泥婆羅
- 泥婆羅は吐蕃の西・楽陵川にあり、赤銅・犛牛を産する。銅銭を鋳造し、王は珠・頗黎(玻璃)・車渠・珊瑚・虎魄を身に着け、七重楼の宮殿を持った。王那陵提婆は叔父に父を殺され吐蕃に亡命し以後吐蕃に臣従。貞観中、李義表が同国を経て天竺へ赴き、阿耆婆爾池(旱魃でも増減しないという池)を共に観た。二十一年(647年)波棱・酢菜・渾提蔥を献じ、永徽年間、屍利那連陀羅も朝貢した。
党項
- 党項は漢の西羌の別種、魏晋以後衰えたが周が宕昌・鄧至を滅ぼして以来強大化した。細封氏・費聽氏・往利氏・頗超氏・野辭氏・房當氏・米禽氏・拓拔氏の諸姓に分かれ、拓拔氏が最強であった。文字を持たず草木で紀年、復讐を重んじる風俗を持った。
- 貞観三年(629年)、細封歩頼が帰順し軌州が置かれた。拓拔赤辭は当初吐谷渾に臣従したが、李靖の吐谷渾討伐を経て内属、懿・嵯・麟・可等三十二州が置かれ李姓を賜った。後に吐蕃の圧迫で内徙し「弭薬」と改称された部もあった。白蘭羌・白狗羌なども吐蕃に服属し先鋒として利用された。
- 至德末年以降、党項は靈・夏間で吐蕃に誘われ寇掠を繰り返したが、郭子儀の討伐・懐柔(部落の分置による離間策)でしばしば鎮定された。宣宗大中四年(850年)、白敏中を都統とする討伐で大破され残党は南山に竄れた。咸通末、拓拔思恭が宥州で自立し、黄巣討伐に功を挙げ夏国公・李姓を賜り、以後弟の思諫・思孝・思敬が定難・保大節度使を継いだ(後の西夏の淵源)。
東女
- 東女(蘇伐剌拏瞿咀羅)は羌の別種で、女性を君主とする国。王号は賓就、官は高霸黎(宰相に相当)。八十城を有し戸四万、精兵万人。武徳年間、王湯滂氏が朝貢したが突厥に阻まれた。貞観・顕慶年間に朝貢が再開し、武后が斂臂を左玉鈐衛員外将軍に冊立した。貞元九年(793年)、湯立悉ら諸小首領が剣南節度使韋皋を通じて内附したが、実際には吐蕃にも附く「両面羌」であった。
高昌
- 高昌は京師の西四千里余、王都は交河城。麹伯雅の子文泰が武徳初年に即位、貞観四年(630年)朝貢し、妻宇文氏は李姓を賜り常楽公主と改封された。文泰は西突厥と結び西域朝貢路を妨害、太宗の詰問にも従わなかった(「鷹は天を飛び雉は蒿に竄れる」との放言)。
- 貞観十四年(640年)、侯君集を大総管とする討伐軍が派遣され、文泰は病死、子の智盛が降伏。麹氏は九世・百三十四年で滅亡し、その地は西州都督府・安西都護府となった。魏徴・褚遂良は屯戍の負担を理由に討伐と統治継続に反対する諫言を行ったが容れられなかった。智湛(文泰の子)の系統は交河郡王に封じられ武后期まで続いた。
吐谷渾
- 吐谷渾は甘松山の陽、洮水の西に居し、隋代の王慕容伏允は煬帝に破られ後に党項に亡命し勢力を回復した。武徳年間、高祖は伏允と結び李軌討伐を図った。太宗期、伏允は入朝と背反を繰り返し、貞観九年(635年)李靖・侯君集・任城王道宗らの大遠征で大非川・積石山方面から包囲、伏允は自経して死んだ。
- 子の順が内附し西平郡王に封じられたが国人に殺され、孫の諾曷缽が河源郡王となり、弘化公主を降嫁された。高宗期、素和貴の内応により吐蕃が吐谷渾を攻め、諾曷缽は涼州に逃れた。咸亨元年(670年)薛仁貴の大非川遠征失敗で吐谷渾の故地は完全に吐蕃領となり、諾曷缽の系統は靈州に安楽州を与えられ名目的に存続したが、龍朔三年(663年)の吐蕃併合から三百五十年で王統は絶えた。
焉耆国
- 焉耆国は京師の西七千里余、貞観六年(632年)王龍突騎支が朝貢。高昌との対立、西突厥諸勢力との離合を経て、貞観十八年(644年)郭孝恪の急襲で陥落、突騎支は捕らえられた。その後、栗婆準・薛婆阿那支・婆伽利ら王位の混乱が続き、焉耆都督府が置かれた。開元七年(719年)以降、十姓可汗の要請で四鎮の一つとされ朝貢を続けた。
龜茲
- 龜茲は焉耆の西南、白氏を王姓とし旁行書(インド系文字)を用いる仏教国。高祖期に朝貢したが後に西突厥に臣従。貞観二十二年(648年)、阿史那社爾を総大将とする十万の遠征軍が焉耆・龜茲を撃破、王訶黎布失畢らを捕らえ太廟に献じた(西域平定)。
- 高宗期、龜茲王家の内紛(那利の姦通事件)を経て龜茲都督府が置かれ、安西都護府も龜茲に移された。長壽元年(692年)王孝傑が吐蕃から四鎮を回復した。都護として田揚名・郭元振・張孝嵩・杜暹らの名が挙げられる。
疏勒
- 疏勒(佉沙)は京師の西九千里余、裴氏を王姓とした。貞観九年(635年)朝貢開始。儀鳳年間、吐蕃に破られたが開元十六年(728年)安定を疏勒王に冊立、天寶十二載(753年)裴国良が朝貢した。
朱俱波・甘棠
- 朱俱波(朱俱槃)は于闐の西千里、仏法を尊び婆羅門文字を用いた。甘棠は海南の昆侖人の国。
喝盤陀
- 喝盤陀(漢陀・渇館檀)は蔥嶺の中に位置し、王は疏勒人の系統が世襲した。後魏太延中に中国と通じ、貞観九年(635年)朝貢、開元中に唐に平定され蔥嶺守捉が置かれた。
于闐
- 于闐(瞿薩旦那)は京師の西九千七百里、玉河の美玉、養蚕の伝来説話(女性が蚕種を帽子に隠して嫁入りした故事)で知られる。王は尉遲氏。貞観六年(632年)朝貢開始。龜茲平定の際、王伏闍信が入朝し右衛大将軍に叙せられた。上元年間以降、伏闍雄・璥・伏師戦・伏闍達・珪・勝と王統が続き、毗沙都督府が置かれた。徳宗期、朱如玉が玉を求めて不正を行い流罪となった逸話も記される。
天竺国
- 天竺国(身毒国、摩伽陀、婆羅門)は東西南北中の五天竺に分かれ、城邑数百を有した。中天竺王は乞利咥氏。隋の煬帝は通交できなかったが、武徳中の内乱を経て王尸羅逸多が四天竺を統一、玄奘三蔵と会見した縁で貞観十五年(641年)朝貢が始まった。
- 貞観二十二年(648年)、王玄策の使節団が尸羅逸多の死後の内乱で襲われたが、玄策は吐蕃・泥婆羅の援兵を得て茶鎛和羅城を攻略、王位簒奪者阿羅那順を捕らえ京師に献じた。方士那邏邇娑婆寐の不老不死術の逸話も記される。開元年間には南天竺が大食・吐蕃討伐の援軍を求め懐徳軍の名を賜った。
摩掲它・烏茶・章求拔国・悉立
- 摩掲它(摩伽陀)は中天竺の属国で、貞観二十一年(647年)朝貢、太宗は製糖法を学ばせた。烏茶(烏伏那、烏萇)は貞観十六年(642年)龍脳香を献じた。章求拔国・悉立は吐蕃西南の小国で、王玄策の中天竺討伐に従軍した功により朝貢を続けた。
罽賓
- 罽賓(隋の漕国)は蔥嶺の南、京師の西一万二千里余。武徳二年(619年)朝貢開始。太宗は魏徴の教化政策を評価する詔を発した。顕慶三年(658年)脩鮮都督府が置かれ、開元七年(719年)冊立された王葛邏達支特勒以下、烏散特勒灑・勃匐準と王統が続いた。