契丹
- 契丹は東胡の種で、その先祖は匈奴に破られ鮮卑山に拠った。魏の青龍年間、部酋の比能が幽州刺史王雄に殺され衆は衰え、潢水の南・黄龍の北に逃れた。元魏の頃から「契丹」と号した。君長は大賀氏、精兵四万を八部に分け突厥に臣従、俟斤と称した。死者は墓を作らず馬車で山に運び樹上に置いた。
- 武徳年間、大酋孫敖曹らが入朝。貞観二年(628年)摩会が来降、頡利可汗が梁師都との交換を求めたが太宗は拒んだ。窟哥が部を挙げて内属し松漠都督府が置かれ、李の姓を賜った。峭落州・彈汗州など八州が設置された。
- 窟哥死後、萬榮(敖曹の孫)が営州都督趙文翽の圧政に怒り、盡忠と共に反乱(無上可汗を自称)、武后は曹仁師ら二十八将を送るも大敗(西硤石黄麞谷の戦い)。萬榮は幽州を陥れるも、楊玄基らの反撃で潰走し家奴に殺された。武后はこれを喜び神功と改元した。
- 契丹は一時突厥に附いたが、開元二年(714年)盡忠の従弟失活が帰順し松漠府が復置された。可突於の専横により娑固・郁于・吐于ら王が相次いで殺害・追放され、開元二十年頃、可突於は屈烈を立て突厥に降ったが、信安王禕・趙含章の討伐で大破された。張守珪の策略で衙官李過折が可突於を斬り帰順、松漠都督となったが可突於の残党に殺された。
- 天寶四載(745年)、李懐秀が松漠都督となり静楽公主を娶ったが公主を殺して叛き、安禄山の討伐を受けた。以後、契丹は開元・天寶間に二十度あまり朝献。会昌二年(842年)、回鶻滅亡を機に契丹酋屈戍が内附。咸通年間、習爾之・欽德と続き、劉仁恭との攻防を経て、耶律阿保機が八部大人の輪番制を廃し王を称して国を建て、大賀氏はついに絶えた。
奚
- 奚もまた東胡の種で、匈奴に破られ烏丸山に拠った。曹操に討たれた蹋頓の後裔という。元魏時代は庫真奚と号した。武徳年間、高開道が奚兵を借りて幽州を侵したが王詵に破られた。貞観三年(629年)初めて朝貢、可度者が饒樂都督府を授かり李姓を賜った。
- 顯慶年間、匹帝の乱を経て、契丹と結んで「両蕃」と称し孫佺・李楷洛らを破った(延和元年)。開元二年(714年)、奧蘇悔落が饒樂郡王を授かり、固安公主が李大酺に降嫁。以後、魯蘇・李詩・延寵と王位が続き、契丹の可突於に脅されて幾度も附叛を繰り返した。安禄山の圧政、貞元・元和期の攻防を経て、大和・大中年間には廬龍節度使張仲武による討伐もあった。契丹の強大化に伴い奚は服属し、酋の去諸が別部を率い媯州北山に拠り東西奚に分かれた。
室韋
- 室韋は契丹の別種、東胡の北辺で丁零の裔という。君長を持たず大酋(莫賀咄)が部を統べ突厥に附属した。犁は人力で牽く原始的な農具を用い、婚姻では男が三年間女家に奉仕した。二十余の部に分かれ(嶺西部・山北部・黄頭部・大如者部・小如者部・婆萵部・訥北部・駱丹部・烏素固部・移塞沒部・塞曷支部・和解部・烏羅護部・那禮部・訥比支部・蒙瓦部・落坦部等)、東室韋・大室韋の別もあった。
- 貞観五年(631年)朝貢開始。長壽二年(693年)の叛乱は李多祚が平定。開元・天寶間に十度、大暦中に十一度朝献したが、貞元四年(788年)には奚と共に振武を侵し唐使を殺害する事件も起きた。
靺鞨
- 黒水靺鞨は肅慎の地に居し、挹婁・勿吉とも呼ばれた。粟末部・汨咄部・安居骨部・拂涅部・黒水部・白山部などに分かれ、白山部は高麗に服属していたが唐の高麗平定後に多くが唐に入った。黒水部は完強で十六落を南北に分かち、風俗は野性的で溺で洗顔するなど最も濁穢とされた。
- 武徳五年(622年)阿固郎が来朝、貞観二年(628年)臣属し燕州が置かれた。高麗遠征では靺鞨兵が先鋒を務め、太宗は捕虜三千余を坑した。開元十年(722年)、黒水府が置かれ、酋長は李献誠の姓名を賜り黒水経略使となった。拂涅・鐵利・虞婁・越喜等の諸部も時に朝貢したが、渤海の勃興後はこれに役属した。
渤海
- 渤海はもと粟末靺鞨で高麗に附いた者。高麗滅亡後、挹婁の東牟山に拠った。萬歳通天中、契丹盡忠の乱に際し舎利乞乞仲象・乞四比羽が靺鞨・高麗の残余と共に東走、太白山東北に拠った。武后は乞四比羽を許国公、乞乞仲象を震国公に封じたが比羽は従わず誅殺された。仲象の子祚栄は李楷固の追撃を退け、震国王を自称して国を建てた。中宗・睿宗期に渤海郡王・忽汗州都督に冊立され、以後「渤海」と称した。
- 玄宗開元七年(719年)、祚栄死去、子の武藝(私諡高王の子)が継ぎ、黒水靺鞨をめぐり弟の門藝との対立(門藝の亡命、玄宗との外交摩擦)が起きた。武藝の子欽茂(文王)は上京へ遷都、寶應元年(762年)渤海国王に進封された。以後、宏臨の早世、族弟元義の簒奪と誅殺、華璵(成王)、嵩鄰(康王)、元瑜(定王)、言義(僖王)、明忠(簡王)、仁秀(宣王、四代祖は祚栄の弟野勃)、新德の早世を経て孫の彝震(咸和)、弟虔晃、玄錫と王統が続いた。
- 渤海は諸生を長安の太学に送り制度を学ばせ「海東盛国」と称されるに至り、五京・十五府・六十二州の完備した地方制度(上京龍泉府、中京顕徳府、東京龍原府、南京南海府、西京鴨淥府等)を有した。官制も宣詔省・中台省・政堂省など唐制を模した六官相当の組織を備えた。
贊
- 賛にいう。唐の徳は大なるかな。天の覆う所は悉く臣として属し、海内外に州県を及ぼさぬ所なく、ついに天子を「天可汗」と尊んだ。三王以来これに勝る者はない。荒遠の君長も唐の璽と旌旗を得て初めて国たり得、一度不服となれば直ちに討伐された。ゆえに蛮夷の珍宝は絶えず朝廷に届いた。極まって衰え、その禍は内に及び、天寶以後は中原が疲弊し、辺境の守りは黄河を越えず西は秦・邠に止まり、百年にわたり凌夷して滅亡に至った、まことに痛ましいことである。己を治め人を治めるのは、ただ聖人のみがなし得る、という所以である。