高麗
- 高麗はもと扶餘の別種。東は海を隔てて新羅、南は海を隔てて百済、西北は遼水を隔てて営州に接し、北は靺鞨に接する。王都は平壌城(長安城、漢の楽浪郡)。官制は大対廬(吐捽)以下十二級(鬱折・太大使者・帛衣頭大兄・大使者・大兄・上位使者・諸兄・小使者・過節・先人・古鄒大加)。州県は六十、五部(内部・北部・東部・南部・西部)に分かれた。
- 隋末、王高元の死後、異母弟建武が継ぎ武徳初年に朝貢。高祖は修好の書を送り、道士を派遣して『老子』を講じさせた。太宗は当初「臣とすることを求めない」との立場を取ったが、裴矩・温彦博の諫言で方針を変えた。新羅・百済の訴えに応じ朱子奢を派遣して和を諭したが、蓋蘇文(蓋金、泉氏)が建武と大臣百余人を殺害し王藏を擁立、自ら莫離支として専政、残虐な統治を行った。
- 太宗は当初討伐を控えたが、新羅の急を受け司農丞相里玄奨を派遣、蓋蘇文が応じなかったため貞観十九年(645年)、張亮・李勣を大総管とする大遠征を敢行。蓋牟城・沙卑城・遼東城・白崖城を陥落させ、安市城で高延寿・高恵真の十五万の援軍を大破(駐蹕山の戦い)したが、安市城は落とせず、傅伏愛の失態もあり冬に至り撤退した(初回遠征、士十万のうち戦死約千・馬死十八)。
- その後も牛進達・李勣による小規模遠征(南蘇・木底・石城等)、薛萬徹の泊灼城攻略が続いたが、太宗は崩御し大規模再征は中止された。永徽~顕慶年間、契丹との抗争、程名振・薛仁貴・蘇定方らの遠征を経て、龍朔元年(661年)定方が平壌を包囲するも龐孝泰の軍が全滅し撤退。
- 乾封元年(666年)、蓋蘇文の死後、子の男生・男建・男産の内訌に乗じ、契苾何力・李勣・薛仁貴らが総攻撃。総章元年(668年)、男建の抵抗も浮屠信誠の内応で平壌城が陥落し、藏・男建らが捕えられ高麗は滅亡(戸六十九万、五部百七十六城)。安東都護府が置かれ薛仁貴が都護となった。
- 総章二年(669年)以降、大長鉗牟岑の反乱、新羅への逃亡など残余勢力の抵抗が四年続いた。儀鳳二年(677年)、藏は遼東都督・朝鮮郡王に封じられたが再び謀反を企てて配流され、以後高氏の君長は絶えた。藏の孫寶元・子德武らが名目的に朝鮮郡王・安東都督を継いだが実質は失われ、元和末に楽工を献じた記録を最後とする。
百済
- 百済は扶餘の別種、京師の東六千里、海に面し西は越州、南は倭、北は高麗に接する。官制は内臣佐平以下六佐平、大姓八氏(沙・燕・軬・解・貞・国・木・䒤)。武徳四年(621年)、王扶餘璋が朝貢を始め、帯方郡王・百済王に冊立された。新羅との抗争が続き、太宗の調停にも従わなかった。
- 義慈王(「海東曾子」と称された)は高麗と結び新羅の四十余城を奪ったが、顕慶五年(660年)、蘇定方の遠征で熊津口の戦いに大敗、義慈は太子隆と共に逃れるも降伏し、京師に送られ病死。百済は五部・三十七郡・二百城(戸七十六万)に分けられ都督府が置かれた。
- 福信・道琛が扶餘豊を擁立して抵抗(周留城の乱)したが、劉仁軌・劉仁願の遠征と新羅の連合軍が白江口で倭の援軍(四百艘)を撃破し鎮圧。扶餘隆が熊津都督として帰国、麟徳二年(665年)新羅王との熊津会盟(劉仁軌起草の盟辞)が行われたが、後に隆は新羅を恐れて帰国できず、百済の地は新羅・渤海靺鞨に分割され百済はついに絶えた。
新羅
- 新羅は弁韓の苗裔、金城を王都とし、骨品制(第一骨・第二骨)による特異な身分制、和白(合議)による国政決定など独自の風俗を持った。武徳四年(621年)王真平が朝貢、後に楽浪郡王・新羅王に冊立された。真平の死後、娘の善德が王となり(貞観五年、635年)、聖祖皇姑と称された。
- 高宗永徽元年(650年)以降、百済征討で唐と連携し、真德女王は頌詩「巨唐開洪業」を織り込んだ錦を献じた。春秋(武烈王)の代に百済を平定し新羅の版図を拡大、龍朔元年(661年)雞林州大都督府とされた。咸亨五年(674年)高麗叛衆の受け入れをめぐり唐と一時対立したが、上元二年(675年)以降和解し、多くの百済・高麗故地を編入して九州制(尚・良・康・熊・全・武・漢・朔・溟)を整えた。
- 玄宗期には度々の朝貢、遣唐留学生の派遣が続いた。大暦~元和期にかけ宰相間の権力争いによる内乱、王位継承の混乱(金良相、敬信、俊邕、重興、彦升、景徽等)が相次いだが、朝貢・冊封の関係は保たれた。清海鎮を巡る張保皋・鄭年の逸話(海賊対策としての清海鎮設置、内乱鎮圧への関与)が詳しく記される。会昌以後、朝貢は途絶えた。
- 賛では杜牧の言を引き、郭汾陽(子儀)・李臨淮の故事になぞらえ、張保皋の鄭年に対する度量を評価している。
日本
- 日本の地理・風俗が記される。京師から一万四千里、東南の海中にあり、東西五月行、南北三月行。城郭を持たず木柵と草葺きの家屋を用いる。付属する小島五十余、大率(検察官)一人を置く。女多く男少なく、文字を有し仏法を尊ぶ。官は十二等。
- 五年(貞観年間に相当)に初めて遣使朝貢し、太宗はその遠さを憐れんで毎年の朝貢を免除した。その後、王の即位・改元、遣唐使の往来、儒教経典の授受などが記されるが、当該箇所は原文の欠落・脱字が甚だしく歴代天皇名の大半が判読不能である(下記脚注参照)。遣唐使の中に留学して唐風の姓名を名乗り長く滞在した人物(阿倍仲麻呂に相当するとみられる記述)があったことが記される。
- 天平勝寶年間の入朝、女帝の即位、遣唐使高階真人による留学生の帰国要請なども記されるが、同様に固有名詞の大半が欠落している。
流鬼
- 流鬼は京師から一万五千里、黒水靺鞨の東北、三方を海に囲まれた地。魚塩の利があり、木製の履物(かんじき)で氷上を移動し走獣を追った。貞観十四年(640年)、王子可也余莫が三重の通訳を経て朝貢し騎都尉を授けられた。
- 儋羅(新羅武州南島)、達末婁(北扶餘の裔と自称)、達妒(室韋の種)についても簡略に記される。