諸葛忠武書人を用いる(調御)
編者按
- 『武侯全書』には「調御」と「法檢」があり、いずれも人を用いる事だと思われるのに三つに分けている。主を明らかにし法を揚げるのは「用人」、専断して幽き者を斥けるのは「法檢」、旧知や僚友は「調御」に属させていた。
- 私はとりわけ「調御」という名を好む。調とは諧わせること、御とは駕すること。駕し御して諧和させれば、人を用いる道はそれで尽きる。そこで「用人」を削って調御に併せた。なお黄権と孟達はすでに降虜であって残すに足りぬので、特に除いた。
龎統
- 龎統、字は士元、襄陽の人。耒陽令を務めて治績が上がらず免官された。呉の将魯肅が先主に書を送って「龎士元は百里の才ではありません。治中・別駕の任に処してこそ、その驥足を伸ばせます」と言い、諸葛亮も先主に推した。先主は会って語り合い大いに器として治中従事とした。亮が荊州に留まって鎮すると、統は従って蜀に入り、衆を率いて城を攻め、流矢に当たって卒した。時に年三十六。先主は痛惜し、口にするたび涙を流した。統の父を議郎に拝し諫議大夫に遷し、諸葛亮が自らこれを拝した。
- 統は若いころ愚鈍で認める者がなかった。潁川の司馬徽は清雅で人を見る目があり、統は弱冠で徽を訪ねた。徽は木の上で桑を採りながら、統は木の下で語り合い、徽は甚だ異として「南州の人士の冠冕」と称した。これによって次第に名が現れた。
- 後に郡の功曹となった。人物評を好み後進を育てるのに勤め、称賛はしばしばその才を過ぎた。時の人が怪しんで問うと、統は「今、天下は大乱し雅道は衰え、善人は少なく悪人が多い。風俗を興し道業を長じさせようというのに、その評判を美しくしなければ、名声は慕うに足りず、慕うに足りねば善をなす者も少なくなる。今、十人抜いて五人外しても半分は得られる。それで世の教えを高められ、志ある者が自ら励むなら、よいではないか」と答えた。
- 呉の将周瑜が卒したとき、統は喪を送って呉に至った。呉の人が昌門に集まり、陸績・顧劭・全琮もみな来た。統は「陸子は駑馬だが逸足の力がある。顧子は駑牛だが重きを負って遠くへ致せる」と評し、全琮には「卿は施すことを好み名を慕う。汝南の樊子昭に似ている。智力は多くないが、これも一時の佳士だ」と言った。
- (張勃『呉錄』より)劭が統のもとに泊まって語り、「卿は人を知るので名高いが、私と卿とどちらが優れているか」と問うた。統は「世俗を陶冶し人物を選び分けることでは私は卿に及ばぬ。帝王の秘策を論じ、禍福の倚り伏す要を掴むことでは、私に一日の長があろう」と答えた。劭はその言に納得して親しんだ。
法正
- 法正、字は孝直、扶風郿の人。蜀郡太守となり、外は都畿を統べ内は謀主となった。一飯の恩も睚眦の怨みも必ず報い、自分を害した者を数人ほしいままに殺し傷つけた。ある人が諸葛亮に「法正は蜀郡であまりに横暴です。将軍は主公に申し上げてその威福を抑えるべきです」と言った。亮は「主公が公安におられたころは、北は曹操の強きを畏れ、東は孫権の圧迫を憚り、近くは孫夫人が肘元で変を起こすのを懼れておられた。あの時、進退は窮まっていたが、法孝直が翼となって助け、翻然と翺翔して制せられなくなったのだ。どうして法正を禁じて意を行わせぬなどできよう」と答えた。
- 亮と正は好むところは同じでなかったが、公義において互いを認め合い、亮はつねに正の智術を奇とした。先主が孫権を東征したとき群臣の多くが諫めたが、一つも聴かれなかった。章武二年(222年)に大軍が敗れて白帝に還ると、亮は「法孝直が生きていたら主上を制して東行させなかったろう。たとい東行しても、必ず危うくはならなかったろう」と嘆じた。
- (法正傳より)益州別駕の張松は正と親しく、劉璋では事を成せぬと見て、ひそかに嘆じていた。松は荊州で曹公に会って還ると、璋に曹公と絶って先主と結ぶよう勧めた。璋が「誰を使いにやれるか」と問うと、松は正を挙げた。正は辞退したがやむなく赴いた。正は還ると松に先主の雄略を語り、ひそかに共に推戴しようと謀ったが機会がなかった。後に璋が曹公の張魯征討を聞いて懼れたので、松は先主を迎えて魯を討たせるべきだと説き、あらためて正に命を銜ませた。
- (華陽國志より)孫夫人は才知が鋭く剛猛で兄たちの風があり、侍婢百人がみな剣を持って侍立していた。先主は車を下りるたびに内心ひやりとしていた。正は先主に夫人を返すよう勧めた。
- (益部耆舊雜記より)張松は背が低く放蕩で節操を修めなかったが、識見は達し精果で才幹があった。劉璋が曹公のもとへ遣ったが、曹公はあまり礼遇しなかった。曹公の主簿楊脩は深く器として、松を辟召するよう公に進言したが、公は容れなかった。脩が公の撰した兵書を松に見せると、松は宴飲の間に一読しただけで暗誦した。脩はこれでいよいよ奇とした。
許靖
- 許靖、字は文休、汝南平輿の人。人物を愛し後進を誘い納れ、清談に倦まなかった。丞相諸葛亮もこれを拝した。
- 靖は若くして従弟の劭と共に名を知られ、ともに人物評で称されたが、私情は合わなかった。劭が郡の功曹となると靖を排斥して官途に就けず、靖は馬に臼を挽かせて生計を立てた。
- 靖は親族を収め養い、生計を助けることは仁厚から出ていた。孫策が江を東に渡ると、みな交州へ走って難を避けたが、靖は岸辺に坐って、まず従う者や疎遠な親族まですべて船に乗せ、自分は後から去った。当時これを見た者で嘆息せぬ者はなかった。交趾に至ると太守の士爕が厚く敬い待遇した。
- 陳国の袁徽は交州に寄寓しており、尚書令の荀彧に書を送って「許文休は流浪して以来、多くの士と行を共にしたが、患難があるたびにつねに人を先にし己を後にし、九族の内外と飢寒を共にした。同類を統べる仁恕と惻怛には実績があり、いちいち述べ尽くせません」と言った。
- (王士騏の評)靖は城を越えて降ろうとして先主に薄んじられ用いられなかったが、法正が「天下には虚名を得ながら実のない者がおり、許靖がそれです。しかし天下の人を礼遇せねば、それをもって主公は賢を賤しむと言われます。敬い重んじて遠近の目を眩ますべきです」と説いた。だからこそ丞相孔明までがこれを拝した。英雄の見るところはおおよそ同じというものだ。
劉巴
- 劉巴、字は子初、零陵烝陽の人。先主が江南へ奔ったとき荊楚の群士は雲のように従ったが、巴は北の曹操のもとへ赴き、掾に辟されて長沙・零陵・桂陽の招撫を命ぜられた。折しも先主が三郡を取ったので巴は還れず、遠く交趾へ行った。先主は深くこれを恨んだ。巴は交趾から蜀に至り、まもなく先主が益州を定めると、巴は辞して罪を謝した。先主は責めず、孔明がたびたび称薦したので、先主は辟して左将軍西曹掾とした。
- (零陵先賢傳より)巴は零陵へ行ったが事が成らず、交州を経て京師へ還ろうとした。当時、諸葛亮は臨烝にいた。巴は亮に「危険を冒し険を渉ってここまで来たが、義を思う民が自ら人につき、天の心を承け物の性に順っているのを見た。私一人の謀で勧め動かせるものではない。道が窮まり数が尽きたら、命を滄海に託し、二度と荊州を顧みまい」と書き送った。亮は追って「劉公は雄才が世を蓋い、荊州の地を拠って徳に帰さぬ者はない。天と人の去就はすでに知れている。足下はどこへ行こうというのか」と言った。
- (同)張飛が巴のもとに泊まったとき、巴は口をきかなかった。亮は巴に「張飛は確かに武人だが、足下を敬い慕っている。主公は今まさに文武を集めて大事を定めようとしている。足下は天資が高く聡明だが、少しは意を降すべきだ」と言った。
董和
- 董和、字は幼宰、南郡枝江の人。先主が蜀を定めると和を徴して掌軍中郎将とし、軍師将軍諸葛亮と共に左将軍・大司馬府の事を署させた。可を献じ否を替え、共に歓びをもって交わった。
- 亮は後に丞相となって群下に教して言った。「董幼宰は参署して七年、事に至らぬところがあれば十度でも往復した」。また「以前は幼宰に事を参じ、言えばつねに尽くしてくれた」とも言った。和を追慕することこの通りであった。
- 和は官にあって禄を食み、外は辺境の地を牧し内は機衡を幹すること二十余年、死んだ日に家には一石の財もなかった。
関羽
- 関羽は襄陽太守・盪寇将軍として江北に駐した。先主が西して益州を定めると、羽を拝して荊州の事を董督させた。羽は馬超が降ったと聞き、旧知でないので亮に書を送って「超の人才は誰に比べられるか」と問うた。亮は羽が人に先んじたがる気性を知っていたので、「孟起は文武を兼ね備え、雄烈は人に過ぎ、一世の傑で黥布・彭越の類だ。翼德(張飛)と並び駆けて先を争うほどだが、それでも髯どのの群を抜いた高さには及ばぬ」と答えた。羽は美しい鬚髯があったので亮は「髯」と呼んだのである。羽は書を読んで大いに悦び、賓客に見せた。
- 羽の子興、字は安国は、若くして評判がよく、丞相亮が深く器として重んじた。弱冠で侍中・中監軍となり、数年で卒した。子の統が嗣ぎ、公主を娶って官は虎賁中郎将に至った。
馬良
- 馬良、字は季常、襄陽宜城の人。先主が荊州を領すると辟して従事とした。先主が蜀に入り諸葛亮も後から赴くと、良は荊州に留まり、亮に書を送った。「雒城が抜けたと聞きました。天の祚けです。尊兄は時運に応じて世を助け、業に配して国を光らせる兆しが現れました。思慮を雅正に用い、貴ぶべきを審らかにして明を垂れ、才を選ぶには時宜に適わせるべきです。光を和らげて遠くを悦ばせ、徳を天壤に邁らせ、世に聴くところを閑かにし道に服させ、高妙の音を整えて鄭衞の声を正せば、ともに事に利があり、互いに倫を奪いません。これこそ管絃の至り、伯牙・師曠の調べです。私は鍾子期ではありませんが、節を撃たずにおられましょうか」。
- 良の兄弟五人はみな才名があり、郷里で「馬氏の五常、白眉最も良し」と諺された。良の眉に白毛があったからそう称された。
劉琰
- 劉琰、字は威碩、魯国の人。先主が豫州にいたころ辟して従事とした。同じ宗姓であり、風流で談論に長じていたので、厚く親しく待遇し、従って周旋してつねに賓客であった。後主が立つと都郷侯に封ぜられ、班位はつねに李嚴に次いだが、国政には与らず、ただ兵千余を領して丞相亮に従い議に加わるだけだった。
- 建興十年(232年)、前軍師の魏延と不和になり、言葉が虚誕だったので亮に責められた。琰は亮に牋を送って謝した。「琰は禀性が空虚で、酒に荒れる病のようなものです。先帝以来の紛々たる議論は、あやうく身を覆すところでしたが、明公が終始一心に国にあられたおかげで扶け助けられ今日に至りました。このごろは迷い酔って言葉に誤りがありましたが、慈恩をもって忍び、法に照らされませんでした。必ず己に克って身を責め、過ちを改め、死を賭して神霊に誓います。命を用いられねば、顔を寄せる所もありません」。亮は琰を成都に還し、官位はもとのままとした。
- 琰の車服と飲食は奢侈で名高く、侍婢数十人がみな音楽を能くし、みな『魯靈光殿賦』を誦読できるよう教え込まれていた。
杜微
- 杜微、字は国輔、梓潼涪の人。建興二年(224年)、丞相亮が益州牧を領すると、迎え選ぶのにみな旧徳の士を精選し、秦宓を別駕、五梁を功曹、微を主簿とした。微は固辞したが輿に乗せて連れて来られた。微は耳が聞こえなかったので、座上で書いて示した。
- (亮の書より)「徳行をお慕いして久しく渇していましたが、清濁は流れを異にし、お目にかかる縁がありませんでした。王元泰・李伯仁・王文儀・楊季休・丁君幹・李永南兄弟・文仲寶らは、いつも高い志を歎じながら旧知のようにはお会いできぬと申しております。私は空虚な身で貴州を統領し、徳は薄く任は重く、憂慮に慘んでおります。
- (同)朝廷の主上は今年ようやく十八、天資は仁にして敏く、徳を愛し士に下られます。天下の人は漢室を思慕しております。君と共に天に因り民に順い、この明主を輔けて季世興隆の功を隆んにしたい。賢愚は互いに謀らずと言って自ら絶ち、労を守るだけで自ら屈しようとされぬのは、いかがなものでしょう」。
- 微が老病を理由に帰郷を乞うと、亮はまた書を送った。「曹丕は簒奪弑逆して自ら帝と称したが、これは土龍・芻狗の名があるようなものです。群賢と共に、その邪偽に乗じて正道でこれを滅ぼしたい。君がまだ何も教えてくださらぬうちに帰りたいと言われるのは訝しい。君はただ徳をもって時を輔ければよいので、軍事を責めはしません。なぜそう急いで去ろうとされるのか」。微を敬うことこの通りで、諫議大夫に拝してその志に従わせた。
張裔
- 張裔、字は君嗣、蜀郡成都の人。丞相亮が参軍として府事を署させ、亮が漢中に出て駐すると、裔は射聲校尉として留府長史を領した。司鹽校尉の岑述と不和になり、亮は裔に書を送った。
- (亮の書より)「昔、陌下で営が壊れたときは、私は心を痛めて食べても味が分からなかった。その後、君が南海へ流されたときは、共に悲嘆して寝ても席が安からなかった。帰って来て大任を委ねたのは、君とは古のいわゆる石の交わりだと思ったからだ。石の交わりの道は、仇を挙げてまで互いを益し、骨肉を割いてまで互いを明らかにし、それでも謝することはない。まして私はただ元儉に一言口を挟んだだけなのに、君はそれが忍べぬのか」。
- (張裔傳より)劉璋の時、裔は兵を授かって徳陽の陌下で張飛を拒いだが敗れて成都に還った。璋のために使いして先主のもとへ赴き、先主は「その君を礼遇しその民を安んずる」と約したので、裔が還ってはじめて城門が開いた。
- (同)これより先、益州の耆率雍闓が遠く孫権に通じたので、裔を益州太守としたが、闓は裔を権のもとへ送った。折しも鄧芝を呉に使いさせるので、亮は芝に権へ裔の返還を請わせた。
- (同)裔が出発するとき、権は引見して「蜀の卓氏の寡婦は司馬相如のもとへ奔った。貴国の風俗はどうしてそんななのか」と問うた。裔は「臣が思うに、卓氏の女は買臣(朱買臣)の妻よりは賢いでしょう」と答えた。
- (同)裔が北に亮のもとへ赴いて事を諮ったとき、親しい者に「近ごろは道を行き、昼夜を分かたず賓客に応じて休む暇もない。人は丞相長史の男子張君嗣を敬ってのことだが、こちらは疲れて死にそうだ」と書き送った。
楊洪
- 楊洪、字は季休、犍為武陽の人。蜀部従事となった。先主が漢中を争って急ぎ発兵を求める書を送ったとき、軍師将軍諸葛亮が洪に問うと、洪は「漢中は益州の咽喉で存亡の分かれ目です。漢中がなければ蜀もありません。これは家門の禍です。今の事は、男は戦い女は運ぶべきです。発兵に何を疑いましょう」と答えた。
- はじめ洪は李嚴の功曹だった。嚴がまだ犍為を去らぬうちに洪はすでに蜀郡太守となっていた。洪が門下書佐の何祇を才策と功幹ありとして推し、祇が広漢太守になったときも洪はなお蜀郡にあった。だから西土の人はみな、諸葛亮が時の人の器量を用い尽くせることに服した。
何祇
- 何祇、字は君肅。亮が、祇が遊興にふけって職務に勤めぬと聞き、抜き打ちに獄の記録を調べに行こうとした。祇はひそかに聞きつけ、夜、灯火を張って囚人に会い、諸々の供述書を読んで残らず暗誦した。応答も解釈も滞らなかったので、亮は甚だ異とした。
- 祇はかつて井戸の中に桑が生える夢を見て、夢占いの趙直に問うた。直は「桑は井戸の中の物ではない。きっと移し植えられよう。ただし桑の字は四十の下に八。君の寿はそれを越えぬかもしれぬ」と言った。祇は笑って「それだけあれば十分だ」と言った。
霍峻・霍弋
- 霍峻、字は仲邈、南郡枝江の人。梓潼太守・裨将軍となり、在官三年で卒し、成都に還って葬られた。先主は甚だ悼み惜しみ、諸葛亮に詔して「峻は佳士であり、しかも国に功があった。酹を行いたい」と言い、自ら群僚を率いて臨んで弔祭し、墓上に泊まった。当時の人はこれを栄誉とした。
- 峻は衆を率いて先主に帰し、先主は峻を中郎将として葭萌を守らせた。張魯が将の楊帛を遣って誘うと、峻は「小人の頭は取れても、城は取れぬ」と言った。劉璋の将扶禁・向存らが一萬余を率いて峻を攻め囲むこと一年近くに及んだが下せなかった。峻の城中の兵はわずか数百だったが、その怠りを窺って精鋭を選んで出撃し大破し、存を斬った。先主は蜀を定めると峻の功を嘉し、梓潼太守とした。
- 峻の子弋、字は紹先は、亮が北の漢中に駐したとき記室に請われ、子喬(諸葛喬)と共に行動させられた。
- 後主が太子璿を立てると、弋を中庶子とした。璿は騎射を好んで出入りに節度がなかったので、弋は古の義を引いて言を尽くして規諫し、切磋の体をよく得ていた。
向寵
- 向寵、襄陽宜城の人。先主の時に牙門将となり、秭歸の敗でも寵の営だけは無傷だった。建興元年(223年)に都亭侯に封ぜられ、後に中部督となって宿衞の兵を典した。
- 丞相亮は北行にあたって後主に上表した。「将軍向寵は性行が淑やかで公平、軍事に通じ、昔試みに用いて先帝は『能あり』と称された。だから衆論は寵を推して督とした。営中の事はすべて彼に諮れば、必ず行陣は和睦し優劣それぞれ所を得よう」。
馬忠
- 馬忠、字は德信、巴西閬中の人。建興元年(223年)、丞相亮が府を開くと門下督とした。三年(225年)、亮が南に入ると忠を牂牁太守に拝した。郡丞朱褒の叛乱の後で、忠は撫育し恤み治めて威と恵があった。
- 建興八年(230年)、丞相参軍・副長史に召され、蔣琬と共に留府の事を署した。亮が祁山に出ると、忠は亮のもとへ赴いて軍事を経営し、軍が還ると将軍張嶷らを督して汶山郡の叛いた羌を討った。
- 建興十一年(233年)、南夷の豪帥劉胄が反いて諸郡を乱し、庲降都督の張翼を徴して還したので、忠を翼に代えた。忠は胄を斬って南土を平らげた。
- 忠は寛やかで度量があり、冗談を言って大笑し忿怒を色に出さなかったが、事を処するに決断があり、威と恩を並び立てた。だから蛮夷は畏れつつ愛した。卒したときは誰もが自ら喪庭に赴いて涕泣し哀を尽くし、廟を立てて祀った。張表は当時の名士で清望は忠を越え、閻宇はもとより功幹があって事に精勤で、忠の後を継いだが、威風も功績もみな忠に及ばなかった。
- (益部耆舊傳より)張表は張肅の子である。『華陽國志』は張松の子とする。
王平
- 王平、字は子均、巴西宕渠の人。建興六年(228年)、参軍馬謖に属して先鋒となった。謖が水を捨てて山に上ったので平は続けて諫めたが、謖は用いず街亭で大敗し、衆は星のように散った。ただ平の率いる千人だけが鼓を鳴らして持ちこたえたので、魏の将張郃は伏兵を疑って迫らなかった。そこで平はゆるゆると諸営の残兵を収め、将士を率いて還った。
- 丞相亮は馬謖と将軍張休・李盛を誅し、将軍黄襲らの兵を奪ったが、平だけは特に顕彰され、参軍を拝して五部を統べ営の事を兼ね、討寇将軍に進んで亭侯に封ぜられた。
- 建興九年(231年)、亮が祁山を囲むと、平は別に南囲を守った。魏の張郃が攻めたが、平は堅く守って動かず、郃は克てなかった。建興十二年(234年)、亮が武功で卒して軍が退き、魏延が乱を起こしたとき、一戦で破ったのは平の功である。
- 平は軍旅で育って手ずから書けず、識る字は十字を出なかったが、口述させた書はみな筋が通っていた。人に『史記』『漢書』の諸伝を読ませて聴き、その大義をよく知り、しばしば論じてその趣旨を外さなかった。法度を遵守し、戯れを言わず、朝から夕まで端坐して一日を通し、武将らしからぬ様子であった。
蔣琬
- 蔣琬、字は公琰、零陵湘郷の人。広都長に除せられた。先主がふいに広都に至り、琬が万事を処理していないのを見て罪を加えようとしたが、亮が「蔣琬は社稷の器で、百里の才ではありません。その政は民を安んずるを本とし、飾ることを先としません」と請うた。先主は日ごろ亮を敬っていたので罪を加えず、慌ただしく免官しただけで済ませた。
- 建興元年(223年)、丞相亮が府を開いて東曹掾に辟し、茂才に挙げようとした。琬は固く譲って劉邕・陰化・龎延・廖淳を推した。亮は教して答えた。「親を背き徳を捨てて百姓を殄すことを思えば、衆人は心に納得できぬだけでなく、遠近もその義を解せぬ。だから君こそその功を顕して、この選の清く重いことを明らかにすべきだ」。
- 亮がたびたび外に出るあいだ、琬はつねに食を足し兵を足して供給した。亮はいつも「公琰は志を忠雅に託し、私と共に王業を助けるべき者だ」と言い、ひそかに後主に「臣に不幸があれば、後事は琬に付されるがよい」と表した。
- 元帥を失ったばかりで遠近が危ぶみ竦んでいたとき、琬は群僚の右に抜きん出ながら、悲しむ様子も喜ぶ色もなく、精神も挙措も平日のままだった。これによって衆望は次第に服した。
- 東曹掾の楊戲は生来そっけなく、琬が語りかけても応答しないことがあった。ある人が戲を琬に讒すると、琬は「戲が私を褒めようとすれば本心ではなくなり、私の言に反そうとすれば私の非を顕すことになる。だから黙っているのだ。それが戲の快さだ」と言った。
- また督農の楊敏がかつて琬を毀って「事をするのがぼんやりしていて、まことに前人には及ばぬ」と言った。ある人が琬に告げて敏の処罰を請うと、琬は「私は実際に前人に及ばない。推問することはない」と言った。担当者が重ねて「推問せぬなら、せめてどこがぼんやりしているのか問うてください」と言うと、琬は「及ばぬのなら事は理に当たらぬ。理に当たらねばぼんやりしていることになる。何を問うのか」と答えた。後に敏が事に坐して獄に繋がれ、衆人は必ず死ぬと懼れたが、琬は好悪の私なく、重罪を免れさせた。その好悪が道に存すること、みなこの類である。
- 琬は夜、牛の頭が門前にあって血が滂沱と流れる夢を見て、甚だ気味悪く思い、夢占いの趙直を呼んで問うた。直は「血が見えるのは事が分明になること。牛の角と鼻は『公』の字の象です。君の位は必ず三公に至ります」と言った。
- (益部耆舊雜記より)丞相亮が武功で病篤くなったとき、後主は李福を遣って見舞わせ、国家の大計を諮らせた。福は旨を伝えて別れ、数日して急ぎ引き返し亮に会った。亮は「私は君が戻った理由を知っている。終日語ったが尽くせなかったことがある。君が問おうとしているのは、公琰こそ適任だということだ」と言った。福は「先ほど実に伺い漏らしました。公の百年の後、誰が大事に任じられるか。蔣琬の後をも重ねて伺いたい」と謝した。亮は「文偉(費禕)が継げる」と答えた。さらに次を問うと、亮は答えなかった。
費禕
- 費禕、字は文偉、江夏鄳の人。丞相亮が南征から還ったとき、群僚が数十里まで出迎えた。年も位も禕より上の者が多かったが、亮は特に禕を同じ車に乗せたので、衆人はみな見方を改めた。頻繁に呉に使いし、辞は順で義は篤かった(詳しくは連呉に載せる)。
- 魏延と楊儀が憎み合い、争論のたびに延が刃を儀に擬し、儀が涙を流すこともあった。禕はそのつど二人の間に入って論じ分けた。亮の世を通じて儀と延それぞれの用を尽くさせられたのは、禕が匡し救った力である。
- 禕は南郡の董允と名を斉しくした。当時、許靖が子を亡くし、允と禕は共に葬所へ行こうとした。允が父の和に車を請うと、和は後ろの開いた鹿車を与えた。允は乗るのを嫌がる顔をしたが、禕は先に乗り込んだ。葬所に至ると諸葛亮や貴人がみな集まっていて、車馬は立派なものばかりだった。允の顔色は晴れなかったが、禕は平然としていた。和はこれを聞いて允に「私は前から汝と文偉の優劣を測りかねていたが、今日からその迷いは晴れた」と言った。
- 当時は軍国に事が多く公務は煩雑だったが、禕は識悟が人に過ぎ、書類を読むのも一瞥で意を尽くし、速さは人の数倍で、しかも忘れなかった。つねに朝と夕方に政務を執り、その合間に賓客を接待し、飲食し嬉戯し、博奕まで加えて、人の歓びを尽くさせながら事も滞らせなかった。董允が禕に代わって同じようにしようとしたところ、十日のうちに滞る事が多く、允は「人の才力の隔たりはこれほど遠いものか」と嘆じた。
- 延熙七年(244年)、魏軍が興勢に次したとき、禕は節を仮されて防いだ。光禄大夫の来敏が来て一局囲碁を望んだ。折しも羽檄が飛び交い出立の支度も済んでいたが、禕は対局に意を注いで厭う色がなかった。敏は「ちょっと君を試してみただけです。君はまことに頼もしい。必ず賊を防げましょう」と言った。
董允
- 董允、字は休昭、掌軍中郎将董和の子。先主が太子を立てると選ばれて舎人となり、洗馬に移った。後主が位を襲ぐと黄門侍郎に遷った。
- 丞相亮は北征して漢中に住するにあたり、後主が年若く善悪を見分けにくいことを慮り、允が心を公明に保つのを見込んで宮中の事を任せようとし、上疏した。「侍中の郭攸之・費禕、侍郎の董允らは先帝が選び抜いて陛下に遺された者です。規益を斟酌し忠言を進め尽くすのは彼らの任です。宮中の事は大小となくすべて諮れば、必ず欠けや漏れを補って益するところがありましょう」。
- 献納の任は允がすべて専らにし、事に応じて防ぎ制し、匡救の理を尽くした。後主がかつて美女を選んで後宮を充たそうとしたとき、允は反対して聴かず、後主はいよいよ憚った。宦官の黄皓は便佞で狡猾だったが、允はつねに正色して主を匡し、たびたび皓を責めた。皓は允を畏れて悪事ができず、允の在世中は位が黄門丞を出なかった。
- 允はかつて尚書令の費禕、中典軍の胡濟らと遊宴を約し、支度も整ったところへ郎中の襄陽の董恢が訪ねて来た。恢は年少で官も低く、允が出かけるところなのを見て遠慮して帰ろうとした。允は許さず、「そもそも出かけるのは同好と語り合うためだ。今、君がわざわざ足を運んで、これから存分に語ろうというのに、この談を捨ててあの宴に行くのは筋が通らぬ」と言い、添え馬を解かせた。禕らも車を停めて行かなかった。
陳震
- 陳震、字は孝起、南陽の人。亮が後主に表して「侍中・尚書・長史・参軍はみな貞良で節に死ぬ臣です。願わくは陛下、これに親しみ信じられよ。漢室の隆盛は日を数えて待てます」と言ったとき、震は尚書、蔣琬は長史であった。
- 建興七年(229年)、孫権が尊号を称すると、震を衞尉として権の践阼を賀させた。
- (亮の兄瑾への書より)孝起は忠純の性が老いてますます篤い。語は連呉に載せる。
- 建興九年(231年)、都護の李平が誣罔に坐して廃された。亮は蔣琬・董允に書を送って「孝起は以前、呉へ赴くにあたって私に、正方(李嚴)の腹中には鱗甲があり、郷里の者は近づけぬと言っていると語った。私は鱗甲があっても犯さねばよいと思っていたが、まさか蘇秦・張儀まがいの事が思いがけず起こるとは。孝起に知らせてやってくれ」と言った。
姜維
- 姜維、字は伯約、天水冀の人。亮は留府長史の張裔、参軍の蔣琬に書を送った。「姜伯約は時務に忠勤で思慮は精密だ。その持つものを考えるに、永南(李邵)や季常(馬良)らも及ばない。この人は涼州随一の士だ」。
- また「まず中虎歩兵五、六千人を教練させるべきだ。姜伯約は軍事に甚だ敏く、胆と義があり、深く兵の意を解している。この人は心に漢室を存し、才は人に兼ねる。軍事の教練が終わったら宮に遣って主上に拝謁させよう」とも言った。
張翼
- 張翼、字は伯恭、犍為武陽の人。庲降都督・綏南中郎将となった。翼は性来、法を持すること厳しく、異俗の民の歓心を得られなかった。耆率の劉胄が背いたので、翼は兵を挙げて討ったが、破らぬうちに徴されて還ることになった。群下はみな急ぎ騎を馳せて罪を待つべきだと言ったが、翼は「そうではない。私は蛮夷が蠢動したのに職を果たせなかったから還るのだ。しかし後任がまだ来ぬ以上、私はなお戦場に臨んでいる。糧を運び穀を積んで賊を滅ぼす資とすべきで、退けられるからといって公家の務めを廃してよいものか」と言い、統率を緩めず、後任が着いてから発った。馬忠はその成した基礎によって胄を破り殄した。丞相亮はこれを聞いて善しとした。亮が武功に出ると、翼を前軍都督として扶風太守を領させた。
廖化
- 廖化、字は元儉、襄陽の人。前将軍関羽の主簿だったが、羽が敗れて呉に属した。帰国を思って死を装い、時の人はそれを本当と思ったので、老母を連れて昼夜西へ行った。折しも先主の東征に遭い、秭歸で出会った。先主は大いに悦んで化を宜都太守とした。
- 先主が薨ずると丞相参軍となり、後に督広武、次第に遷って右車騎将軍・仮節・領并州刺史となり、中郷侯に封ぜられた。果敢剛烈で称され、官位は張翼と同じで宗預の上にあった。
呂乂
- 呂乂、字は季陽、南陽の人。巴西太守に遷った。丞相亮が連年出軍して調発したとき、諸郡の多くは応じきれなかったが、乂は兵五千を募って亮のもとへ送り、慰め諭し取り締まったので逃亡する者がなかった。漢中太守に移り、督農を兼領して軍糧を供給した。
楊戲
- 楊戲、字は文然、犍為武陽の人。丞相亮が深く識り、『季漢輔臣贊』を著した。
賴厷
- 賴厷、零陵の人、太常賴恭の子。先主が漢中王となったとき荊楚の宿老を用い、恭を太常とした。恭の子厷は丞相西曹令史となり、諸葛に従って漢中にあったが早世した。亮は甚だ惜しみ、張裔・蔣琬に「令史に賴厷を失い、掾属に楊顒を喪った。朝中の損失は大きい」と書き送った。
楊顒
- 楊顒、字は子昭、楊儀の同族。亮の主簿となった。亮が自ら帳簿を検めていたとき、顒はまっすぐ入って諫めた。「政を治めるには体があり、上下が互いに侵してはなりません。明公のために家政に譬えましょう。今、ある人が奴に耕作させ、婢に炊事を掌らせ、鶏に朝を告げさせ、犬に盗を吠えさせ、牛に重きを負わせ、馬に遠路を行かせるとします。家業に空きはなく求めるものはみな足り、ゆったり枕を高くして飲食していればよい。ところがある朝、すべてを自ら身をもってやろうとすれば、形は疲れ神は困じ、ついに一つも成りません。その智が奴婢や鶏犬に及ばぬのではなく、家主たる法を失ったのです。
- (同)だから古人は『坐して道を論ずるを王公といい、作して行うを士大夫という』と言いました。丙吉は道端の死人は問わずに牛の喘ぎを憂え、陳平は銭穀の数を知ろうとせず『自ら主る者がある』と言った。彼らはまことに位分の体に達していたのです。今、明公は政を治めるのに自ら帳簿を検め、一日中汗を流しておられる。労が過ぎるではありませんか」。亮は謝した。顒が死んだとき、亮は三日涙を流した。
姚伷
- 姚伷、字は子緒、閬中の人。丞相亮が北の漢中に駐したとき掾に辟され、文の士も武の士も並べて進めた。亮は「忠益なることで人を進めるに大なるものはない。人を進める者はそれぞれ自分の尚ぶところに務めるものだが、今、姚掾は剛と柔を並び存して文武の用を広げた。博雅というべきである。諸掾もそれぞれこれを希って、その望みに副うように」と称えた。
魏延
- 魏延、字は文長、義陽の人。亮が漢中に駐すると、延を督前部・領丞相司馬・涼州刺史とした。建興八年(230年)、延を西の羌中に入らせ、魏の後将軍費瑤・雍州刺史郭淮と陽谿で戦って淮らを大破した。前軍師・征西大将軍に遷り、節を仮されて南鄭侯に進封された。
- 延は亮に従って出るたびに兵一萬を請い、亮と道を別にして潼関で会したいと願った。韓信の故事に倣ってのことである。亮は制して許さなかったので、延はつねに亮を臆病だとし、自分の才が用い尽くされぬことを嘆き恨んだ。
楊儀
- 楊儀、字は威公、襄陽の人。建興五年(227年)、亮に従って漢中に赴き、八年(230年)に長史に遷った。亮がたびたび出軍するとき、儀はつねに計画を立てて部隊を分け、糧穀を計って滞らせず、思案はたちどころに片づいた。軍の節度は儀の手で整えられた。
- 亮は儀の才幹と魏延の驍勇を深く惜しみ、二人の不和をつねに恨みながら、どちらかを廃することに忍びなかった。
李嚴(李平)
- 李嚴、字は正方、南陽の人。後に名を平と改めた。丞相亮と共に遺詔を受けて少主を輔け、中都護として内外の軍事を統べ、留まって永安を鎮めた。
- 建興四年(226年)、亮が漢中へ出軍しようとしたとき、嚴が後方の事を掌ることになり、江州へ屯を移し、留まった護軍の陳到が永安に駐して、いずれも嚴に統属した。嚴は孟達に「私と孔明はともに寄託を受け、憂いは深く責めは重い。よき伴を得たいと思う」と書き送り、亮も達に「部署を分けることは流れるようで、取捨に滞りがない。それが正方の性だ」と書いた。その重んじられようはこの通りである。
- 建興八年(230年)、驃騎将軍に遷った。曹真が三道から漢川へ向かおうとしたので、亮は嚴に二萬を率いて漢中へ赴かせ、嚴の子豐を江州都督・軍典として嚴の後事を掌らせるよう上表した。
- (亮の李平の子豐への教より)「私は君の父子と力を尽くして漢室を助けてきた。これは神明の聞くところで、人が知るだけではない。都護(李嚴)を表して漢中を典らせ、君を東関に委ねたのは、人と相談してのことではない。至心が感じ合い、終始保てると思ったからだ。それがどうして途中で背くことになったのか。
- (同)昔、楚の卿はたびたび退けられてもなお復した。道を思えば福が応ずるのは自然の数である。どうか都護を寛やかに慰め、勤めて前の欠けを追ってほしい。今は任を解かれて形勢は旧に失われたとはいえ、奴婢や賓客は百数十人おり、君は中郎参軍として府に居るのだから、同類に比べればなお上の家である。都護が負うところを思って一意となり、君が公琰と心を推して事に従うなら、通じ直すこともでき、去った者も還り得る。この戒めをよく思って、私の用心を分かってほしい。書に臨んで長嘆し、涕泣するばかりだ」。
馬謖
- 馬謖、字は幼常、馬良の弟。諸葛亮は深く器として重んじ、引見して談論するたびに昼から夜に及んだ。街亭の敗の後、謖は臨終に亮へ書を送った。「明公は謖を子のように視てくださり、謖は明公を父のように視てまいりました。どうか鯀を殛して禹を興した義を深く思われ、平生の交わりをこれによって欠かさぬようにしてください」。亮は自ら臨んで祭り、その遺孤を生前と変わらず遇した。
張裕
- 張裕は天文占候に通じ、先主に「漢中を争ってはなりません。軍は必ず不利です」と諫めた。先主はついに用いなかった。裕はまた私に人へ「歳が庚子に在るとき天下は代を易える」と語った。人がひそかにその言を告げたので、先主はかねて無礼を含んでいた上に言葉を漏らしたことを怒り、漢中を争うなという諫めが的中しなかったことを表沙汰にして獄に下し、誅そうとした。諸葛亮が表してその罪を問うと、先主は「芳しい蘭も門に生えれば鋤かずにはおれぬ」と答えた。
- はじめ先主が劉璋と涪で会したとき、裕は璋の従事として侍坐していた。裕は鬚が多かったので先主は嘲って「昔、私が涿県にいたころ、毛姓が特に多く、東西南北みな毛氏だった。涿の令は『諸毛、涿を繞りて居るか』と言ったものだ」と言った。裕はすぐさま「昔、上党の潞の長となり涿の令に遷った者がいた。涿令が官を去って家に還ったとき、時の人が書を送るのに、潞と署せば涿が落ち、涿と署せば潞が落ちるので、『潞涿君』と署した」と答えた。先主には鬚がなかったので、裕はこれに引っかけたのである。
- (王士騏の評)張裕の誅はもともと先主の嫌忌と忿りによる。それを亮が表してその罪を問うたのは、法の用い方に慎重であったというべきだ。
- (編者按)昭烈は生涯、大英雄の言が多い。「魚と水」「芳蘭」は『世説』の中でも奇警な語である。
張嶷
- 張嶷、字は伯岐、巴郡南充の人。建興五年(227年)、丞相亮が北の漢中に住したころ、広漢綿竹の山賊張慕らが軍資を掠め吏民を劫かした。嶷は都尉として兵を率いて討ったが、賊が鳥のように散るのを見越して偽って和親し、期日を決めて酒宴を設け、酒がたけなわのところで自ら左右を率いて慕ら五十余級を斬った。渠帥はことごとく殄され、十日で清らかに治まった。
- (益部耆舊傳より)嶷は風湿の持病があり、都に至って重くなり、杖にすがってようやく立てるほどだった。李簡が降を請うたとき衆議は疑ったが、嶷は「必ず本当だ」と言った。姜維が出征するときも、世論は嶷が帰ったばかりで脚を病んで従軍できまいとした。嶷は自ら中原に力を尽くし敵の廷に身を致したいと願い出て、出発に臨んで後主に辞して言った。「臣は聖朝に当たって過分の恩を受けました。加えて病を身に得て、いつ一朝に殞れて栄遇に背くかと恐れておりました。天が願いに違わず戎事に与れることになりました。もし涼州が平定できれば、臣は藩塀の守将となりましょう。もし抜けなければ、身を殺して報います」。後主は慨然として涙を流した。
譙周
- 譙周、字は允南、西充の人。体貌は素朴でとっさの弁論の才はなかったが、内に潜んだ識見は敏かった。丞相亮が益州牧を領すると、周を勧学従事に命じた。
- (蜀記より)周が初めて亮に会ったとき、左右がみな笑った。退出後、有司が笑った者を推問すべきだと請うと、亮は「私ですら笑いを忍べなかった。まして左右においてをや」と言った。
- 後主がしきりに遊観に出るようになると、周は上疏した。「昔、王莽が敗れて豪傑が並び起こったとき、賢才智士は帰すべき所を望んでいました。世祖が初めて河北に入ったとき、馮異らが『人のできぬことを行うべきです』と勧め、そこで法度を遵んで動いたので北州は歌い歎じました。洛陽にあってちょっと出かけようとして車駕を用意させたとき、銚期が『天下はまだ寧らかでありません。臣は陛下が細かな外出を重ねられるのを願いません』と諫めると、即座に車を還されました。
- (同)隗囂を征したとき潁川に盗が起こり、世祖は洛陽に還って寇恂を遣ろうとしました。恂は『潁川は陛下の遠征に乗じて姦滑が叛いたのです。陛下が自ら潁川に臨まれれば、賊は必ず降ります』と言い、果たしてその通りになりました。だから急務でなければ少しの外出も敢えてせず、急務であれば自らの安きを図らなかった。帝者が善をなそうとするのはこのようなものです。
- (同)今、天下は三分し、雄哲の士が望みを寄せる時です。陛下は天資が至孝で、喪は三年を越え、言えば涙を落とされる。曾参・閔子騫にも劣りません。賢を敬い才を任じて力を尽くさせるさまは成王・康王を越え、だから国内は和し一つになり大小が力を戮せています。しかし臣は大願に堪えません。願わくは、さらに人のできぬことを広く行われよ」。
- (編者按)周の疏は切実で、経に通じた言のようである。それが「仇国論」で姜維を沮み、降伏を勧めて後主を誤り、ついに千載の遺恨を成した。
- (孫盛の評)春秋の義に「国君は社稷に死す」とある。まして天子と称しながら人に辱められてよいものか。葛生(諸葛亮)は「事が成らねばそれまで。どうして人の下に立てよう」と言った。壮なるかな、この言。懦夫の志をも立たせるに足りる。禪はもとより暗主、周はまことに駑臣である。申包胥・田単・范蠡・大夫種に比べれば、遠く隔たっているではないか。
- 周がかつて杜瓊に「昔、周徴君は『當塗高』とは魏のことだとしたが、その意味は何か」と問うた。瓊は「魏とは闕の名である。塗に当たって高い。古くは官職に『曹』とは言わなかったが、漢以来、吏を『属曹』、卒を『侍曹』という。これはおそらく天意だ」と答えた。周は瓊の言を承けて類推し、「先主の諱は備で、その訓は『具』である。後主の諱は禪で、その訓は『授』である。『劉はすでに具わった。まさに人に授けるべきだ』と言うようなものだ」と言い、柱に「衆にして大なるがこれに会するを期す。具わりて授く、いかんせん」と書いた。「曹」は衆、「魏」は大の意で、天下がそこに会するなら、どうしてまた立つ者があろうというのである。蜀が亡ぶと、みな周の言を的中と見なした。
- (編者按)『捜神記』に、漢の元帝・成帝の間にすでに「五馬大いに曹を討つ」の讖があったという。とすれば「當塗」がいくばくもなく典午(司馬氏)に伏することは、張掖に図が湧くのを待つまでもなく見えていた。あの「属曹」「侍曹」の輩、華歆・王朗・陳羣・繇の類がそろって漢を売ったのも、みな「大いに討たれる」科に当たる。譙周は妄りに妖讖を作り、あわただしく降伏を勧めた。これも諸々の姦の仲間であって、忠武の罪人である。