太和公主の降嫁と回鶻の衰亡
- 回鶻の求婚に有司は費用五百万を見積もり、いったん退けたが、穆宗が改めて許し、可汗死後の登啰羽錄沒蜜施句主毗伽崇德可汗が太和公主(憲宗女)を迎えた。胡証・李憲が護送、降嫁の儀礼(可汗の楼上での対面、可敦服への着替え、九相が輿を担いで廷を九周する儀式等)が詳述される。裴度の幽・鎮討伐に回鶻が援軍三千を出した。
- 敬宗~文宗期、可汗の相次ぐ交代(曷薩特勒、胡特勒等)、大和六年(832年)の弑逆事件、開成四年(839年)の掘羅勿の反乱と沙陀の介入、飢饉・疫病・大雪による羊馬の大量死が続いた。武宗即位後、句錄莫賀と黠戛斯の連合軍十万が回鶻城を攻め可汗を殺し掘羅勿を誅殺、牙帳を焼いた。残党は烏介特勒を可汗に立て錯子山に拠った。
太和公主の帰還と烏介可汗の滅亡
- 黠戛斯が太和公主を得て唐への送還を図ったが烏介が達幹を殺して公主を奪い南下、辺境を脅かした。宰相李徳裕の「贍恤策」により、王子嗢沒斯・特勒那頡啜らが唐へ帰順、天徳を歸義軍とした。烏介はなお強勢で大同北閭門山に牙を置いたが、劉沔・石雄らの奇襲(夜、雲州を出て馬邑を経て安衆塞で撃破)で大敗し公主を奪還、烏介は殺胡山で負傷して逃走、黒車子に依るも殺害され、弟の遏撚特勒が可汗を継いだ。
- 帰順した嗢沒斯らは李氏の姓名(思忠・思貞・思義・思禮・弘順)を賜り歸義軍副使等に任じられ、劉沔・張仲武が南面・東面招撫使となり回鶻残党を討った。国滅亡後、思忠らは入朝し歸義軍は廃止、摩尼教の書・像は焼却され資産は没収された。
黠戛斯の台頭
- 遏撚可汗は奚の大酋碩舎朗を頼ったが仲武に討たれ、九騎で西走、室韋に回鶻の残余が分属した。黠戛斯が室韋を攻めて回鶻の残余を磧北へ収め、厖特勒(甘州に拠る)が可汗を自称した。宣宗はこれを嗢祿登裏邏汨沒蜜施合俱錄毗伽懷建可汗に冊立した。懿宗期、仆固俊が北庭で吐蕃を破り西州・輪臺等を回復した。昭宗期、韓遜が回鶻の援軍を提案するも韓偓が拒否を進言、以後回鶻は振わず玉・馬の交易のみが続いた。
薛延陀
- 薛延陀は姓一利咥氏、鉄勒諸部で最も強盛。西突厥処羅可汗の圧政に叛き、乙失缽が野咥可汗を称した。貞観二年(628年)、孫の夷男が頡利可汗に付いたが、頡利衰退後は諸姓に推されて真珠毗伽可汗に冊立された。郁督軍山に牙を置き、大度設・突利失の二子に南北部を分掌させた。
- 貞観十五年(641年)、李思摩の可汗擁立に対し夷男は大度設に二十万で侵攻させたが、李勣が諾真水で大破し、大度設は逃走。夷男は謝罪し新興公主との婚姻を求めたが、房玄齡の進言もあり一度は許されたが後に絶婚となった(唐は延陀の強大化を警戒)。夷男の死後、庶子曳莽・嫡子拔灼が争い、拔灼(頡利俱利失薛沙多彌可汗)は暴政の末に殺され、真珠毗伽可汗の甥咄摩支(伊特勿失可汗)が立ったが、李勣に討たれ薛延陀は滅亡した。
- 太宗はその地に鉄勒十一部を服属させ北荒を平定、「天可汗」としての権威を確立した詔勅の逸話が詳述される。
諸部族小伝
- 拔野古(拔野固・拔曳固)は磧北千里に散在、康幹河の石化する松材(康幹石)で知られた。貞観三年(629年)朝貢、二十一年に幽陵都督府設置。仆骨(仆固)は最北に居し、後の仆固懐恩の出自。同羅は龜林都督府、安禄山の乱で「曳落河」と呼ばれる精鋭として利用された。渾は臯蘭都督府、渾釋之・渾瑊父子が功臣として知られる。契(契羽)は榆溪州、契苾何力の出身部族。多覽葛は燕然都督府。阿跌は雞田州、後の李光進・光顏兄弟の出自。
- 葛邏祿は謀落・熾俟・踏実力の三族からなり、突厥東西の間で去就を変え、後に十姓可汗故地を占めた。拔悉蜜は天寶初年に突厥可汗を撃滅する功を挙げたが後に葛邏祿・回紇に破られた。都播(都波)・骨利幹(良馬の産地、「十驥」の逸話)・白霫・斛薛・奚結・思結・烏羅渾・鞠(駕車に鹿を用いる)・俞折・駁馬(弊剌、遏羅支)・大漢など、北荒諸部の風俗が列記される。
黠戛斯
- 黠戛斯は古の堅昆国。丁零の系統で匈奴の西鄙、李陵・衛律の後裔を称した。数十万の人口、精兵八万。人は長大で赤髪・皙面・緑瞳を特徴とし、黒瞳の者は李陵の苗裔とされた。十二支で紀年し、鉄(迦沙)を産して突厥に輸出した。君主は「阿熱」(阿熱氏)と称し、宰相・都督・職使・長史・将軍・達幹の六等官制を持った。
- 貞観二十二年(648年)、俟利発失缽屈阿棧が入朝し、太宗が「渭橋で三突厥を斬った功より上」と称賛した逸話が残る。堅昆府が置かれ燕然都護に隷属。乾元年間、回紇に破られ通交が絶えたが、後に「黠戛斯」と訛って呼ばれた。回鶻衰退後、阿熱は自ら可汗を称し回鶻と二十年抗争、ついに句錄莫賀の内応で回鶻可汗を破り太和公主を得たが、送還使者は烏介可汗に殺された。
- 会昌中、註吾合素が三年かけて入京し朝貢を通じ、武宗は宰相李徳裕の建言により『王会図』を作らせた。宣宗期、李拭を派遣し宗英雄武誠明可汗に冊立、大中元年(847年)李業が英武誠明可汗として正式冊命した。以後、咸通年間に三度来朝したが、ついに回鶻に代わる勢力とはならなかった。
贊
- 賛にいう。夷狄は悍勇貪欲な性で、人の外見をしながら内は獣に等しく、ひたすら剽奪を事とする。ゆえに湯・武の興隆も彼らと功を共にしなかった。太宗は突厥を用いて服属させ、肅宗は回紇を用いたが華人を掠め太子を辱め近臣を鞭打つ放埓を招き、徳宗は吐蕃を用いて平涼を劫され上将を失い西陲を破られた。いわゆる外夷の禍を借りて内乱を平らげたものである。権を以て用い、謀を以て制するのは太宗のみがなし得た。凡庸な君主が狎れ親しめばその弊に勝てない。親しめば求めが多くなり、満たさねば怨みを生み、仁義で教化すれば頑迷になり、法で示せば怒り、険易を知り尽くせば禍いは広く惨たるものとなる。『春秋』が夷狄を許すのに一律でないのは、まことにこの理による。