起源と唐初の帰属
- 沙陀は西突厥別部の処月種。貞観七年(633年)、突厥東西部の内訌(利邲咄陸可汗、彌射、賀魯ら)に伴い、処月らは唐に入朝した。処月は金娑山の陽、蒲類の東、沙陀という大磧に拠ったことから「沙陀突厥」と呼ばれた。
- 咄陸が伊州を攻めた際、安西都護郭孝恪がこれを撃退。賀魯の降伏後、瑤池都督を授かり庭州莫賀城に移った。永徽初年、賀魯の反乱に朱邪孤註も呼応したが梁建方・契苾何力に討たれた。処月の地は金滿・沙陀二州となり、阿史那彌射が昆陵都護に任じられた。
朱邪氏の系譜と北庭・甘州時代
- 龍朔初年、沙陀酋の朱邪金山が薛仁貴の鉄勒討伐に従い墨離軍討撃使となった。以後、輔國-骨咄支-盡忠と続き、骨咄支は回紇副都護を兼ね安禄山討伐にも従軍した。
- 貞元年間、沙陀部七千帳が吐蕃に付き北庭を陥落させたが、吐蕃が沙陀の忠誠を疑い河外への移住を命じたため、盡忠・朱邪執宜は元和三年(808年)、三万落を率いて烏德山から東へ脱出を図った。吐蕃の追撃で盡忠は戦死、執宜は残兵二千・騎七百で靈州塞に帰順、節度使範希朝が鹽州に陰山府を置き執宜を府兵馬使とした。
執宜・赤心と河東への定着
- 執宜は長安で特進・金吾衛将軍を授かり、後に太原の範希朝に従い沙陀軍(千二百騎)を編成、神武川黄花堆に拠り「陰山北沙陀」と号した。王承宗討伐で木刀溝の戦いに功をあげ、王鍔の建言で十府に分置された。淮西討伐(呉元濟)、鎮州討伐にも従軍し、大和年間には代北行営招撫使として雲・朔の防備を任された。
- 執宜の子赤心は、劉沔の彰信可汗討伐、劉稹討伐(潞州平定)で功を挙げ朔州刺史となった。大中年間、吐蕃・党項連合軍の討伐で「赤馬将軍」と恐れられた。龐勛の乱では康承訓を助け大功を挙げ、大同軍節度使に任じられ李国昌の姓名を賜り、鄭王属籍に列した。
李克用の台頭
- 乾符三年(876年)、代北の水陸発運使段文楚の圧政に対し、程懐信・王行審・蓋寓ら辺境の校尉が李国昌の子克用を推戴して反乱、雲州を占拠した。朝廷は当初討伐に失敗し、黄巣の南下もあって大同軍防禦使として赦免したが国昌は受命せず、崔彦昭・張公素の討伐も失敗した。
- 国昌は吐渾の赫連鐸に振武を奪われ窮地に陥り、克用も新城で包囲されるなど苦戦、広明元年(880年)李琢の攻撃で敗れ達靼へ亡命した。黄巢が潼関を破り長安に入ると、陳景思・李友金の建言で克用は赦免され代州刺史・忻代兵馬留後に任じられ、討伐軍を率いた。
黄巣討伐と朱全忠との確執
- 中和二年(882年)、克用は蔚州を攻略、赫連鐸・李可挙の攻勢を退けた。翌年、王処存・王重榮の招きに応じ雁門から三万余で南下、河中で合流し梁田坡で賊軍を破り長安を収復。功第一により同中書門下平章事・隴西郡公に叙せられた。
- 光啟元年(885年)、鳳翔李昌符・邠寧朱玫が田令孜と結び克用を孤立させようとし、克用は「汜水関を出て朱全忠を誅す」と怒ったが渾重榮の諫言で先に朱玫・李昌符を討ち、沙苑で破った。上源駅の変(朱全忠が上源館で克用を謀殺しようとし、郭景銖らの機転で辛くも脱出)を経て両者は決定的に対立した。
河東の争覇と勤王
- 大順初年(890年)、宰相張浚の主導で克用討伐の詔が出され、鐸・匡威・全忠らが包囲したが、克用配下の李存孝らの活躍(趙城の夜襲、樂安の戦い)で撃退し、翌年復官した。景福~乾寧年間、鎮州王镕・雲州赫連鐸・幽州李匡籌との抗争を経て、幽州は劉仁恭に委ねられた。
- 王行瑜・韓建・李茂貞の連合による闕下侵攻に対し、克用は河中を経て邠州・鳳翔を討ち、行瑜は敗死。魏国夫人陳氏の下賜、晋王への進封などが記される。その後、朱宣救援での失敗、茂貞・韓建との緊張、劉仁恭の離反(幽州)など河東の勢力は動揺した。
- 光化~天復年間、全忠との一時的和睦、河中の陥落(王珂捕縛)、太原包囲戦(氏叔琮の攻撃を辛くも凌ぐ)を経て、契丹の耶律阿保機と兄弟の盟を結んだ。天祐年間、王建・李茂貞との連携も長安の陥落で頓挫。唐滅亡後、王建・楊渥の自立の勧めを克用は拒み、まもなく病没した。
贊
- 賛にいう。沙陀はもと天子に帰命し辺境で哺育され、代々血を流して征討を助け、常に辺兵の雄であった。克用の代に至り王室の乱に遭い太原を領した。その性質は惇固で他念少なく、才果を自負し天下を経営しようとしたが果たせなかった。兵は勝つことがあっても度々敗れ、地を得てもまた失い、天子の劫遷を座視して恥じ入るのは卑しむべきである。ただ子(存勗)が勇武でこれを立て直した。この時、勤王を唱えた五族のうち、ついに朱氏を滅ぼして唐の恥を雪いだのは沙陀であった。もし克用が古今の理を知り斉桓公・晋文公のようであったなら、唐はたやすくは亡びなかったであろう。