新唐書卷二百二十一下 列傳第一百四十六 西域下

康国とその枝族(安・東安・東曹・西曹・中曹)

  • 康国(薩末鞬、颯秣建)は月氏の後裔で、王姓は温。祁連北の昭武城から突厥に破られ南遷し、安・曹・石・米・何・火尋・戊地・史の「九姓」(いずれも昭武を氏とする)を分封した。人は酒・歌舞を好み、旁行書を用い、十二月を歳首とし祆教を祀った。武徳十年(貞観初)に朝貢、貞観五年(631年)臣従を申し出たが太宗は「虚名を取らず」として辞退した。高宗永徽時、康居都督府が置かれた。開元年間、王烏勒伽が大食との戦いで援軍を求めたが許されず、子の咄曷(曹王)・默啜(米王)が冊立された。
  • 安国(布豁、捕喝)は武徳期に朝貢、王訶陵迦は二十二世の相承を自称した。東安(小国、喝汗)は顕慶年間に安息州・木鹿州とされ、開元十四年(726年)以降朝貢が続いた。東曹(率都沙那)は野叉城の奇窟(巨窟から先に触れた者が死ぬという伝承)で知られ、武徳中に「秦王の武勇を慕う」として朝貢した。西曹は隋代の曹国、天寶元年(742年)王哥邏僕羅が懐徳王に冊封され、黒衣大食討伐への協力を申し出た。中曹は西曹の東、康の北にあり戦闘に長けた。

柘支(石国)と碎葉

  • 石(柘支、赭時)は漢の大宛の北鄙、王姓は石。真珠河(薬殺水)に臨む。開元年間、順義王に冊立されたが、天寶年間、安西節度使高仙芝が王の無礼を理由に討伐し降伏後に処刑、これに怒った王子が大食に援兵を求め、怛邏斯城の戦いで仙芝軍が敗れ、以後西域諸国は大食に服属した。
  • 碎葉は安西の西北千里、天寶七載(748年)北庭節度使王正見が安西討伐の際に城を破壊した。

米・何・火尋・史(羯霜那)とその周辺小国

  • 彌末(米、彌秣賀)は永徽年間大食に破られ、顕慶三年(658年)南謐州とされた。屈霜你迦(何)は貞観十五年(641年)朝貢、重楼に中華・突厥・婆羅門・波斯・拂菻の諸王図を描いていた。火尋(貨利習彌)は天寶十載(751年)黒鹽を献じた。羯霜那(史、佉沙)は鉄門山の要害を持ち、隋大業中に王狄遮が最盛期を築き、天寶年間「來威国」と改称された。那色波(小史)は史に役属した。
  • 呾蜜種以下、鑊沙・揭職・婆羅睹邏・烏萇種・婆羅吸摩補羅・摩掲陀・迦摩縷波・狼掲羅・波剌斯(拂菻に接す)など、蔥嶺・アム川流域の多数の小国・種族が地理的に列記されるが、いずれも唐と直接通交せず史官が地理伝聞として記したものである。

寧遠(拔汗那)

  • 寧遠(拔汗那、鏺汗)は京師の西八千里、王は魏晋以来相承。貞観年間、西突厥に王契苾を殺された内訌を経て、顕慶初年(656年)休循州都督府が置かれた。開元二十七年(739年)王阿悉爛達干が奉化王に冊立、天寶三載(744年)「寧遠」と改号され竇姓と和義公主が与えられた。天寶十三載(754年)王忠節の子薛裕が宿衛を願い出た。

大勃律・小勃律

  • 大勃律(布露)は吐蕃の西、烏萇に接し役属す。萬歳通天・開元年間に三度朝貢し王が冊立された。小勃律は開元初年、王沒謹忙が朝貢し綏遠軍が置かれたが吐蕃の圧迫を受け続けた。北庭節度使張孝嵩の援軍(張思禮ら四千)で吐蕃を破り九城を回復。天寶六載(747年)、高仙芝が席元慶の計略で小勃律を平定し(王蘇失利之は吐蕃の姻戚となっていた)、帰仁軍を置いた。この勝利により拂菻・大食など西域七十二国が震撼し帰服した。

吐火羅と挹怛国

  • 吐火羅(睹貨邏)は蔥嶺の西、アム川の南、王号は「葉護」。武徳・貞観期に朝貢、顕慶年間に月氏都督府が置かれた。開元・天寶間、馬・薬・玻璃などを献じ、骨咄祿頓達度が吐火羅葉護・挹怛王に冊立された。乾元初年、西域九国と共に朔方行営に隷属し討賊に協力した。挹怛国(嚈噠)は大月氏の一種、天寶中に朝貢した。

蔥嶺周辺の諸小国(俱蘭・劫・越底延・謝䫻・帆延・石汗那・識匿等)

  • 俱蘭(俱羅弩)は貞観二十年(646年)朝貢。劫・越底延はそれぞれ武徳年間に献物。謝䫻(漕矩咤)は開元八年(720年)葛達羅支頡利發誓屈爾が王に冊立された。帆延(望衍、梵衍那)は顕慶三年(658年)寫鳳都督府とされた。石汗那は開元・天寶間に朝献。識匿(屍棄尼)は貞観二十年に朝貢、天寶六載、王跌失伽延が勃律討伐で戦死し子が都督に任じられた。似沒・役槃・俱蜜(貞観十六年朝貢、開元中に舞女献上、大食の暴政を訴えた)についても記される。

護蜜・個失蜜・骨咄

  • 護蜜(達摩悉鐵帝)は顕慶年間に烏飛州とされ、開元八年(720年)羅旅伊陀骨咄祿多毗勒莫賀達摩薩爾が王に冊立、以後護真檀、天寶年間に頡吉匐が吐蕃との断交を申し出て鉄券を賜った。
  • 個失蜜(迦濕彌邏)は開元初年に朝貢、開元八年真陀羅秘利が王に冊立され、木多筆の代には摩訶波多磨龍池の祠を天可汗のために営みたいと申し出た。役属する呾叉始羅など五種の小国も付記される。
  • 骨咄(珂咄羅)は良馬・赤豹を産し、開元十七年(729年)王俟斤が子骨都施を朝貢させ、天寶十一載(752年)羅全節が葉護に冊立された。

蘇毗・多彌・伊吾城・師子

  • 蘇毗は西羌の一族で吐蕃に併合され「孫波」と号した最大部族。天寶中、王沒陵贊が内附を図ったが吐蕃に殺され、子悉諾が隴右に亡命し玄宗に厚遇された。多彌も西羌の族で「難磨」と号し、貞観六年(632年)朝貢。伊吾城は漢の宜禾都尉治所、貞観四年(630年)頡利可汗滅亡に伴い七城を挙げて西伊州となった。師子国(セイロン)は貞観・天寶年間に大珠・鈿金等を献じた。

波斯(ペルシア)

  • 波斯は京師の西一万五千里余、拝火教(祆教)を奉じ、右を尊び左を卑しむ風俗を持った。隋末、西突厥に王庫薩和を殺され、子の施利、その後伊怛支・伊嗣俟と王統が乱れた。伊嗣俟は大食に討たれ、子の卑路斯は吐火羅に逃れ、龍朔年間、疾陵城が波斯都督府とされた。ほどなく大食に滅ぼされ、子の泥涅師は裴行儉の護送も及ばず吐火羅に二十年客居、景龍初年(707年)に再入朝したが西部は独立を失った。陀抜斯単(陀抜薩憚)も天寶年間に朝貢したが黒衣大食に滅ぼされた。
  • 貞観以後、火辭彌・健達・多福王難婆修強宜説・末陀提王・習阿薩般王安殺・訶毗施王捺塞など、来歴の詳らかでない遠国の使者も付記される。天寶年間には俱爛那・舎摩・威遠・蘇吉利發屋蘭・蘇利悉單・建城・新城・俱位の八国が朝貢した。俱位(商彌)は小勃律の斥候役を務めた。

拂菻(東ローマ帝国)と大食(イスラム帝国)

  • 拂菻(大秦)は西海上に位置し、地方万里・城四百・精兵百万を号した。十里ごとに亭、三亭ごとに置を設ける駅制、貴臣十二人の合議制、災異による王の廃立制度など特異な統治制度が記される。海中の珊瑚採取(鉄網で絡めとる漁法)も詳述される。貞観十七年(643年)王波多力が赤玻璃・緑金精を献じ、開元七年(719年)師子・羚羊を献じた。
  • 大食(アラブ)は波斯の地から興った国で、隋大業中の預言譚(黒石白文の兵器を得た者が王となる)を発端に強大化し、波斯を滅ぼし拂菻を破り、康・石を臣従させた。永徽二年(651年)王豃密莫末膩が初めて朝貢、開元初年には唐の礼への違和感(「天のみを拝し王には拝さない」)を巡るやり取りが記される。
  • 白衣大食(ウマイヤ朝)から黒衣大食(アッバース朝)への交代(末換の簒奪、阿蒲羅拔の擁立)が記され、至德初年(756年)朝貢、代宗の代には唐に援兵を提供し両京回復に協力した。貞元十四年(798年)使者含嵯・烏雞・沙北らが入朝した。
  • その周辺の末祿・苫・都盤・勃達・岐蘭・阿沒・沙蘭・羅利支・怛滿(怛沒)などの地理・道里が列記され、天寶六載(747年)都盤・勃達・阿沒・沙蘭・羅利支・怛滿の六国王が冊立された(それぞれ順化王・守義王・恭信王・順禮王・義寧王・奉順王)。

  • 賛にいう。西方の異民族は古来中国と通じることがなかったが、漢代に至って初めて烏孫などの国が記録に載るようになり、その後名の知られる国は次第に増えた。唐が興ると相次いで貢を修め、百余国が万里を厭わず来朝した、まことに勤めたものである。しかし中国側にも報贈・冊封・弔祭・食糧供給・伝駅の費用がかかり、東は高麗、南は真臘、西は波斯・吐蕃・堅昆、北は突厥・契丹・靺鞨に至るまでを「八蕃」、その外を「絶域」と呼び、遠近に応じて費用を給した。開元の盛時には西域商胡に税を課して四鎮の費用に充て、北道からの者には輪台で賦を納めさせた。地が広がれば費用も倍加する――これは盛んな王朝が戒めとすべきことである。