、論者はみな彼らを先鋒にすべきだと言ったが、亮は衆に違って謖を抜擢した。謖は魏の将張郃と街亭で戦って破られ、士卒は離散した。亮は進んでも拠るところがなく、軍を退いて漢中に還り、謖は獄に下されて死んだ。亮はこれに涙を流した。
  • (弇州続稿「書馬謖傳後」より)向朗傳を調べると、朗はもとより謖と親しく、謖が逃亡したとき事情を知りながら告げなかったので、亮は恨んで免官し成都に還した。とすれば謖は逃げたのであり、自ら司敗に帰して死のうとせず、捕らえられてようやく得られたのだ。誅されずに済むはずがない。
  • (編者按)冏伯は「謖には死罪が二つある。誅されずにおられようか」と言っている。家庭の議論には由来があると知られる。引き落とした事もまた少なくないだろう。

李平(李嚴)

  • (李平傳より)建興九年(231年)春、亮が祁山に軍したとき、平は輸送を督したが、長雨に遭って糧が続かず、参軍の狐忠と督軍の成藩を遣って旨を伝え、亮を呼び戻した。亮はそれを承けて軍を退いた。ところが平は軍が退いたと聞くと、わざと驚いて見せて「軍糧は十分にあるのに、なぜ帰ったのか」と言った。自分の不手際の責めを逃れ、亮が進まなかった咎を際立たせようとしたのである。さらに後主に「軍が偽って退いたのは賊を誘うためです」と表した。亮が前後の平の直筆の書簡を並べて出すと、本末の食い違いが明らかになった。平は言葉に窮し、頭を下げて罪を謝した。
  • (同)そこで亮は平を表した。「先帝の崩後、平は在るところで家を治めて小恵を尚び、身を安んじ名を求めて、国を憂える事がなかった。臣が北へ出るにあたり、平の兵を得て漢中を鎮めたいと思ったが、平は難癖を並べて来る気がなく、五郡を割いて巴州刺史にせよと求めた。昨年、臣が西征しようとして平に漢中を督させようとすると、平は司馬懿らが府を開いて辟召していると言い出した。臣は平の鄙しい心根が、出征の際に乗じて臣に迫り利を取ろうとしていると知った。
  • (同)そこで平の子豐を表して江州を督主させ、その待遇を隆く崇くして一時の務めを取った。平が着いた日にはすべての事を委ね、群臣上下はみな臣が平を厚遇するのを怪しんだ。ただ大事が未だ定まらず漢室は傾き危ういので、平の短を伐つより褒めるに如かずと考えたのだ。しかし平の情は栄利にあるだけで、心がここまで顛倒しているとは思わなかった。事が滞れば禍敗を招く。これは臣が敏からず、言葉が咎を増した結果である」。
  • 建興十二年(234年)、平は亮の卒を聞いて発病して死んだ。平はつねづね亮が自分を補い復してくれると期待していたが、後任の者にはそれができぬと見て、激憤したのである。
  • (亮集より)嚴が亮に、九錫を受け爵を進めて王を称すべきだと勧める書を送った。亮は答えた。「私と足下は相知って久しい。それでも分かってもらえぬのか。足下はまさに『国を光らせよ、拘るなかれ』と教えてくれているのだから、黙ってもおれぬ。私はもと東方の下士で、誤って先帝に用いられ、位は人臣を極め禄賜は百億に及ぶ。今、賊を討って成果がなく、知己に報いてもいないのに、斉・晉の例に寵せられ、坐して自ら貴く大きくなるのは義ではない。もし魏を滅ぼし叡を斬り、帝が旧居に還られたなら、諸君と共に昇り、十命でも受けよう。まして九においてをや」。
  • (亮の公文・上尚書より)平は大臣として過分の恩を受けながら、忠をもって報いることを思わず、根も葉もないことを構えて上下を迷わせた。自ら奸が露れたと察して嫌う心を生じ、軍が至ると聞けば西へ向かい、病と称して沮漳へ還り、軍が沮に至るとまた江陽へ還った。平の参軍狐忠が懸命に勧めてようやく止まった。今、簒賊は滅びず社稷には難が多い。国事はただ和によってこそ克ち捷てる。包み隠して大業を危うくしてはならぬ。よって表して平の任を解き、その爵土を削る。

来敏

  • 来敏、字は敬達、来歙の後裔。虎賁中郎将となった。丞相亮が漢中に住したとき請うて軍祭酒・輔軍将軍としたが、事に坐して職を去った。
  • (亮集の教より)将軍来敏は上官に向かって公然と「新参の者に何の功徳があって、私の栄と資を奪って与えるのか。皆で私を憎んでいるのは、どういうわけだ」と言った。敏は年老いて狂い悖り、こんな怨言を生じた。昔、成都が定まったばかりのころ、議者は来敏が群を乱すとしたが、先帝は新たに定まった際なので含み容れて礼遇も任用もされなかった。後に劉子初が選んで太子家令としたときも、先帝は悦ばぬまま拒むに忍びなかった。後主の即位後、私は人を知るに暗く、また擢いて将軍祭酒とした。議者の明察に違い、先帝が疎んじ外されたのに背いたのは、自分が厚い教化で薄い俗を励まし、義をもって率いられると思ったからだ。今はもうできぬので、表して職を退け、門を閉じて過ちを思わせる。

孟達

  • (亮の孟達への書より)ちょうど李鴻と漢陽で会い、消息を承って慨然と長く嘆じ、足下の平素の志を思った。どうしていたずらに名や栄を空しく託し、華やかさを貴んで離れることがあろうか。ああ孟子(孟達)よ、これは実に劉封が足下を侵し陵いだために、先主が士を待つ義を傷つけたのだ。また鴻の言うところでは、王沖が「足下は私の心を量って」と虚言を作ったというが、私は沖の説を受けなかった。ほどなくそれを表明する言葉も届いた。平生の好みを追って、依依として東を望んでいる。だから使いに書を持たせた。
  • (費詩傳より)降人の李鴻が来て亮に言った。「先ごろ孟達のもとを過ぎたとき、ちょうど王沖が南から来ていて、『以前、達が去就したとき、明公は切歯して達の妻子を誅そうとしたが、先主が聴かなかっただけだ』と言いました。達は『諸葛亮の私への顧みには本末がある。決してそんなことはない』と言って、まったく沖の言を信ぜず、明公を仰ぎ委ねることに変わりはありません」。亮は「都に還ったら子度(孟達)に書を送って通じよう」と言った。詩は進み出て「孟達の小僧は、昔は振威(劉璋)に仕えて忠でなく、後には先主に背き叛いた。反覆常なき人に、どうして書を送るのですか」と言った。亮は黙って答えず、達を誘って外援にしようと考え、ついに達に書を送った。
  • (編者按)孟達のような反覆の徒は、侯の調御をもってしても及ばぬところである。だから法檢に附して、侯の書簡を残しておく。