史通疑古第三

  • 要旨: 尚書など遠古の書は言を重んじて事を略し、諱を多く立てるので、伝えられた聖王の禅譲や善政には疑うべき点が多い、として十の疑いを挙げる。

古人は事より言を重んじた

  • 古の史氏の区分は二つ、記言と記事である。古人の学ぶところは言を第一とした。虞・夏の典、商・周の誥、仲虺・周任の言、史佚・臧文仲の説は、遊説し応対し策を献じ書を上る者がみな端緒として引き、拠りどころとする。
  • 事についてはそうではない。少昊が鳥の名で官を呼び、陶唐が御龍によって職を拝し、夏氏が中ごろ衰えて后羿・寒浞という盗が出、齊が建国された当初に蒲姑・伯陵という君がいたことは、いずれも開国成家の異聞奇事なのに、後世の学者はその説を伝えることがまれである。博物の君子がわずかに一隅を知る程度である。記事の史が行われず記言の書が重んじられたことが分かる。
  • 左氏が傳を作ったとき、本経を義釈しながら他の事も雑ぜた。そのため両漢の儒者はこれを讐のように嫉み、公羊・穀梁の二傳が大いに行われて後世に名を擅にした。
  • 孔門の著述でも、論語は言辞を専ら述べ、家語は事業を兼ね陳べる。ところが古来の学徒が相授するのは論語だけである。いずれも古人が事を軽んじ言を重んじた明らかな証である。
  • 上は唐堯から下は秦の繆公まで、尚書の録はわずか百篇である。しかも載せるところは言を主とし、廃興の行事は万に一つも記さない。その欠略は言い尽くせない。だから後人に「唐虞以下の帝王の事は明らかにしがたい」と言わせるのである。

聖人の教えと諱

  • 論語に「君子は人の美を成し、人の悪を成さず」といい、「成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず」といい、「民はこれに由らしむべく、これを知らしむべからず」という。
  • 聖人の教えがこうである以上、史籍での義も同じである。美しい者はその美に因って美め、悪があっても毀りを加えない。悪い者はその悪に因って悪しみ、美があっても誉れを加えない。
  • だから孟子は「堯舜はその美に勝えず、桀紂はその悪に勝えず」と言い、魏の文帝は「舜・禹の事は吾これを知れり」と言い、漢の景帝は「学ぶ者が湯・武の受命を言わないのは愚かではない」と言う。いずれも先賢の精しい鑑で、すでに先覚がある。ただ礼法に拘り師訓に限られて、口に出せなくとも心では不可と知っていた者は多かったのであろう。
  • 魯の史に春秋があるが、外は賢者のため、内は本国のために、事の大小を問わずすべて隠諱する。周公の格言である。しかしこれは春秋に限らず、六経すべてがそうである。
  • 孔子が書を刋ったのを見ると、夏の桀が湯に譲り、武王が紂を斬ったという事は明白なのに刈り取られて残っていない。
  • 孔子が礼を定めたのを見ると、隱公・閔公は非命に死に、子般・子視も天寿を全うしていないのに、筆を奮って「魯に簒弑は無い」と昌言する。
  • 孔子が詩を刪ったのを見ると、国風はどれも怨刺を含むのに、魯国についてだけその章が無い。
  • 孔子の論語を見ると、魯の君が吳から娶ったのは同姓婚であるのに、司敗の問いに「礼を知る」と答えている。世人が智を飾り愚を矜り、愛憎を己によって決めることが多いのが分かる。
  • 加えて古文の記事は詞が簡約で推しても詳らかにしにくく、欠漏を補うすべもない。後の学者はその源を究めず、聾唖のように察しないままである。そこで疑わしい事を挙げて篇に著す。以下に十条を列する。

疑いの一——堯の世は本当に善政だったか

  • 虞書は放勛(堯)を美めて「克く峻徳を明らかにす」といい、陸賈の新語は「堯舜の臣は家ごとに封ずるに足りる」という。堯典の成文に因って奇説を広げたものである。
  • しかし春秋傳によれば、高陽氏・高辛氏にそれぞれ才子八人があって八元・八愷と呼ばれ、この十六族は代々美を継いで名を落とさず堯の代に至ったが、堯は挙用できなかった。帝鴻氏・少昊氏・顓頊氏にそれぞれ不才の子があって渾沌・窮奇・檮杌と呼ばれ、この三族は代々凶を継いで悪名を増して堯の代に至ったが、堯は除けなかった。縉雲氏にも不才の子があり天下は饕餮と呼んだ。三族と合わせて四凶と称されるが、堯はやはり除けなかった。
  • とすれば堯の世は小人と君子が肩を並べ、善悪が分かれず賢愚が同じ轍だったことになる。
  • 論語に「舜が皋陶を挙げて不仁者は遠ざかった」とある。皋陶が挙げられる前は不仁の者が甚だ多かったわけである。堯の時に小人が位にあったのだから、どうして「克く峻徳を明らかにす」「家ごとに封ずるに足りる」と言えようか。

疑いの二——堯は本当に位を譲ったか

  • 堯典の序に「将に位を遜れ虞舜に譲らんとす」とあり、孔安国の注は「堯の子の丹朱が不肖だったので禅位の志があった」という。
  • しかし汲冢の瑣語には「舜が堯を平陽に放った」とあり、その書には「某地に城があり、堯を囚えたという名で呼ばれる」ともある。識者はこの異説によって禅授をかなり疑っている。
  • この二書だけでも証として足りるが、まだ見えていないことがある。山海経は放勛の子を「帝丹朱」といい、君を帝に列している。舜は堯を廃しながらいったん堯の子を立て、まもなくその帝位を奪ったのではないか。
  • 近ごろの姦雄が奮い立って覇王を自称するとき、父を廃して子を立てたり、兄を黜けて弟を奉じたりする。初めは推戴のように見せて、最後は簒奪を成す。歴代に求めればしばしばある例である。古を今になぞらえれば千載一揆であって、堯が舜に授けた事は明らかにしがたい。「国を譲った」というのは虚語にすぎない。

疑いの三——舜の南巡と死

  • 虞書の舜典に「五十載、方に陟りて乃ち死す」とあり、注に「蒼梧の野に死し、そこに葬った」とある。
  • 蒼梧は楚でいえば汨羅の川、漢でいえば零陵・桂陽の邑である。地は百越を総べ山は五嶺に連なる。人の風は柔弱で地気は瘴を吐く。百金の子ですら往復の道を憚るのに、まして万乗の君が巡幸に堪えられようか。
  • しかも舜は精華が尽き形神が労を告げたので実位を捨てたのであり、重荷を下ろすようなものだったはずである。死に臨む年に、なぜ不毛の地を踏むのか。加えて二妃は従わず、怨みのうちに生き別れ、万里に寄る辺なく孤魂が絶えた。王位を譲って高く身を処した者の末路がこれでよいのか。
  • 古来の人君の廃逐を見ても、夏の桀が南巣に放たれ、趙の嘉が房陵に遷され、周王が彘に流され、楚の帝が柳に徙されたが、艱難としてこれほどのものは無い。とすれば陟方の死は、そもそも文命(禹)の志によるものではないか。

疑いの四——伯益は啓に誅されたか

  • 汲冢書に「舜は堯を平陽に放ち、益は啓に誅された」といい、「太甲は伊尹を殺し、文王は季歴を殺した」ともある。いずれも正経と語が異なり、書も近ごろ出たものなので、世人の多くは信じない。
  • 舜が堯を放ち文王が季歴を殺したことは、別の説が無くともその情を検するに足る。この篇の前後で詳しく述べた。
  • 伯益と伊尹が戮されたことは正書に証が無いが、推して論ずれば、啓が伯益を誅したことは核べられる。舜が堯を廃して丹朱を立て、禹が舜を黜けて商均を立てたように、伯益は機権を握り勢いは舜・禹と同じだった。故事に因って坐したまま天禄を受けようとして事が成らず、自ら咎を招いたのであろう。
  • 近古の簒奪でも、桓玄だけが全うできず司馬氏が反正した。啓が伯益を誅したのは晉が桓玄を殺したのと同じであろう。舜・禹が相代わって事業を成しえたのに、伯益だけが轍を覆して罪に伏し夏后が立ったのは、桓玄が曹氏・司馬氏に効いながら独り元興の禍を招いたのと同じである。

疑いの五——湯の「慙徳」

  • 湯誥に「湯は桀を伐って鳴条に戦った」といい、「湯は桀を南巣に放ち、ただ慙ずる徳あり」という。
  • ところが周書の殷祝篇は「桀が湯に王位を譲った」と称する。尚書とは異なる。周書の説どおりなら、湯はすでに桀に勝って夏人を力で制し、桀に推譲させて王位を己に帰させたことになる。堯舜の跡を踏んでその高名を襲おうとしたのであろう。
  • 墨子には「湯が天下を務光に譲り、人をやって『湯はお前に悪名を着せようとしている』と説かせた。務光はついに清冷の泉に身を投げて死に、湯は疑いなく即位した」とある。
  • とすれば湯が譲を飾った偽りの跡は甚だ多い。墨家の言は周書とよく合う。尚書はもと孔子が浮詞を截り取って雅語に裁ち、鄙びた事を除いて「慙ずる徳」とだけ言ったのである。湯の過ちを減らし桀の悪を増そうとしたのではないか。

疑いの六——紂の悪

  • 五経は言を立てて千載に仰がれるが、その前後を求めれば理が甚だ食い違う。
  • 周の盛んなことを称して「三分の二を有し、商紂は独夫となった」といい、殷の敗れたことを語って「紂には臣が億万人あり、その亡ぶや血が流れて杵を漂わせた」という。是非に基準が無く向背が一致しない。
  • 武王が泰誓を作って紂の過失を数え上げたのは、近代に呂相が書を作って秦と絶ち、陳琳が檄を作って魏を責めたのと同じである。罪を加えようとするなら言葉に事欠くまい。
  • ところが後の諸子はその偽説を承け、紂の罪を五経の倍も列した。だから孔子は「桀紂の悪はここまでではない。君子は下流に居ることを憎む」と言い、班固も「朝廷で婦人に拠るなどということがあろうか」と言い、劉向も「世人に父を弑し君を害する者がいる。桀紂はそこまでではないのに、天下の悪者はみな桀紂を先に挙げる」と言う。古来、辛(紂)・癸(桀)の罪を言うのは厚い誣いではないか。

疑いの七——武庚を「頑民」とすること

  • 微子之命篇に「武庚を殺した」とある。禄父(武庚)は商紂の子である。社稷が傾覆し家国が滅び、父の首は梟せられ母の躯は裂かれた。怨みと恥は永く、生死ともに変わらない。
  • 仮に諸侯として周に服事し、身を全うして妻子を保ったとして、天を仰ぎ地に俯して何を生きる甲斐とし、歯を含み髪を戴いて何の顔を持てるのか。
  • やがて二叔と謀を合わせ三監に節を殉じた。君と親の怨みは晴らせなくとも、臣子としての誠は見える。名教に照らせば生死ともに義に慚じない。
  • 功業が成らなかったというだけで「頑民」と目するのなら、夏の少康のような君、伍子胥のような臣も、もし讐に敗れて身を滅ぼしていたら醜徒に列し逆党に名を編まれることになる。

疑いの八——周は殷に服事したか

  • 論語に「周の徳や、天下を三分してその二を有ちながら、なお殷に服事す」とある。
  • しかし尚書には「西伯、黎に勝つ。殷はじめて周を咎む」とある。姫氏の爵は諸侯にすぎないのに征伐を行い、王室と怨みを結んだ。慙じ憚るところが無い。春秋の荊蛮が諸姫を滅ぼし、論語の季氏が顓臾を伐ったのと同じである。
  • またその書に「朱雀」云々とあり、文王が命を受けて王を称したという。天に二日なく地に一人である。殷がなお存するのに王号を立てたのは、春秋の楚および吳・越が号を僭して天子を凌いだのと同じである。
  • 黎に勝ち崇を滅ぼしたのは自ら王者と同じであり、服事の道はこうではない。近くは魏の司馬文王(司馬昭)が権臣を害し少帝を黜け、坐したまま九錫を加え六馬の駕を用いたが、その没後に荀勗はなお「人臣として終わった」と言った。姫氏が殷に事えたことは司馬氏が魏に臣であったことに比べるべきで、「周の徳は大なり」と称するのは虚しく設けた言葉ではないか。

疑いの九——太伯の「至徳」

  • 論語に「太伯は至徳と謂うべきのみ。三たび天下を以て譲り、民は徳として称するところ無し」とある。
  • しかし呂氏春秋の載せるところによれば、太王は孫(昌=文王)を鍾愛してその父(季歴)を立てようとしていた。太伯は年長の嫡子として、実際には賢を妨げる位置にいた。
  • 仮に厚顔にも留まって疑いを抱えたまま去らなければ、大きくは衛の伋が誅された例、小さくは楚の建が逐われた例と同じになる。譲るまいと思っても、君と親が弟を立ててしまう。
  • しかも太王が没して太伯が赴いたとき、季歴は父の遺命を承けて兄に推譲した。太伯は身体をすでに毀っていることを理由に辞退して免れた。玉体を毀って被髪に従ったのは、外は嫌疑を絶ち内は猜忌を釈くためである。雄鶏が自ら尾を断って犠牲にされるのを免れるのと同じである。
  • 春秋には、晉の士蔿が申生の廃されようとするのを見て「吳の太伯となれば、なお令名がある」と言ったとある。太伯と申生の事は一体で、出処が違ったので成敗が分かれただけである。
  • 孔子が太伯を論ずるのに、病に因って妍を成し禍を転じて福としたことを美めるなら当たっている。しかし「至徳」と言うのは、誤った誉め方ではないか。

疑いの十——周公と二叔

  • 尚書の金縢篇に「管叔・蔡叔が流言して『公は孺子に利あらざらん』と言った」とあり、左傳に「周公は管叔を殺して蔡叔を放った。王室を愛さなかったからである」とある。
  • しかし尚書の君奭篇の序に「召公は保となり周公は師となって成王を左右から輔けたが、召公は説ばなかった」とある。とすれば周公旦は臣でない礼を行い、主を震わす威を挟み、跡が疑わしいところに居て自ら訕謗を招いたのである。
  • 召公奭は亜聖の徳と明允の才をもって、その事を目睹しながらなお憤懣を懐いた。まして二叔は才は中人、地は下国に居て、傍らから異議を聞いたのだから猜疑を懐かずにいられようか。
  • 戈を執って反撃したのは誤解によるものなのに、周公は自ら誠を尽くさなかったことを顧みず、たちまち顕戮を加えた。漢代が淮南王を赦し明帝が阜陵王を寛したのと、何と隔たっていることか。周公は兄弟の義において薄い。それなのに詩がこれを美談として述べるのはなぜか。

遠古の書と近古の史

  • おおむね春秋以前、尚書の事について作者の述べ方はこのとおりである。今、正経の雅言のうち理として分かりにくいものを取り、諸子の異説のうち義として拠りうるものを参じて研覆した。これと異なるものは論じない。
  • 遠古の書と近古の史は、繁簡が類しないだけでなく向背も異なる。近古の史は言が詳備で事を甄別することがまれである。だから学ぶ者は、一国の政を覩れば善悪が入り交じり、一主の才を観れば賢愚が相半ばする。
  • 遠古はそうではない。録するところは綱維を略挙し、褒めることと諱むことに努める。始終を尋ねれば隠没しているものが多い。
  • 試みに言えば、漢・魏・晉・宋の君が三代に生まれ、堯・舜・禹・湯の主が中世に出て、史官が地を換えて書き、それぞれの時事を叙べたら、その得失は測りがたい。
  • 輪扁はその糟粕を称し、孔子は疑わしきを伝えると述べ、孟子は「書を尽く信ずるは書無きに如かず。武成篇は吾その二三策を取る」と言う。これを推して言えば、遠古の書の妄りは甚だしい。王沈の不実、沈約の多詐どころではない。