史通雜說上第七

  • 要旨: 春秋・左傳・公羊傳・汲冢紀年・史記・諸漢史について、個々の記述の当否を条ごとに論評する。

春秋(二条)

  • 春秋が弑を書くとき、君に無道があれば君の名を挙げ、臣に罪があれば臣の名を挙げる。ところが齊の簡公には失徳が聞こえないのに、陳恒が逆を構えて罪は大きい。それなのに哀公十四年に「齊人その君の壬を舒州に弑す」と書く。賢君が抑えられ賊臣が庇われている。旧例に照らして理に違う。ただしこれは獲麟で筆を絶った後に弟子が追って書いた事である。縄を組紐に継ぐようなもので、聖人の技には及ばなかったのであろう。それにしても乖きようが甚だしい。
  • 春秋左氏傳は経を釈いて「滅ぼしてその地を有たないのを『入る』という」といい、陳に入る・衛に入る・鄭に入る・許に入るがその例である。ところが柏挙の役、于常の敗の後、「庚辰、吳、郢に入る」とだけ書く。諸侯は爵を列して国都を建てるが、書くのは国名であって都の号ではない。なぜ郢に入ったことだけ楚の名を落とすのか。他の例に比べてあまりに食い違う。公羊・穀梁の二傳はどちらも「楚に入る」と載せる。左氏の本だけが誤っているのだろうか。

左氏傳(二条)

  • 左氏の叙事は、行軍を述べれば簿冊が目に満ちて叱声が沸き立ち、火の備えを論ずれば区分が目に見えて整い、勝捷を言えば収穫が尽き、敗走を記せば潰走が眼前に横たわる。盟誓を申べれば慷慨に余りがあり、譎詐を称すれば欺きが見え、恩恵を談ずれば春の日のように煦かく、厳しさを紀せば秋の霜のように凜としている。興国を叙べれば滋味が尽きず、亡国を陳べれば凄涼として憫れむべきである。豊かな辞が簡牘を潤し、美しい句が詠歌に入る。跌宕として群を抜き、縦横にして自得している。この才は工みが造化に等しく、思いが鬼神に渉る。古今に卓絶して類を聞かない。
  • 二傳の叙事は、榛蕪が句に溢れ、贅肉が行に満ち、華が多くて実が少なく、言は拙くて味が乏しい。左氏になぞらえれば、魯と衛の政のように似た兄弟どころか、雲泥の隔たり、君臣の礼の差がある。
  • 左傳に「仲尼曰く、鮑莊子の智は葵に如かず。葵はなお能くその足を衛る」とある。生きていて識が無く、質があって性が無いのは草木だけである。自ら枯れ自ら脆くなるにすぎない。霊を含み智を蓄え、身を隠して禍を避けるという義は無い。葵が日に向かって心を傾けるのは、もともと足を衛るためではない。人がその形を見て強いて名を立てただけである。今の文士が鳥の鳴くのを「啼く」といい花の開くのを「笑う」というのと同じで、花や鳥に笑いや啼きの情があろうか。
  • 人に喜怒が無く哀楽を知らないからといって「その智は花に如かず、花はなお善く笑う」「その智は鳥に如かず、鳥はなお善く啼く」と言えるだろうか。「鮑莊子の智は葵に如かず」も同じ理屈である。左氏が孔子の一時の戯言を録して千載の篤論としたのは、微婉の深い累となり良直の高い範を玷したもので、惜しいことである。

公羊傳(二条)

  • 公羊は「許の世子止がその君を弑した。なぜ弑と加えるのか。子の道を尽くさなかったことを譏るのである」といい、次いで樂正子春が病を看た例を引いて許の世子の罪を明らかにする。樂正子春の孝道は神明を感じさせるほどで、曾参・閔子騫と肩を並べ、丁蘭・郭巨と踪を連ねる。親に仕えることが樂正に及ばないというだけで弑逆の名を加えるのは、擬えが筋を失い、罪でないものを責めるものである。公羊も樂正も孔子の門人から出ているので、互いに引き立て合おうとして曲げて談述したのであろう。樂正の行事が理に合わないまま書かれ、編次が不揃いになり、比喩が類しなくなった。嗤うべきことである。
  • 「彭蠡のほとりでは魚を犬に食わせる」という。土地に豊かなものは珍重されないのである。齊は海隅に近く魚介が入り交じっているので、上客には肉、中客には魚を出す。これが齊の旧俗である。しかし魴を食い鯉を膾にするのは詩人が貴んだことで、他国では珍しい馳走である。
  • ところが公羊傳は「晉の靈公が勇士に趙盾を殺させようとしたが、趙盾が魚の飯を食べているのを見て『あなたは晉国の重卿でありながら魚の飯を食べている。倹しいことだ。私はあなたを殺すに忍びない』と言った」という。公羊は齊に生まれて晉の物を知らず、東の土地で賤しまれるものが西州でも同じだと思い、あちらの佳い馳走を粗末な食事と呼んで実録に著し格言としたのである。左氏と食い違うだけでなく、物の理からもまったく外れている。

汲冢紀年(一条)

  • 「伝聞は見たものに如かず」という。史の述べるところにも誤りは甚だしいのに、まして旧記を写して本録に違うものはなおさらである。
  • 虞・夏・商・周の書と春秋の記す説は備わっているといえる。ところが竹書紀年が晉代に出てはじめて、后啓が益を殺したこと、太甲が伊尹を誅したこと、文王が季歴を殺したこと、鄭の桓公が厲王の子であることが知られた。経典の記載と食い違うところが甚だ多い。
  • 孟子は「晉では春秋を乗という」という。汲冢の瑣語は乗の流れであろう。その晉春秋篇に「平公が病んで、朱い羆が屏風を覗く夢を見た」とある。左氏もこの事を載せるが「黄熊が門に入る夢を見た」という。伝聞を捨てて見たものを取るなら、左傳が非で晉の文が実である。
  • ああ、この二書が出なければ、学者は古に惑わされたまま代々聾唖となり、覚る由が無かった。

史記(八条)

  • 編年の叙事は混雑して弁じにくく、紀傳の体は区別が見やすい。かつて太史公の書を読むたびに、採るところの多くが周書・國語・世本・戰國策の類であることを怪しんだ。近ごろ本朝が撰した晉史を見ると、採るところもまた短部・小書で功を省いて閲しやすいもの——語林・世説・搜神記・幽明録の類——が多い。曹嘉之・干寶の二紀、孫盛・檀道鸞の二陽秋はどれも取っていない。だからその中に載る美事の遺漏が甚だ多い。古を今になぞらえれば、太史公も同じ失を犯している。
  • とすれば司馬遷の録は甚だ膚浅なのに、班固がその勤めを称えたのはなぜか。班固はまた「劉向・揚雄は群書を博く極め、みなその叙事の巧みさに服した」という。当時に英秀がおらず、雄覇となりやすかったのだろうか。そうでなければ、なぜこれほど虚しい誉れを与えるのか。
  • 史記の鄧通傳に「帝崩じ、景帝立つ」とある。「景帝立つ」とだけ言えば文帝が崩じたことは分かる。なぜ両方書くのか。
  • 倉公傳は「黄帝・扁鵲の脈書、五色の診を伝え、病を知り人の死生を判じ、嫌疑を決し治すべきかを定めた」と述べたうえ、召し問われて答える言葉でも「黄帝・扁鵲の脈書を伝え……」と以下まったく同じ文を繰り返す。上で事を述べ下でその言を載せるので、言と事は違っても内容の委曲に差が無い。司馬遷の叙述にはこの類が多い。それなのに劉向・揚雄がその叙事の巧みさに服したというのはなぜか。
  • 太史公は孔子世家を撰するのに論語の旧説を多く採ったが、管仲・晏嬰の列傳ではその本書を取らない。世に行われているので改めて載せない、というのである。しかし論語は講席で行われ学官に列しているのに重ねて編み入れるのは煩費と感じられ、管子・晏子のような諸子・雑家の経史外の事はかえって棄てて録さない。異聞を杜ざすものである。除いてよいものを除かず、取るべきものを取らない。この著述の義は分からない。
  • 孔子は関の閂を持ち上げる力があったが力で称されない。大聖の徳は美が多く、一つの些細なことを百行の筆頭にはできないからである。達者七十人は四科に分けられるのに、太史公は儒林を述べるのに子游・子夏の文学を取らず、循吏を著すのに冉有・季路の政事を言わない。それでいて貨殖の傳では子貢を筆頭に置く。悪を掩い善を揚げる義を忘れ、人の美を成すことにも欠けている。
  • 司馬遷の序傳に「太史公となって十年、李陵の禍に遭い、縲絏に幽せられた。そこで喟然として歎じ、これは自分の罪だ、身が虧けて用いられない、と言った」とある。自叙がこれでは略に過ぎる。「李陵の禍に遭い縲絏に幽せられた」というだけでは、李陵とともに陥落して刑に処されたようにも、李陵に陥れられて国に罪を得たようにも読める。読者には詳らかにしがたい。班固が任安に与えた書を載せ、その中で刑を受けた次第を具さに述べてくれたおかげで分かるのであって、この録が無ければどうしてその事が明らかになったろうか。
  • 漢書に載る司馬遷の任少卿への書は、古来の述作がみな患難に因って起こったことを歴説し、末尾に「呂不韋は蜀に遷されて呂覧が世に伝わった」という。しかし呂不韋の修撰は俊才の客を広く招き、春秋に跡を比べ、異聞を集めて荀子・孟子の書に擬え、一字を刋る者に千金を懸けたものである。当時すでに久しく世に宣布されていた。蜀に遷されてから伝わったはずがない。仮に身が流されてはじめて書が重んじられたというなら、「発憤して書を著す」という作者本来の義とも関わらない。それを引いて自らに喩えるのは類していない。故事を多く挙げて博学を成したいなら、「虞卿が窮愁して書八篇を著した」と言えばよいのに「呂不韋が蜀に遷されて呂覧が伝わった」と言う。識が該らず思いが審らかでないのである。
  • 春秋の時、齊に夙沙衛という者がいた。晉に拒んで殿の軍を率い、郭最に辱めと言われ、魯を伐って臧堅を弔い自殺させた。宦官が鄙しまれた事としてとくに著名である。ところが太史公は任少卿への書で、古来の刑余の人が士君子に賤しまれた例を論ずるのに、弥子瑕を最初に挙げるだけである。何と浅近なことか。ただし夙沙の事は左氏傳に出るもので、漢代にはこの書が行われず、司馬遷は見られなかったのである。前古を博く考えるといいながらこれを載せず、伝車に乗って禹穴を探ったのは何のためだったのか。
  • 魏世家の太史公の論に「説く者はみな、魏は信陵君を用いなかったから国が削られて亡んだという。私はそうは思わない。天がまさに秦に海内を平らげさせようとしてその業が成らないうちは、魏が阿衡(伊尹)のような臣を得ても何の益があろうか」とある。
  • しかし成敗を論ずるなら人事を主とすべきで、命だけを言うのでは理が悖る。晉が捕らえられたのは夷吾が諫めに逆らったから、秦が滅んだのは胡亥が無道だったから、周が衰えたのは幽王が褒姒に惑ったから、魯の君が逐われたのは稠父が子家に違ったからである。
  • とはいえ、晉が韓で敗れることは狐突がすでに兆しを志し、秦を亡ぼす者が胡であることは始皇が久しく銘に見、檿弧・箕服の謡は宣王・厲王の年に現れ、褰と襦を徴す歌は文成の世に出ている。悪名は早く著れ、天の孽は逃れがたい。仮にこの四君が桓公・文公ほどの才、湯・武ほどの徳であったら、どうなっていたか。
  • この理を推せば、亡国の君はみな同じことになる。魏だけを譏責しないでよいはずがない。
  • 国が亡ぶときがそうなら、興るときも同じである。魏の先祖が公子であったとき、筮に「八世、これと京を比べる者無し」とあり、畢氏が大夫となったとき、占に「万の名、その後必ず大ならん」とあった。姫氏が水滸にあったとき鸑鷟が岐山に鳴き、劉姓が中陽にあったとき蛟龍が豊沢に降った。いずれも瑞が先に表れて福が後に来た。仮にこの四君の徳が古人の半分にも及ばず才が人に及ばなくても、坐したまま大宝に登り自ら至尊に至れたというのか。
  • 太史公の議のとおりなら、命に必ず至るものがあり理として辞せないというだけで、その智能を嗟き神武を頌える必要も無くなる。命を推して興滅を論じ、運に委ねて褒貶を忘れる。これで誡めを垂れて惑わないでいられようか。
  • それ以後の作者の著述にもしばしばこれがある。魚豢の魏略、虞世南の帝王略論は、遼東の公孫氏の敗を叙べ、江左の陳氏の亡を述べるのに、いずれも理を命によって言う。司馬遷と同病というべきである。

諸漢史(十条)

  • 漢書の孝成紀の賛に「成帝は容儀を善く修め、車に升れば正しく立って内を顧みず、疾く言わず、親しく指ささず、朝に臨めば淵のごとく黙し、尊厳は神のごとくであった。穆々たる天子の容貌というべきである」とある。
  • ところが五行志には「成帝は微行を好み、期門郎と私奴を各十余人選び、みな白衣に袒幘で富平侯の家の者と自称した。小車に乗って御者を茵の上に置くこともあり、駿馬を駆って出入りし、遠くは近県まで至った。だから谷永が諫めて『陛下は昼夜路上にあり、独り小人と相随い、服を乱して共に座り、混淆して別が無い。公卿百官は陛下の所在を知らないことが数年に及ぶ』と言った」とある。
  • とすれば成帝は身をやつして嫚りに遊び、鳥のように集まって度が無かったわけで、外は威重を飾っても内は軽薄を肆にしていた。人君への望みとして欠けている。班固の紀と志の言は前後で自ら矛盾している。
  • 太史公が表を創ったのを見ると、帝王については子孫を叙べ、公侯については年月を紀す。行を列ねて縈紆と連ね、字を編んで密に排す。燕と越が万里を隔てても径寸の内で犬牙のように接し、昭穆が九代に及んでも方寸の中で雁行の序を成す。読む者は文を閲すればすぐ見え、目を挙げれば詳らかになる。これが痛快なところである。
  • 班氏の古今人表は、賢愚を品定めし善悪を激揚するだけのものである。国家が代々襲って禄位を相承けるものでもないのに、界を重ね行を狭め、細字を書き連ねている。他の表に比べて類していない。
  • 人を古今に列するのはもともと表の限りを超えている。惜しんで除かないなら「志」と名づけ、上上から下下まで明らかに標榜し、科条を顕らかに列し、種類ごとに篇章を分け、優劣を次第として、篇の後に「若干品、凡そ若干人」と記すべきである。地理志が京華から述べて辺塞に終わり、先に州郡を列して後に戸口を言うのと同じである。
  • 漢以降、作者は多門で、新書が行われても旧録は残っている。校べればこう言える。劉氏が興った当初の書は陸賈のものだけである。司馬遷が楚漢の事を述べるのは専らこの書に拠っている。道によらずに行き、戸によらずに出るということは無い。
  • ところが司馬遷の載せるところは旧録としばしば異なる。酈食其が初めて沛公に謁したこと、高祖が鴻鵠の歌を歌ったことなどは、文句が違うだけでなく事理まで異なる。また韓王の名は「信都」なのに「都」の字を落とすので、姓名が淮陰侯(韓信)とまったく区別できない。班固は太史公の書に一律に準拠して変えていない。静かに考えても納得できない。
  • 司馬遷の序傳は、生まれた当初から行歴まで、事の大小を問わず備さに陳べており、審らかというべきである。ところがついに自らの字を書いていない。墨子のいわゆる「大忘」というものか。しかも班固は本傳をそのままにして加減しない。韓非子の守株の説がここに当たる。
  • 班固が司馬遷の傳を作るなら、冒頭で「遷、字は子長、馮翊陽夏の人」といい、その序を引き、事の終わりに「その自叙はこのとおりである」と言うべきである。著述の体はそうあるべきではないか。
  • 司馬相如は自叙傳を作って集の中に残しており、司馬遷はこの篇を録してそのまま列傳とした。班固も旧のままで改めない。班固は司馬遷傳・揚雄傳の末では「遷・雄の自叙はこのとおり」というのに、相如の篇の下だけこの言が無い。太史公の書だけに拠り、文園令(相如)の集を見ていないからである。言に画一が無く、例が純粋でない。
  • 漢書の東方朔傳は委瑣で煩碎、他の篇に類しない。しかも没年も子孫の継嗣も述べない。まさに司馬遷傳・揚雄傳と同類である。その傳の体からすれば、東方朔(曼倩)の自叙であろう。ただし班固が脱落させたので世に知られていない。
  • 蘇武(子卿)の父の蘇建は行事が甚だ少なく、韋玄成の父の韋孟は徳業がやや多い。ところが漢書は蘇氏の傳を編むのに蘇建を先に標名し、韋相の篇では韋孟を冒頭に置かない。どちらも失である。
  • 班固は「項羽は義帝を弑し、自ら天の滅びを取った」といい、「于公は高門を作って封を待ち、厳母は地を掃いて喪を待った」という。この言のとおりなら、天が怨み神が怒り、善に福し淫に禍するということを深く信じていることになる。ところが幽通賦では「天命は久しく定まり、理によって移せるものではない」といい、だから善悪に徴が無く報施に食い違いが多い、という。同じ理でありながら説が異なり、前後で自ら矛盾している。
  • ある人が問う。「張輔の班馬優劣論は『司馬遷は三千年の事を五十万言で叙べ、班固は二百年の事を八十万言で叙べた。班固は司馬遷に及ばない』というが、この言は正しいか」。
  • 答える。そうではない。太史公の書は上は黄帝に起こり下は宗周に尽きる。年代こそ揃っていても事跡は甚だ略で、戦国以降にようやく観るべきものが出てくる。三千年の事を叙べたとはいえ、詳備なのは漢が興って七十年余りだけである。省くところはあのように省き、煩わしいところはこのように煩わしい。折衷を求めても宜しさが無い。
  • 班氏の漢書は史記を全部取ったうえ、日者・倉公らの傳を除いた。事が煩蕪で編み次ぐに足りないと考えたからである。仮に司馬遷と班固が地を換えて漢書を撰したら、言葉の多さと辞の費えは班固を超えたであろう。これで優劣を定められようか。
  • 漢書は章を断って新室(王莽)で終える。班彪(叔皮)の生没は中興(後漢)に入っているのに前書と一緒に編んだのは、序傳の常例だからである。
  • 荀悅は班史を刪略して漢紀を勒したのに、班彪の王命論を末篇に列している。隗囂を諷し光武を翼戴した文であり、東都の事である。それを西漢の中に抜き出して置くのなら、賓戯や幽通賦も同じく載せるべきことになる。