史通雜説中第八

  • 要旨: 諸晉史・宋略・後魏書・北齊書・周書・隋書について、個々の記述の当否を条ごとに論評する。

諸晉史(七条)

  • 東晉の史は作者が多門だが、何法盛の中興書が実際に最上である。それなのに晉を学ぶ者がこれを知らない。埋もれて行われなくなれば惜しいことである。
  • 王隱・檀道鸞の書は晉史のとくに劣ったもので、前代になぞらえれば陸賈・褚少孫の類であろう。檀道鸞は浅い才を顧みず奇語を出すのを好む。益そうとしてかえって損ない、妍を求めていよいよ醜くなるというものである。
  • 臧榮緒の晉書は「苻堅が号を竊んだとき、疆域は石虎より狭かったが、人物では勝っていた」という。しかし後石(石虎)の時、張氏が瓜州・涼州に拠り、李氏が巴蜀を専らにし、遼水の東は慕容氏に属し、沙漠の南は司馬氏に帰していた。苻氏の代にはこれらを兼ね有し、禹貢の九州のうち実に八州を得ている。それを「地は趙に劣る」とは何ということか。事の識が精しくないのに軽々しく著述する。身の程を知らないというものである。
  • 張勔は晉史を抄撮したが、異同を求めずすべて摘み取った。この言に従わず淘汰もしないのだから、罪はさらに甚だしい。
  • 学が該博でなく鑑が詳正でなければ、修撰するものは異聞ばかりを集め、踳駁して覚りにくくなる。
  • 應劭の風俗通は「楚に葉君の祠がある。葉公諸梁の廟である。ところが俗説では、孝明帝のとき河東の王喬が葉県の令となり、しばしば鳧を飛ばして入朝した、という」と載せる。ところが干寶の搜神記は應劭の説いた筋を隠して流俗の怪説だけを収める。
  • また劉敬叔の異苑は「晉の武庫が火事になり、漢の高祖の斬蛇剣が屋根を貫いて飛び去った」という。言が経に外れているので、梁の武帝は殷芸に小説の中へ編み入れさせ、蕭方等が三十国史を撰したときは正言として刋った。
  • ところが宋(范曄の後漢書)は漢の事を求めて干寶の書を傍らから取り、唐は晉の語を徴して蕭方等の録に近く憑った。編簡がいったん定まれば膠漆のように動かせない。そのため俗の学者は、鳧の履で朝に登った話を「漢書の旧記」といい、蛇剣が屋を穿った話を「晉典の明文」という。あの虚詞を摭ってこの実録を成す。「三人成市虎」とはこのことであろう。
  • 司馬遷は論を持して「堯舜の世に許由は無い」といい、應劭は「漢代に王喬は無い」という。正しい言である。ところが皇甫謐(士安)は高士傳を撰して箕山の跡を具さに説き、干寶(令升)は搜神記を作って葉県の霊を深く信ずる。いずれも声に向かって実に背き、真を捨てて偽に従うもので、知りながら故意にしているのだから罪は甚だしい。
  • 近ごろ宋の臨川王・劉義慶が世説新語を著し、上は両漢・三国および晉の中朝・江左の事を叙べた。劉峻(孝標)が注釈してその瑕疵を摘み、偽りの跡は明らかで文飾しがたい。ところが本朝が晉史を撰するにあたってはこの書を多く取り、康王(劉義慶)の妄言を採って孝標の正説に違った。これで事を書くとは、何と厚顔なことか。
  • 漢の呂后は婦人でありながら制を称し、事は王者と同じである。班固はその年月を次いで諸帝と同じ体裁で編みながら、事跡の記述は后妃と同じ扱いにしている。
  • 本朝の諸学士が撰した晉書は、冒頭に凡例を発して「班固の漢書は皇后について王氏・呂氏を除いて傳を作らず、行事はすべて外戚篇に寄せて叙べた。載せていないのは元后だけである」という。しかし呂氏を引いて例とできるはずがない。読書が精しくなく識事に欠けが多いためである。本紀に標目があって高后の年を編んでいるのを見て、外戚篇の裁ち方まで疑い、そこで娥姁(呂后)の事を叙べたと思い込んだのである。率略が甚だしい。
  • 揚王孫は布の袋に屍を盛って裸で葬られ、伊籍は吳に対して「一拝一起」と答えた。どちらも労とするには足りない。両賢の生涯にこの一事があるだけである。それなのに漢書・蜀志は傳を立てた。前哲がすでに議して詳しく述べている。とはいえ揚王孫は経に反しながら義に合い、奢った葬りの過ちを矯めるに足り、伊籍は敏い辞で応対して使者の辱めを免れた。篇に列するのになお取るところがある。
  • 近ごろ本朝が撰した晉書は劉伶・畢卓の傳を著すが、その叙事はただ酒を嗜んで沈湎し、礼に悖り徳を乱したことを載せるだけである。こんな傳を作って何を取るのか。

宋略(一条)

  • 裴子野(幾原)は宋史を刪略して二十篇に定めた。繁を芟り要を撮ることに実に力があった。しかし録した文章はかなり蕪穢に傷んでいる。
  • 文帝が師傅の官を除いた詔、顔延之の元后哀冊文、顔峻の二凶を討つ檄、孝武帝が李夫人に擬えた賦、裴松之の上柱国志表、孔熙先の罪の許曜の詞——これらの文はとくに載せるべきでない。
  • なぜか。劉義康(羨亮)は威権が主を震わせ、猜忌を負っていた。取ろうとするならまず与えるもので、やがて罪名が列べられ刑書が正された。とすれば先に降された詔はもともと実録でない。それを前後で両方載せれば矛盾して双方が傷つく。
  • 国に不幸があれば史に哀冊がある。晉宋以降は多く起居注に載るが、詞はみな虚飾で義は観るに足りない。略を旨とするなら去るべきである。
  • 昔、漢王が項羽を数え、袁紹が曹操を檄したのは、その文を具さに録さなければ過ちを暴きにくい。しかし二凶の悪は言わずとも知れる。檄で数え上げてはじめて罪状が明らかになるものではない。国史に刋するなら、扱いを違えるべきではない。
  • 孝武帝が賦を作って亡き人を悼んだのは、心を内寵に鍾め情が児女にあるもので、軍国の語ではない。裴松之の論ずるところは事が甚だ下り、加えて文理も巧みでない。孔熙先が逆を構えて姦を懐き、矯めた言で衆を欺いたときの草稿は、そもそも宣行されていない。これらをみな編次に入れて銓択しないのは蕪濫ではないか。
  • 仮にこの数文を除いて別の説を存していたら、末年の美事の遺漏はごく少なくなったであろう。なぜ取るべきものを取らず、除くべきものを除かないのか。
  • ただし近代の国史はおおむねこの累があり、鄶から下は譏るに足りない。裴氏は諸作の中では史を語れる相手なので、あえてその事を挙げて掎摭を申べた。

後魏書(二条)

  • 宋書が佛狸(拓跋燾)の入寇を載せるとき、その勝負はおおむね実録である。魏史(魏收の撰)の書くところはすべて沈約の本から出ているが、恥ずべき事があれば意のままに加減し、依違して言を飾る。
  • とくに「劉氏が女を献じて和を請うたが、太武帝は婚を諾さなかった」というのは怪しい。江左の皇族や水郷の庶姓——司馬・劉・蕭・韓・王の類——は、亡命から出た者も俘囚から起こった者も、桑乾(北魏)に一度来ればみな禁臠となった。これは魏史自身が述べていることで、他国の伝えではない。北が南を重んずる礼がこれほどなのに、黄旗の主(南朝の君)が自ら身を屈して婚を求めたのに、白登の陣で疑って納れなかったなどということがあろうか。その言の欺きようは甚だしい。
  • 沈約(休文)の宋典を観れば、まことに巧みとは言えないが、魏收(伯起)の魏書に比べればはるかに良史である。それなのに魏收はいつも「私は沈約を一人の奴と同じに見ている」と言った。嫫母を飾って西施を誇り、魚の目を持って明月の珠を笑うようなものである。
  • 近ごろ沈約の晉書は奇説を造るのを喜び、「元帝は牛金の子で、牛が馬の後を継ぐという徴に応じたのだ」と称する。鄴中の学者である王邵・宋孝王が詳しく論じている。ところが魏收は南国を深く嫉み、その短を書けるのを幸いとして、司馬叡傳を著すのに沈約の言をそのまま具さに録した。
  • また崔浩は狄の君に諂って邪説を曲げて作り、「拓跋氏の祖はもと李陵の胄である」と称した。当時の衆議に斥けられて行われなかったが、その書を竊んで江を渡った者があったらしく、沈約は宋書の索虜傳を撰するのに崔浩(伯淵)の述べたところを伝えている。この種の妄りはその流れが甚だ多い。跡を尋ねる手がかりが無ければ、真偽は弁じがたい。

北齊書(三条)

  • 王邵の国史は、戦争を論じ紛擾を述べるところで余勇を発揮し、その長所がよく見える。
  • 文宣帝が孝靖帝に迫って魏の禅を受けたこと、二王が楊愔・燕子献を殺して乾明帝を廃したことの叙述は、左氏が季氏が昭公を逐ったこと、秦伯が重耳を納れたこと、欒盈が曲沃に起こったこと、楚の靈王が乾谿に敗れたことを載せるのに連ねられる。
  • また高祖が宇文氏を邛山に破ったこと、周の武帝が晉陽から鄴を平らげたことの叙述は、左氏が城濮の役、鄢陵の戦い、齊が鞍に敗れたこと、吳の師が郢に入ったことを書くのにも劣らない。
  • ある人が問う。「王邵の齊志が当時の鄙びた言葉を多く記すのは是か非か」。
  • 答える。古今で名目はそれぞれ異なり、地が隔たれば称謂も同じでない。だから晉・楚の方言、齊・魯の俗語は六経や諸子に多く載る。漢以降は風俗がしばしば移ったが、史籍に求めるとその事を見るのを羞じている。
  • 君臣の呼び名を朋友に用いたり、尊官の称を君父に属したり、曲げて崇敬して「処士」「王孫」と標したり、軽々しく侮って「僕夫」「舎長」と号したりする。荊楚では「多い」を「夥」と訓じ、廬江では橋を「圯」といい、南は北人を「傖」と呼び、西は東胡を「虜」という。「渠們」「底箇」は江左の彼此を指す辞、「若君卿」は中朝の汝我の意である。いずれも地に因って変わり時に随って革まる。方冊に記されていれば、推し尋ねるまでもなく民俗の異なり土地の風の類しないことが分かる。
  • ところが二京が失われ四夷が制を称して以来、夷と夏が入り交じり音句がとくに醜くなった。崔鴻(彦鸞)・魏收(伯起)は隠諱に努め、李重規(李百藥の父)・令狐徳棻は文飾を志した。おかげで中国数百年の間、その俗が語れなくなった。
  • 「古を知って今を知らないのを陸沈という」といい、「一物を知らないのは君子の恥」という。時の遠近も事の大小も問わず、多聞によって博識を成すべきである。今でいえば、中州を「漢」と名づけ、関右を「羌」と称し、臣を易えて「奴」といい、母を呼んで「姊」といい、主上に「大家」の号があり、軍人に「児郎」の説がある。この類は甚だ多い。その本源を尋ねてもどこから出たのか分からないが、齊志を閲すれば了然として分かる。
  • とすれば王邵の録は益がいよいよ多い。後進の蒙昧を開き、来者の耳目を広げるに足りる。王邵(君懋)がいなければ、近い事について壁に向かうところであった。なぜ妄りに譏り誚るのか。
  • 本朝が五代史を修めたとき、館中に落ちていた草稿がなお残っており、みなその旧事に因って新史を定めた。その朱墨の書き入れや鉛黄の消しを見れば、なお読み取れるものがある。実を虚とし是を非としたところもある。
  • 北齊の国史はみな諸帝を廟号で称していたが、李百藥が齊書を撰したとき、廟号に時の諱に触れるものがあると謚で称した。世祖を「文襄」に変え、世宗を「武成」に改めた類である。「世」の字を除くことだけを考えて、襄と成に別があることに気づかなかった。この種の誤りは数え切れない。
  • そのため列傳の叙事でも、武定年間の臣佐を成朝(武成帝の代)に下げたり、河清年間の事跡を襄代(文襄の代)に引き上げたりする。時日が接しないのに隔たったまま並べるので、読む者は混乱して測りかね、驚いて疑いを重ねる。
  • 古来の著書で精しく正しいものは無い。書が成って筆を絶つや、たちまち旧章が捨てられ、玉石ともに燼となり真偽が尋ねにくくなる。痛ましいことではないか。

周書(一条)

  • 今世に行われる周史は令狐徳棻らの撰である。その書は文にして実でなく、雅にして検が無い。真の跡は甚だ少なく、客気ばかりが煩わしい。
  • 宇文氏が初めて華風に習ったのは蘇綽によるもので、軍国の詞令はみな尚書に準拠した。太祖は朝廷の文をすべてこれに準じるよう勅した。史臣の記すところもみなその規に禀り、柳虬の徒も風に靡いた。
  • 蘇綽の文は淫麗を去って典実を存したが、枉げを矯めて正に過ぎる失に陥り、俗に適い時に随う義に乖いた。記言がこうであれば、その誤りはいよいよ多くなる。
  • 牛弘に至ってはさらに儒雅を尚び、その書の旧事に因って勒成したので、清談を累ねることに努めて佳句に逢うことがまれである。それなのに令狐徳棻は別の述作を求めて異聞を広げることができず、ただ本書に憑って重ねて潤色した。こうして周氏一代の史は多く実録でなくなった。

隋書(二条)

  • 昔、賈誼の上書、鼂錯の対策はいずれも国に益があり勧戒を遺すに足りるが、それでも漢史に編まれたのを読者はなお繁しと恨む。
  • 隋書の王邵傳・袁充傳は、その詭辞と妄説を録するだけで一篇に満ち、続いて詆訶を加えてその諂い惑わすさまを咎める。史が言を載せて後世に示すのは、辞と理が観るに足りることを貴ぶからである。益が無いのに書くくらいなら、遺して載せない方がよい。
  • 学ぶ者の神識には限りがあり、述べる者の注記には涯が無い。限りある神識で涯の無い注記を観れば、目も耳も労を告げ、簡編に書き繕写するのも追いつかない。ああ、著述がみなこの調子なら、李斯が坑を設け董卓が帷蓋を作ったのも、行いは濫りでも最後には取るところがあったということになる。
  • 隋史は王邵(君懋)が撰した齊・隋の二史を「叙録が煩碎だ」と譏る。劉臻が家に帰って子に訪ねてようやく分かった話や、王邵が書に思いを凝らして奴に侮られた話まで、すべて載せているというのである。しかし隋書自身の失はさらに多い。咎めながらこれに効うのだから、罪はいっそう甚だしい。