起源と諸部族
- 回紇の先祖は匈奴で、高輪車を多く用いる風俗から元魏時代には「高車部」、あるいは「敕勒」(訛って「鐵勒」)と呼ばれた。部落は袁紇・薛延陀・契羽・都播・骨利幹・多覽葛・仆骨・拔野古・同羅・渾・思結・斛薛・奚結・阿跌・白霫の十五種で、磧北に散在した。
- 袁紇(烏護・烏紇、隋代は韋紇)は驍強で酋長を持たず、突厥に臣従していたが、大業年間、処羅可汗の圧政に叛き、仆骨・同羅・拔野古と共に離反、俟斤を自称し「回紇」と称した。
唐初の朝貢と燕然都護府の設置
- 回紇は薬羅葛氏、薛延陀の北の娑陵水に居し、京師から七千里。時健俟斤の子菩薩が勇猛で衆望を集め、突厥を馬鬛山で破り北方に名を轟かせた。貞観三年(629年)初めて朝貢。菩薩の死後、酋の吐迷度が薛延陀を残滅させその地を併せ、太宗は靈州へ幸して功を受けた。鉄勒十一部が来朝し、太宗は張飲高会を開いて渠長らを唐官に任じた。
- 翌年、回紇部を瀚海、多覧葛部を燕然など六部を都督府とし、渾を臯蘭州、斛薛を高闕州など七州を置き、単于台跡に燕然都護府を設置、李素立を都護とした。吐迷度は懐化大将軍・瀚海都督を授かったが私に可汗を称し、外宰相六・内宰相三などの官制を持った。
- 吐迷度の甥烏紇が謀反して吐迷度を殺害したが、元礼臣の計略で誅殺され、子の婆閏が跡を継ぎ、阿史那賀魯討伐や高麗遠征で功を挙げた。以後、比栗-獨解支-伏帝匐-承宗と続き、承宗は王君㚟の讒言で流刑死、族子の護輸が君㚟を殺害する事件も起きた。
骨力裴羅の建国と唐との連携
- 骨力裴羅は天宝初年、葛邏禄と共に左右葉護を称し拔悉蜜を撃破、頡跌伊施可汗を斬って自ら骨咄祿毗伽闕可汗と称し、玄宗より奉義王を授けられた。烏徳山・昆河間に牙を置き、九姓(薬羅葛・胡咄葛・啒羅勿・貊歌息訖・阿勿嘀・葛薩・斛嗢素・薬勿葛・奚牙勿)を統べ、後に拔悉蜜・葛邏禄を加え十一部落とした。冊立の礼が定められ、以後の慣例となった。子の磨延啜(葛勒可汗)が継ぎ、東は室韋、西は金山、南は大漠に及ぶ版図を築いた。
安史の乱と回紇の援軍
- 肅宗即位後、安禄山討伐の援軍を請い、敦煌郡王承寀を可敦の妹婿とし、可汗自ら朔方軍と合流して同羅諸蕃を破った。太子葉護が四千騎を率いて来援、広平王と義兄弟の約を結んだ。香積寺の戦いで回紇の伏兵が賊軍を大破、長安・洛陽の回復に貢献したが、洛陽では三日間の掠奪も行われた。葉護は司空・忠義王に叙せられた。
- 乾元元年(758年)、寧国公主(玄宗の幼女)が磨延啜(英武威遠毗伽可汗)に降嫁、漢中郡王瑀が冊命使となり礼を巡る問答があった。可汗の死後、公主は殉死を拒み剺面のみで喪に服し、後に帰国した。
牟羽可汗と代宗即位後
- 移地健(牟羽可汗)が立ち、史朝義討伐で回紇軍を迎える際、雍王(後の徳宗)が可汗の叔父に対する跪拝礼を拒否し、薬子昂ら随員が鞭打たれる事件(陝州の恥辱)があった。仆固懐恩と回紇左殺の先鋒で朝義軍を破り河北を平定したが、東京での掠奪・浮屠焼殺も起きた。
- 冊可汗号として頡咄登里骨啜蜜施合俱錄英義建功毗伽可汗、可敦は娑墨光親麗華毗伽可敦とし、左殺を雄朔王等に封じた。永泰初年、仆固懐恩の反乱で回紇・吐蕃が入寇したが、懐恩の死後郭子儀が単身で酋長と会見し(子儀の説得)回紇を翻意させ、白元光との連合で吐蕃を靈台で大破した。
大暦年間の交渉と負担
- 光親可敦の死、崇徽公主の降嫁(懐恩の幼女)などが続く一方、回紇商人の京師での馬の売りつけ(絹一疋につき馬一匹で法外な値を要求)、京兆尹黎幹による事件処理など、回紇の増長による摩擦が頻発した。大暦十三年、回紇が振武・太原を侵したが鮑防が陽曲で敗れ、張光晟が羊虎谷で撃退した。
徳宗期の九姓胡粛清と和親
- 徳宗即位後、頓莫賀達干が可汗を殺して自立(合骨咄祿毗伽可汗)、源休が冊命に赴いたが、張光晟が振武で九姓胡を含む回紇一行を粛清する事件(振武の変)が起こり両国は一時断絶した。李泌の進言により徳宗は和親へ転換、咸安公主の降嫁が実現し、回紇は「回鶻」と改称するよう請うた(捷鷙な鶻に喩える)。
- 貞元五年(789年)、可汗死去、子の多邏斯(愛登里邏汩沒蜜施俱錄毗伽忠貞可汗)が継いだ。安西・北庭の朝貢路が回鶻経由で再開したが、頡幹迦斯の失政や吐蕃・沙陀の攻勢で北庭は陥落した。少可敦葉公主による可汗毒殺、頡幹迦斯による内乱鎮定と幼い阿啜(奉誠可汗)の擁立が続いた。太和公主(寧国公主に代わる少寧国)の逸話も記される。
元和~長慶年間
- 元和年間、骨咄祿(愛滕里邏羽錄沒蜜施合胡祿毗伽懷信可汗)が跌氏出身ながら可汗位を継ぎ、以後藥羅葛氏の子孫は朝廷に取り込まれた。摩尼教が伝来し、可汗と共に国政に関与した。李絳が北辺防備と和親の利害を五つの憂い・三つの利に整理して上奏した文書が詳細に記される。