新唐書卷二百十六下 列傳第一百四十一 吐蕃下

永泰~大暦年間の攻防

  • 永泰・大暦年間、薛景仙が報聘し盟を結んだが吐蕃は霊州を攻め、郭子儀が涇陽に屯した。景仙は倫泣陵らと共に来訪、境を鳳林関に定めるよう求めた。大暦三年(768年)、尚悉結が老齢を理由に退き贊摩が東面節度使を継いだ。邠寧の馬璘、朔方の白元光が虜を破り、剣南でも万人を破った。天子は辺境の防備を厳にし、当・悉・柘・靜・恭五州を険要に拠って守らせた。
  • 大暦八年(773年)、六万騎が霊州を侵し、渾瑊・馬璘が奮戦、郭子儀が十万を破った。九年、呉損が修好の使いに立った。崔寧が西山で吐蕃を破り、南詔の連合軍も撃退、大籠官論器然を捕らえた。十三年、馬重英が四万騎で霊州を侵したが常謙光に逐われ、南詔と合流した二十万は幽州兵の急行で敗走した。

徳宗即位と清水の盟

  • 徳宗即位後、韋倫が俘虜五百人を送還する策を取り、吐蕃の乞立賛(新賛普)は「先帝の喪に弔問できなかった」等三つの遺憾を述べ使者を送った。崔漢衡の使いを経て、贊普は唐使の礼と吐蕃使の礼を対等にするよう求め、帝は「献」を「進」、「賜」を「寄」等の語に改めることを許した。大相尚悉結の反対を排し、次相尚結賛の主導で講和が進んだ。
  • 樊沢・張鎰らが清水で吐蕃の結賛と盟を結び(牛馬でなく犬・豕・羊を牲とした)、涇州・隴州・鳳州・剣南の境界を定め、「間田」を設けて双方が城を築かないことを約した。長安でも区頬賛らと再度盟を行った。
  • 朱泚の乱では吐蕃が援助を申し出、渾瑊が武亭川で朱泚軍を破ったが、約束の涇・霊四州の割譲が実現せず吐蕃は怨みを抱いた。

平涼の会盟とその破綻

  • 貞元二年(786年)以降、吐蕃は涇・隴・邠・寧を侵し、李晟が汧陽で結賛を撃破。塩・夏州は陥落した。結賛は繰り返し盟を求め、渾瑊が盟会使となり平涼で会盟したが、結賛は伏兵三万を用いて渾瑊を急襲、渾瑊は辛くも脱出したが、判官韓弇・監軍宋鳳朝らは戦死、崔漢衡・鄭叔矩・路泌ら六十人が捕らえられた(平涼の劫盟)。
  • 以後結賛は隴・汧陽間を侵し、華亭を囲み民を虐殺するなど猛威を振るったが、李晟の防備や韓全義・唐良臣らの奮戦で徐々に押し返された。

貞元後期~元和年間

  • 貞元五年(789年)、韋皋が臺登で吐蕃を破り西南が安定、以後巂州の地を悉く回復した。北庭が陥落し安西への道が絶えた。貞元八年(792年)以降、鹽州の築城、韋皋の南詔連合による勝利が続き、韋皋の功が最も多かった。
  • 貞元十二年(796年)、尚結賛死去、翌年賛普も死に足之煎が立った。韋皋は新城を取り、維州の攻防でも功を挙げた。元和年間には論莽熱を捕らえるなど(韋皋の維州攻略)大きな戦果があった。
  • 憲宗期、論思邪熱の入朝、鄭叔矩・路泌の柩の返還などがあり朝貢が定例化した。沙州刺史周鼎の固守、閻朝による十一年に及ぶ籠城と降伏の逸話も記された。

穆宗~武宗期

  • 長慶元年(821年)、劉元鼎を盟会使として長安・吐蕃本国の双方で盟を行い、境界を定めた。元鼎の見聞として、蘭州の水田や龍支城の唐人子孫の逸話、赤嶺の地理、贊普の牙帳の様子(黄金の蛟螭虎豹装飾、缽掣逋の存在等)が詳述されている。
  • その後、贊普が三十年在位して死去、弟の達磨が継ぎ、酒色を好み政が乱れ、国内で地震・洪水・鼠害・疫病が相次いだ。会昌二年(842年)、贊普死去、幼い乞離胡が立てられたが、大相結都那が反発し殺され、国は分裂した。

尚恐熱の乱と河隴の帰唐

  • 別将尚恐熱が反乱を起こし鄯州節度使尚婢婢と抗争、蘇毗・吐渾・羊同の連合軍を破り勢力を広げたが、婢婢との長期の戦いで消耗した。大中年間、恐熱は各地を略奪し尽くし、ついに唐へ帰順を求めたが処遇を巡り決裂、廓州へ逃れた。
  • 鳳翔・涇原・霊武・邠寧・山南西道の各節度使が秦州・原州・安楽州・蕭関・扶州等を相次いで回復。宣宗は河隴の高齢者を延喜楼で慰労し、辮髪を解いて唐服に改める者が続出した。
  • 沙州の張義潮が瓜・沙・伊・肅・甘等十一州の地図を献じて帰順、歸義軍節度使となった。渾末(嗢末、吐蕃の奴部出身)の集団も甘・肅・瓜・沙・河・渭・岷・廓・疊・宕の間に居住した。咸通年間、義潮の入朝、仆固俊による恐熱討伐(斬首)を経て、後に王命が及ばず甘州は回鶻に併呑され、歸義の諸城も多くが失われた。

  • 賛にいう。唐の興隆以来、四夷で従わぬ者は皆兵を用いて服させたが、吐蕃・回鶻は最強で唐の患いとなること最も久しかった。贊普は河湟を尽く奪い、京師を犯し近郊を掠め、多くの唐人を殺した。謀臣・猛将が策を練っても要領を得ず、晩年は両国とも自ら衰え、唐も衰退した。外を撫し内を安んずるのは聖人のみがなし得る。玄宗は逸徳があり遠征に走り近患を忽せにしたため安禄山の乱が起こり、中原は二百年にわたり分裂したまま衰えた。内治を先とし四夷を外の憂いとするのが、守成の良策である。