- 要旨: 春秋三傳のうち左氏傳には三つの長所があり、公羊・穀梁の二傳には五つの短所がある。経と傳は一体で、左傳が無ければ当時の行事は分からない、という主張。
三傳をめぐる争い
- 古来、春秋三傳を論ずる者は多い。戦国の世のことはあまり聞かない。前漢では公羊が専ら用いられ、宣帝以降は穀梁も学に立てられた。成帝の世に劉歆がはじめて左氏を重んじたが、書は学官に列しなかった。
- 古来、二傳を重んじて左氏を軽んじる者は一家に限らず、左氏を美めて二傳を議する者も一族に限らない。互いに攻撃し朋党を成し、喧しく争って是非が分かれない。
- 儒者の学は専精を主とするので、章句を治め訓釈に通ずるにはそれでよい。しかし大体を論じ宏綱を挙げるとなると、言が統べるところを兼ねず理に要害が無い。だから今古の疑滞が申べられないままなのである。
- 総括して論ずれば、傳を言うなら左氏を第一とすべきである。ただし古来の左氏を学ぶ者もその実情を得ていない。賈逵は左氏長義を撰して「秦に在る者は劉氏である。漢室が推し先んずべきものだ」と称した。当時に取り入っただけで採るに足りない。
- 桓譚の新論に「左氏傳は経に対して衣の表と裏のようなものだ」とある。ところが東觀漢記の陳元の奏には「光武が左氏を興立しようとしたとき、桓譚・衛宏がともに詆訾したので中道で廃された」とある。
- 班固の藝文志は「左丘明は孔子とともに魯の史記を観て春秋を作った。貶損するところがあり、事は傳に現れたが、時難に遭うのを懼れてその書を隠した。末世に口説が流行し、公羊・穀梁・鄒氏・夾氏の諸傳ができた」という。ところが班固の集にはさらに難左氏九条・三評などの科がある。一家の言、一人の説でありながら前後で食い違う。この文は観るに足りない。
- 難を解く者は理を本とする。理に欠けたところがあって識者を心服させようとしても難しい。今、疑うところを次いで以下に列する。
左氏の三つの長所
- 一: 春秋昭公二年、韓宣子が来聘して太史氏で書を観、魯の春秋を見て「周礼はことごとく魯にあり。吾今にして周公の徳と周の王たるゆえんを知った」と言った。春秋の作は姫旦(周公)に始まり孔子に成る。左丘明の傳にある筆削と発せられた凡例はみな周の典に拠り、孔子の教えを伝えている。だから不刋の書を成し、将来の法を著しえた。
- 二: 哀公三年、魯の司鐸が火事になり、南宮敬叔が周人に命じて御書を出させた。当時、魯の文籍は最も備わっていた。左丘明は自ら太史であり群書を博く総べていた。檮杌・紀年の類、鄭書・晉志の類まで、これらの籍をすべて見ている。だからその傳は他国を広く包み、事ごとに詳しい。
- 三: 論語に「左丘明これを恥ず、丘もまたこれを恥ず」とある。聖と同じ才をもって経を授かる託を受け、加えて達者七十人・弟子三千人が遠く四方から来て同じ国にいた。上は孔子に諮り、下はその門人に訪ねている。採るところは見聞が実に広い。
二傳の五つの短所
- 一: 穀梁・公羊は異国に生まれ後世に育った。地を語れば魯史と違い、時を論ずれば孔子と接しない。伝聞の説をもって親しく見た者と先を争えるはずがない。近世でいえば、漢の太史・晉の著作が国典を撰成して当時「正言」と号されたのに、後から先賢耆旧の傳や語林・世説が競って異端を造り、他の事を強いて書くようなものである。巷から出た伝えで班固・司馬遷に抗し、古老に訪ねた書で子孫と並ぼうとしても難しい。二傳が左氏に対する関係もこれと同じである。
- 二: 左氏は臧哀伯が桓公の鼎を納れることを諫めたのを述べ、周の内史がその讜言を美めたと記し、王子朝が諸侯に告げたのを述べ、閔馬父がその弁説を嘉したと記す。この類は実に多い。当時の発言が翰墨に形をなし、立言が不朽となって他邦にも播ったものである。左丘明はその本語のまま編み次いだ。近代の史記が樂毅・李斯の文を載せ、漢書が鼂錯・賈誼の筆を載せるのと同じで、司馬遷の筆削や班固の雌黄によるものではない。二傳の載せるところはこれと異なり、人の言を録するのに語が齟齬し文が瑣碎である。あちらは史臣の簡書を得ており、こちらは流俗の口説を伝えているからである。
- 三: 左氏の載せる諸大夫の詞令、行人の応答は、文が典雅で美しく、語が博く奥深い。遠古を述べれば委曲が今あるようであり、近代を徴すれば循環して検証できる。その功用の厚薄、指意の深浅を考えれば、一時に草創されたものでも、一人の手で琢磨潤色されたものでもない。当時の国史にすでに成文があり、左丘明はそれを編み次いで経に配し傳と称しただけである。二傳は言を記し事を載せるのにその精華を失い、源を尋ねず胸臆から取っている。自ら古を作って準縄が無いので、理は甚だ迂僻で言に鄙野が多い。左氏と同列には論じられない。
- 四: 二傳は経を釈くことを主とするが、その欠漏は数え尽くせない。経が「薨」といい左傳が「公子囲に殺された」というところで、公羊は傳を作っても経文を繰り返すだけで何も明らかにしない。依違しているだけである。
- 五: 漢書に、成方遂が戾太子と詐称して闕下に至ったとき、雋不疑が「昔、衛の蒯聵は先君に罪を得て国に入ろうとしたが、太子輒は拒んで納れなかった。春秋はこれを是とする」と言い、捕らえて吏に付し、霍光がこれによって儒学を重んじ始めた、とある。雋不疑の引いたのは公羊の正文である。ところが論語では、冉有が「夫子は衛の君のために働かれるか」と問い、子貢が「夫子はなさるまい」と答える。父子が国を争うのは梟獍のたぐいで礼法が容れず名教が憎むところだからである。それなのに公羊は義を釈いて衛の輒を賢とする。孔子の教えに違い聖人の旨を失い、悪徒を奨め後学を誤らせる。
経と傳は一体
- この三つの長所とあの五つの短所を較べれば、勝負の理は明らかである。しかも春秋は内には国のために悪を隠し、外には訃告のまま書くので、本当の事を求めれば大半が実を失っている。疑経(惑経)篇に詳しく載せた。
- この義の作は、周礼の故事と魯国の遺文に、孔子が修めを加えて旧制を存したものである。実録の方は左丘明に付されたので、善悪が必ず彰れ真偽が尽く露わになった。仮に孔子の経だけが用いられ左傳が作られなかったら、当代の行事はどうして詳らかになろうか。
- 「仲尼が春秋を修めて逆臣賊子が懼れた」といい、「春秋の義は、覆おうとしていよいよ彰れ、名を求めて失われる。善人は勧み淫人は懼れる」という。春秋の書くところは実際にはこの義に乖き、左傳の録するところはこの言に恥じない。とすれば傳と経は一体であり、一方を廃せない。互いに須ちて成るのである。そうでなければ、何を勧戒と称するのか。
- 儒者は左氏の傳が経の外の別事を多く叙べると譏る。しかし楚・鄭・齊の三国の賊、隱公・桓公・昭公・襄公の四君の簒逐について、外は訃告のまま、内は諱むままなのだから、左氏の傳が無ければその事を知る由が無い。
- 仮に世人が春秋を習うのに二傳だけを取っていたら、当時二百四十年の行事は茫然と欠け、後の学者は代々聾唖になっていた。
- 秦漢の世は左氏が行われなかったので、五経・雑史・百家・諸子の言は河漢のように拠るところが無かった。だからその記事は次のようになる。晉の景公が覇を行い公室が強かった時期のことを「韓氏が趙氏を攻め、程嬰・公孫杵臼の事があった」といい、魯侯が宋を防いで乗丘で勝ったことを「莊公が敗績し、馬が驚き流矢に当たる禍があった」という。楚と晉が遭遇したのは邲の役だけなのに「二国が交戦し、両堂に師を置いた」といい、子罕が国を相けて宋が晉と睦んだことを「晉が宋を伐とうとして、陽門の介夫が哭くのを覘て止めた」という。魯の師が項を滅ぼし晉が僖公を止めたことを「項は実は齊の桓公が滅ぼしたので、春秋は賢者のために諱んだ」といい、襄公の年に再び盟って君臣が和叶したことを「諸侯が正を失い、大夫がみな国権を執った」という。
- 時についても、秦の繆公は春秋の初めにいるのに「その女は荊の昭王の夫人だ」といい、韓・魏は戦国の時なのに「その君が楚の莊王の葬に陪した」という。列子は書で孔子を論じているのに「鄭の穆公の年に生まれた」といい、扁鵲は虢公を治療したのに「時は趙簡子の日に当たる」という。欒書は周に仕えたのに「晉の文公が猟に行くのに顔を犯して直言した」といい、荀息は奚齊のために死んだのに「晉の靈公が台を作るのを観て碁を累ねて誡めた」という。
- 先を後とし後を先とし、日月が顛倒し上下が翻覆している。古来の君子はこれを疑わなかった。左傳が行われてはじめてその失が自ずと顕れた。その益は大きい。それなのに世の学者はなお悟らない。いわゆる「我が大徳を忘れ、日々用いながら知らない」というものである。
- 左丘明の後、魏の滅亡まで千年近く、その書は廃れたままだった。晉の太康年間に汲冢から得た書が左氏とまったく同じであった。だから束晳は「この書が漢の世に出ていたら、劉歆は五原太守にならずに済んだのに」と言った。
- こうして摯虞・束晳がその義を引いて明らかにし、王接・荀顗がその文を取って証とし、杜預が注釈を加え、干寶が晉紀の拠りどころとした。以来、世は実録と称し、書でないとは言わなくなった。次第に行われて異議も無くなった。
- 孔子は「吾が志は春秋に在り、行いは孝経に在り」と言い、春秋を左丘明に授け、孝経を曾子に授けた。史記には「孔子は西のかた周室を観、史記の旧聞を論じて春秋を次いだ。七十子の徒はその旨を口授された。傳の刺譏・褒諱の文は書に見せられなかったからである。魯の君子・左丘明は、弟子がそれぞれ異端を立ててその真意を失うことを懼れ、孔氏の史記に因ってその語を具論し、左氏春秋を成した」とある。
- 学ぶ者がこの二説を徴して三傳を考えれば、是非を定め真偽を明らかにするに足りる。汲冢の書を見てからでなければ信じられないというものではない。これによって三傳の優劣は明らかである。