- 要旨: 叙事篇で説いた「文の煩わしさ」を、実際の史書の文に朱点を打って示す実演の篇。古史の一節を挙げ、削るべき字を点し、削減字数を注記する。
この篇のやり方
- 史の繁文については叙事篇で詳しく述べた。しかし俗人には分かりにくく、七巻を費やしても一隅から三隅を反さない。「百聞は一見に如かず」で、米を聚めて谷を作れば賊虜の虚実が分かり、地に描いて図とすれば山川の形勢が分かる。
- 昔、陶弘景の本草は薬の冷熱の味を朱と墨で名に点し、阮孝緒の七録は文徳殿にある書を丹筆で字に写した。区分に別があれば品類が分かる。
- そこで同じやり方に倣い、古の史傳から文の煩わしいものを抄し、いずれも筆でその上に点を打つ。点を打った字はすべて削るべきものである。その間に文句が欠ける箇所があれば、右側に細字で注記する。数字を入れ替えたり、片言を加え足したりして、分布が所を得て彌縫に欠けが無いようにする。読む者が悟りやすく、その失が自ずと彰れるようにするためである。実を摭って談じたのであって、前哲を誣うものではない。
家語・史記の例
- 孔子家語の、魯の公索氏が祭の犠牲を失って孔子が「二年と経たずに滅ぶ」と言い、果たして一年で滅んだ話。門人が「なぜ分かったのか」と問う件は、前の記述の繰り返しである(二十四字を削る)。
- 家語の、晉が宋を伐とうとして偵察させ、宋の陽門の介夫が死んで司城子罕が哀しんで哭したのを見た偵察者が晉侯に報告する件。報告が前の叙述をそのまま繰り返す(二十一字を削り、三字を移す)。
- 史記の五帝本紀の、諸侯の朝覲する者も獄訟する者も謳歌する者も丹朱でなく舜のもとへ行った、という三重の繰り返し(二十九字を削り、七字を加える)。
- 夏本紀の、禹の父は鯀、鯀の父は顓頊、顓頊の父は昌意、昌意の父は黄帝、と遡ったうえで「禹は黄帝の玄孫、顓頊の孫である」と重ねて言う件(十七字を削り、五字を加える)。
- 項羽本紀の冒頭、項籍の出自と項梁・項燕の関係を述べる件(三十字を削り、二十四字を加え、その順序を釐革する)。
- 呂后本紀の、高祖が孝惠を仁弱として太子を廃し戚姫の子の如意を立てようとし、呂后が疎んじられ、大臣の諍いと留侯の策で太子が廃されずに済んだ件。この事は高祖紀・惠帝紀および諸王・叔孫通・張良らの傳に見えており、呂后紀で重ねて詳述するのは過重である(七十五字を削り、十二字を加える)。
- 宋世家の、元公の孫の糾を景公が殺し、景公の没後に糾の子(特)が太子を攻め殺して自立して昭公となった経緯を、系譜を繰り返しながら二度説明する件(三十六字を削り、十三字を加える)。
三王世家——詔勅の全文引用
- 三王世家は、大司馬霍去病の上疏を全文載せたうえ、御史の奏、丞相らの上言の中で同じ上疏をもう一度全文引用し、さらに議の文でも繰り返す(百八十四字を削り、一字を加える)。
- 言葉が重複しているものは以上のように点して廃した。ただしこの一篇の記載は全部削るべきものである。ここに具さに列したのは鑑戒とするためである。
- 史を作る者は、国に詔誥があってもその十分の一も取るべきではない。
- 漢の元帝の詔は、陰陽の錯謬と風雨の不時を言い、朕の不徳を責め、群公が過ちを言わず苟合するのを憫れみ、蒸庶の飢寒と非業の労役を思って甘泉宮・建章宮の衛士を農に帰らせ、百官に費を省かせ、丞相・御史に陰陽災異に明るい者を各三人挙げさせる、という長文である。
- 荀悅が漢紀を撰したときはこれを略して、衆庶の飢寒と非業の労役を思うこと、甘泉宮・建章宮の衛士を農に帰らせること、丞相・御史に陰陽災異に明るい者を各三人挙げさせること、だけにした。ほかの抄撮もこれに倣う。
- 近ごろ則天の朝で史を撰した者たちは、制誥を一字も落とさず、冒頭の「門下」と末尾の「主者施行」を除くだけであった。当時、監修国史の武承嗣がこれを見て大いに怒り、史官に「公らは何者であって詔書を減らすのか」と言った。以来、史官は詔書を写すのに門下の賛詔まで録するようになった。
- 後にこの話を聞くたびに嘆じるばかりであった。三王世家に比べればその煩碎はさらに甚だしい。史官の愚かさは古くからのことである。今の作者が武承嗣だけを笑えるだろうか。
史記・漢書・晉書の例
- 魏公子傳の末、高祖が微賤のころから公子の賢を聞き、即位後に大梁を過ぎるたびに祠り、十二年に守冢五家を置いて四時に祠らせた、という記述と、太史公が大梁の墟を過ぎて夷門を尋ね、信陵君の故事を徴した、という記述が重複する(五十字を削り、○字を加える)。
- 魯仲連傳の、秦が趙を囲み魏の新垣衍が秦を帝と尊ぶよう説きに来た件から、魯仲連が平原君を通じて新垣衍と会い、秦が帝を称する害を説いて論破し、新垣衍が再拝して謝し、魏公子無忌が晉鄙の軍を奪って趙を救い秦軍が退いた件まで。平原君の言と魯仲連の言が幾度も同じ内容を繰り返す(三百七十五字を削り、七字を加える)。
- 屈原傳に付された賈誼の記述。賈誼が長沙王太傅に謫され、湘水を渡って屈原を弔う賦を作った経緯と、鵩鳥が舎に入って自らを広める賦を作った経緯が、いずれも「謫居長沙は卑湿で、寿を長く保てないと自ら恐れた」という同じ説明を重ねる(七十六字を削り、三字を加える)。
- 扁鵲倉公傳の、太倉公淳于意が公乗陽慶から禁方の書を受けた経緯。詔問の文と淳于意の対答の中で、同じ師事の経緯と書名の列挙が繰り返される(二百九十五字を削る)。
呼称と語の重複
- 宋世家は襄公が位を嗣いだ後もなお「宋襄公」と呼び、「宋襄」の二字を落とさない。吳世家の闔閭、越世家の勾践も、号の上に必ず「吳王」「越王」の字を加えて一句も捨てない。
- 孟嘗君傳に「馮公の形容状貌は甚だ弁なり」とある。形容と状貌は同じことなのに、敷き延べて四字に分けている。この類は数え尽くせない。
- 司馬遷は十二諸侯年表で「孔子は春秋を次ぐにあたって辞文を約し、煩重を去った」といい、屈原傳で「その文は約、その辞は微」という。この言には深い鑑がある。それなのに自ら撰した史記の榛蕪がこの有様である。「言うは難からず行うが難し」というべきか。
漢書・晉書の例
- 漢書の龔遂傳の、議曹の王生が随行し、酒に酔って龔遂を呼び止め「天子が渤海をどう治めたか問われたら、みな聖主の徳で小臣の力ではないと答えよ」と教え、龔遂がそのとおり答えて天子が悦び、王生を水衡丞にした話。王生の教えの内容と龔遂の答えが同文で繰り返される(八十四字を削る)。
- 新撰の晉書の袁宏傳。袁宏に逸才があり文章が絶美で、詠史詩に風情を寄せたこと、孤貧で運租を業としていたこと、謝尚が牛渚を鎮めていた秋の夜に微服で舟を浮かべ、袁宏が舫の中で詠史詩を諷ずるのを聞いて招き、談論して名声が高まったこと、桓温に従って北伐し北征賦を作ったこと、伏滔が桓温の座で北征賦を読み、韻を改める箇所について王珣・伏滔と議論して即座に「感、予が心に絶えず、流風を愬えて独り写す」と応じたこと、謝安が機知の速さを賞し、東陽郡に出るときに扇を贈られて「輒ち当に仁風を奉揚し、彼の黎庶を慰むべし」と応じたこと、が続く(百十四字を削り、十九字を加える)。
- 十六国春秋の、郭瑀に笄したばかりの娘があり、良い婿を選ぼうとして座前に別に一席を設け、弟子たちに「ここに座る者を婿にする」と言うと、劉昞が衣を奮って進み出て平然と「先生が快い婿を求めておられると聞きました。その人です」と言った話(二十三字を削る)。