新唐書卷二百二十五下 列傳第一百五十下 董昌

杭州から越州の「大越羅平」

  • 董昌、杭州臨安の人。土団軍から身を起こし、劉漢宏討伐の功で義勝軍節度使となった。当初は廉潔な統治で人望を得たが、朝廷への過大な貢献と引き換えに官位を重ね、次第に神格化された自己崇拝(生祠の建立)に傾倒した。

僭称と滅亡

  • 讖言や瑞祥を利用して即位の機運を煽り、乾寧2年(895年)、「大越羅平」国を僭称、元号「天冊」を建てた。鎮海節度使銭鏐の諫言を拒み、討伐を招いた。安仁義・田頵ら楊行密の援軍を得るも次第に劣勢となり、内部からの離反も重なって越州は陥落。西江へ護送される途中で斬られ、屍は江に投じられた。

史論(二)

贊曰:唐の滅亡に関わった諸賊はいずれも大中年間(宣宗代)に生まれた者たちである。太宗の遺徳が民から失われて久しく、賢臣は退けられて死し、庸愚な者が官位にあり、重税と苛刻な刑罰に天下は苦しんだ。この時にあたり天が唐を見放そうとし、諸賊が並び興り、5姓(梁唐晋漢周の五代)を経ても兵乱は絶えず、宋に至ってようやく天下は再び安んじた。漢の滅亡後は天下大乱し晋に至ってやや定まり、晋の滅亡後は天下大乱し唐に至ってようやく復安した。治世が短く乱世が長いのは古今変わらぬ勢いである。盛んな王業も日々努めて治を求めねばならず、決して怠ってはならないのである。