- 要旨: 孔子の春秋には理解しがたい十二の点があり、世が春秋に帰する称賛のうち五つは虚しい、として二十条に分けて論ずる。
疑いを述べる理由
- 孔子は大聖の徳をもって運に応じて生まれ、人が生まれて以来これに並ぶ者はいない。三千の弟子、七十の門人が鑽仰しても及ばず、教えを請うて倦むことがなかった。
- とはいえ尺にも短いところ、寸にも長いところがある。その間の切磋や応対には得失が互いに見える。子路(仲由)が悦ばないのを見れば天に誓って自ら明らかにし、子游(言偃)の弦歌に答えては「戯言だ」と称して難を釈く。聖人の教えの立て方は理が寛容である。誓いを引いて心を表し、非を認めて屈することもある。凡庸な儒者や末学が過ちを文り非を飾って、問う者に口を噤ませ疑いを抱えたままにさせるのとは違う。
- 古今は世を異にし師授の道は隔たっている。親しく掃除に仕えて五尺の童子に伍し、身をもって徳音を奉じて四科の友を撫でることができないのが恨めしい。ただ蠹の食った簡を研尋し遺文を穿鑿するだけで、精華は久しく去り糟粕を相手にしている。理に達しないところがあっても質す由が無い。だから巻を握って躊躇し、筆を揮って悱憤する。
- もし梁木が壊れて魂に霊があるなら、あえて接輿の歌に効い、林放の問いに倣いたい。孔子の立言・行事、詩を刪り易を賛したことは義が広く具論しがたいので、今は史文だけを摭って以下に評する。孔子の修めた史は春秋である。春秋の義を詳らかにすると、諭しがたいものが十二ある。
諭しがたい点
- 一: 趙孟は辞なく国を伐ったので号を貶して「人」とされ、杞伯は夷礼で来朝したので爵を降して「子」と称された。虞が晉の上に班したのは貪賄を悪んで先に書いたもの、楚が晉より盟に長じたのは無信を譏って後に列したものである。人倫の臧否は我が筆端にあり、直道を行って何を遠慮することがあろうか。それなのに齊・鄭・楚で君が弑されたとき、いずれも病死として訃を告げてきたので、みな「卒」と書いている。臣が君を弑し子が父を弑すのは、識ある者なら誰でも恥じ懼れる。欺いて免れるなら誰が願わないだろうか。しかも正卿の官にありながら賊を討たなかった者、嫡子の地位にありながら薬を自ら嘗めなかった者には悪名を被せて後世に伝えている。あの三つの弑逆に比べれば、この二つは軽い。実際に梟獍のふるまいをした者が網を漏れて名を遺し、瓜田李下の疑いに触れただけの者を指弾して録するのでは、悪を憎む情はどこにあるのか。
- 二: 齊の野幕の弑は陽生(悼公)に起こり、楚の靈王が乾谿で縊れた禍は公子比によるものである。ところが春秋はその首謀を捨て、直接手を下した者を書かない。魯の酒が薄くて邯鄲が囲まれ、城門の火が池の魚に及ぶような理屈である。それなら邾の門番が私憾から、射姑(邾子)が短気で潔癖なのを利用し、欺いて怒らせ、水を庭に撒いて炉に落ちて焼け死なせたのも大きな罪である。なぜ「弑」と書かないのか。
- 三: 明鏡が物を照らせば妍も媸も必ず露わになり、毛嬙の顔に疵があってもその鑑を止めない。虚空が響きを伝えれば清濁ともに聞こえ、綿駒の歌に時に娯しい曲があってもその応じを止めない。史官が簡を執るのもこうあるべきである。愛しながらその醜を知り、憎みながらその善を知り、善悪を必ず書くのが実録である。ところが孔子が春秋を修めたときは賢者のために諱むことが多い。狄が実際に衛を滅ぼしたのに桓公の恥に因って書かず、河陽に王を召したのに文公の美として「狩」と称する。情が向背を兼ね、志が彼我を懐いている。書法がこうでは、君子は法度を憚らず、白圭に玷があっても良史に慚じないことになる。
- 四: 哀公八年と十三年に公は再び吳と盟ったが、いずれも書かれていない。桓公二年には公が戎と盟ったことを書く。戎は実に豺狼で我が族類ではない。諱むべきでないことを諱み、恥じるべきことを恥じない。折衷を求めても宜しさが見えない。
- 五: 諸国の臣子は卿でなければ書かないが、土地を持って亡命してくれば身分が賤しくても記す。国の大事は常の基準に限れないからではないか。ところが陽虎が盗んで讙に入り、陽関に拠って外に叛いたことは、傳には事が具わるのに経には見えない。弓や玉が失われたことすら顕らかに記されるのに、城邑の失守がかえって書かれない。大を略して小を存するのでは、懲勧の理に乖く。
- 六: 諸侯の嫡子が業を嗣ぎ喪に居るうちはまだ君と成っていないので、その諱を避けない。これが春秋の例である。それなのに子般・子野の死はどちらも名で書き、子視の死だけは「子卒」とだけ言う。
- 七: 人倫において死所を得なかった場合、邦君以上はみな「弑」といい、卿士以上は通じて「殺」という。これも春秋の例である。ところが桓公二年に「宋督その君与夷およびその大夫孔父を弑す」とあり、僖公十年に「晉の里克その君卓およびその大夫荀息を弑す」とある。臣は「殺」とすべきなのに「及」で繋いで君の弑と同科にしている。弑と殺を分けなければ君臣の別が無くなる。
- 八: 臣子の書くところで君父は身内であるから、事が正直に乖いても名教には合う。魯の隱公・桓公が弑され、昭公・哀公が放逐され、姜氏が淫奔し、子般が夭折したことは国の大きな醜であり、諱んでもよい。しかし公が晉の葬に送ったこと、公が吳と盟ったこと、齊に止められたこと、邾に敗れたこと、盟いながら至らなかったこと、会に遅れたことまで、すべて諱んで書かない。煩碎が甚だしい。しかも汲冢の竹書や晉春秋・紀年の記事を見ると、重耳の出奔や惠公が捕らえられたことなど、自国のことでも隠さない。魯の春秋だけがそうではない。国家の事は大小を問わず、少しでも疑わしければ恥として諱み、後世を厚く誣う。なぜ魯だけがこれほど多いのか。
- 九: 昭公十二年「齊、北燕伯を陽に納る」の陽とは公子陽生のことである。孔子は「齊が我に事えたことは、私も知っている」と言い、傍らの者が「知っているならなぜ改めないのか」と問うと「お前の知らないようなことだ」と答えた。とすれば孔子は春秋を修めるにあたって、あの乖僻に遵い訛謬に習い、編次するにあたって刋改を加えなかったことになる。それならなぜ、その間で褒めたり貶したり、緩めたり張ったり、沿ったり革めたりして、一定の体が無いのか。
- 十: 事を書く法は理が明らかであるべきで、読者が一家の廃興を求めれば前後が合い、一人の出入りを尋ねれば始末が辿れるようにすべきである。ところが定公六年に「鄭、許を滅ぼし、許男斯を以て帰る」とあり、哀公元年に「許男、楚と蔡を囲む」とある。許がすでに滅び君が捕らえられ国が亡んだのに、どうして再び諸侯に列して兵を挙げ国を囲めるのか。その間の行事に必ず説明があるはずなのに、経は書かず傳も載せない。これほど欠けていては尋ねても分からない。
- 十一: 晉は魯の閔公以前は上国と通じず、僖公二年に下陽を滅ぼして以降、次第に春秋に見える。行人を遣わして魯に通じ始めたからである。ところが瑣語の晉春秋は魯の閔公の時の事を甚だ詳しく載せる。事を聞けば必ず書き、訃告を要しなかったのである。当時の国史は他もこれに倣ったであろう。孔子の修めたものはそうではない。異国のことを書くには来告に拠り、告があれば小事でも必ず書き、告が無ければ大事でも欠く。だから宋に六羽の鷁が飛んだ小事は告があったので書き、晉が三国を滅ぼした大事は告が無かったので欠けている。巨細が均しくなく繁省が中を失う。孔子は不刋の書を撰して後王の則としたのだから、その過失をそのままにして規矩に中らないままでよいはずがない。
- 十二: 君子は博聞多識を工みとし、良史は実録・直書を貴ぶ。ところが春秋が他国の事を記すには来る者の辞に憑るしかなく、その言の多くは実でない。兵に敗れても敗として告げず、君が弑されても弑と称さない。名を挙げるべきなのに挙げず、氏を記すべきなのに記さず、春に崩じたのを夏として聞き、秋に葬ったのを冬として訃を受ける。それをそのまま承けて書くので、真偽が分かれず是非が入り乱れる。
- 諭しがたいものはこの種のものがとくに多い。静かに思ってもその理由が究められない。孔子の墻は数仞、その門を得られないからであろうか。それとも「丘や幸いなり、苟くも過ちあれば人必ずこれを知る」ということであろうか。その与奪については不敏を謝すほかない。
五つの虚しい称賛
- 世人は孔子が天の縦す将聖で多能であったことから、春秋には善が備わらぬところは無いという。形を審らかにする者は少なく声に随う者が多いので、雷同して実を指す者がいない。総括して論ずれば、虚しい称賛が五つある。
- 一: 古くは国に史官があって時事を具さに列した。汲冢の記すところはみな魯史と符合する。周の東遷についてはその説がやや備わり、隱公・桓公以前は詳しくしがたい。この煩簡は春秋と変わらない。「君を捕らえるを止という」「臣を誅するを刺という」「その大夫を殺す」「我が行人を執う」「鄭その師を棄つ」「石隕つること宋に五つ」といった句も、多くは古史の全文である。とすれば孔子の修めたものは、成った事に因って雕飾を加え、旧のままにしただけである。どこに力を用いたのか。加えて史策に欠文があり時月に順序の乱れがあっても、そのまま残して正していない。心を用いていない。それなのに太史公は「孔子が春秋を作るや、筆すべきは筆し削るべきは削り、子夏の徒も一辞を賛けられなかった」という。虚しい称賛の一である。
- 二: 宋の襄公は滕子を捕らえながら「罪を得た」と誣い、楚の靈王は郟敖を弑しながら病死として訃を告げた。春秋はどちらも告のまま書いて改めていない。無辜の者に罪を加え、罪ある者はその咎を隠せている。勧戒を求めてもその義はどこにあるのか。それなのに左丘明は春秋の義を論じて「名を求めて得ざる者あり、覆おうとしていよいよ彰れる者あり。善人は勧み、淫人は懼れる」という。虚しい称賛の二である。
- 三: 春秋の書は褒貶を主とする。だから國語で晉の司馬侯が君の悼公に「その善を以て行い、その悪を以て戒める。徳義というべきだ」と答え、公が「誰がそれをできるか」と問うと「羊舌肸が春秋に習熟している」と答えた。董狐は書法を隠さず、南史は簡を執って進み続け、寗殖は君を追い出して死ぬまで自分の名が策書に残ることを憂えた。当時の史臣はそれぞれ直筆を懐き、犯せば必ず死ぬと知りながら書法を捨てなかったのである。ところが孔子が春秋を修めてからは、他国で君を簒い弑した例が三つ、本国で君を殺し逐った例が五つあるのに、どれも欠けて録されず、名を逃れた者を作ってしまった。それなのに孟子は「孔子が春秋を成して乱臣賊子が懼れた」という。烏有の談ではないか。虚しい称賛の三である。
- 四: 春秋の文には成例があるが、事が同じでも書き方が異なり、理が違っても同じに書くことがある。だから太史公は「孔氏が春秋を著すに、隱公・桓公の間は彰らかで、定公・哀公の際は微かである。当世に切実な文には褒諱の辞が無いからだ」という。行いを危うくし言を遜り、剛を吐いて柔を茹み、推し避けて身を全うし、依違して禍を免れたということである。それなのに孟子は「孔子が『我を知る者はそれ春秋か、我を罪する者はそれ春秋か』と言った」という。虚しい称賛の四である。
- 五: 趙穿が君を殺したのに「宣子の弑」と称し、江乙が布を失ったのに「令尹の盗んだもの」と称した。春秋の世の識ある士は誰もが辞を微婉にし説を隠晦にしていた。当時の常事であり習俗として行われていたことである。それなのに「仲尼没して微言絶ゆ」という。微言の作が孔子だけのものであろうか。虚しい称賛の五である。
- これらの称賛の本源を徴すれば、達者が相承け儒教が伝授するうちに、その事を神格化しようとして談が実を過ぎたのである。「衆これを善しとするも必ず察す」といい、孟子も「堯舜はその美に勝えず、桀紂はその悪に勝えず」という。世の春秋を語る者は、衆が善しとするのを見て察せず、堯舜の美が多すぎるのと同じ轍を踏んでいるのではないか。
- 昔、王充の論衡には問孔の篇があり、論語の群言は多く指摘されたが、春秋の雑義については明らかにされなかった。そこで旧来の疑いを広げ、新しい気づきを加えた。将来の学者が詳らかにすることを願う。