新唐書卷二百九 酷吏 索元禮・來俊臣・侯思止・王弘義・郭弘霸・姚紹之・周利貞・王旭・吉溫・崔器・毛若虛・敬羽
総論
- 太宗の代は裁判に慎重で、死刑には州県で三度、都では五度の上奏審査を義務づけ、刑が執行された日は帝自ら食事や音楽を控えるほどであった。晩年には天下の刑罰はほとんど用いられなくなり、良吏はいても酷吏はいなかった。
- 武后は高宗・中宗の弱さに乗じて権力を握ると、臣下が服さぬことを恐れ、皇族を摘み取るために密告を奨励して大獄を起こした。全国からの密告者には公の乗物と護送を与え、功があれば爵位や褒賞を与えたため、索元礼・来俊臣らの徒が武后の意を汲んで次々と現れ、忠良の臣も朝を保てぬほどの恐怖政治となった。武后自身は表に出ず「六道使」による摘発体制まで作られた。
- 載初年間(689-690年頃)、右台御史周矩が「密告が常態化し、拷問吏は残酷さを功とし、無実の者まで自白させる『獄持』『宿囚』という拷問法が横行している」と諫めたことで、武后も反省し獄事はやや収まり、酷吏も次第に罪を得て排除されていった。
- 天宝以後、粛宗・代宗期にも奸臣が威を振るい峻烈な刑を用いたが、武后期ほどの恐怖政治には至らなかった。
史論
嗚呼、吏が自ら好んで酷薄になったのではなく、時勢がそうさせたのである。来俊臣らの利に走り天を欺いた行いを見れば、漢の張湯・郅都もその亜流に過ぎない。
索元禮――胡人の酷吏
- 索元礼は胡人で天性残忍。徐敬業の挙兵で武后が大臣に不信を強めていた時、変事を上書して認められ、遊撃将軍・推使に抜擢された。洛州牧の役所を獄に改め、鉄の首枷(脳が裂けるまで締め付ける)や梁から吊るして頭に石を吊る拷問(「曬翅」等)を用い、一件の取り調べで数百人を連座させることも常だった。
- 武后にたびたび引見・賞賜され威を誇示し、殺した者の数は最多であった。当時、来俊臣・周興と並んで「来索」と称された。薛懐義の口利きで信任を得ていたが、後に苛酷さと収賄が問題視され、下獄させられると「公の鉄籠を持ってこい」と獄吏に言われて罪を認め、獄中で死んだ。
來俊臣――「羅織」の獄
- 来俊臣は京兆万年の人。父操は博打打ちで、隣人蔡本の妻を博打の借金のかたに奪って生まれたのが俊臣で、蔡の姓を冒した。残忍で反覆常なく、和州で盗みを働き獄中から密告して天授年間に召見され、瑯邪王沖の謀反を密告した功で武后に信任され侍御史に抜擢、詔獄を担当して千余の一族を滅ぼした。
- 侯思止・王弘義・郭弘霸・李仁敬・康韋・衛遂忠ら不逞の徒百人余りを密偵として使い、公卿を誣告する「羅織」(でっち上げ)の手法を確立し、麗景門に専用の獄を置いた。属官の朱南山・万国俊と共に『羅織経』を著し、その手法を体系化した。
- 拷問は醋を鼻に注ぎ、地牢に閉じ込め、糞尿をかけ、食を絶つなど凄惨を極め、大枷には「定百脈」「喘不得」「突地吼」など十種の異名がつけられた。如意年間(692年頃)、狄仁傑・任令暉ら大臣を誣告し獄に落としたが、狄仁傑は帛書を子に託して冤罪を訴え、宰相楽思晦の九歳の遺児が身を賭して訴えたことで武后が悟り、仁傑ら六族は免れた。
- 賄賂・強奪を重ね、吐蕃の使者の侍女を奪おうと画策するなど乱行を極めたが、王慶詵の娘を強引に娶った件で衛遂忠との確執が生じ妻は自殺、さらに皇嗣や廬陵王・南北衙の謀反を捏造しようとした計画が漏れ、諸武氏や太平公主・張昌宗らの怨みも重なり、四十七歳で西市にて斬首された。人々は争って肉を抉り取り骨まで踏み砕くほど憎まれ、家財も没収された。
侯思止――無学の御史
- 侯思止は雍州醴泉の人、貧しく渤海の高元礼の奴隷であったが、恒州刺史裴貞への怨みを利用した密告で舒王元名を誣告し出世、遊撃将軍となった。文字を知らないことを咎められても「獬豸は学ばずして邪を触れる」と切り返す弁を高元礼に授けられ、武后に気に入られ左台侍御史に進んだ。
- 魏元忠を取り調べた際の下品な言い回し(「白司馬」「孟青棒」等)を元忠に逆に指摘され赤面する逸話が残る。俚言の訛りは霍献可らに嘲笑されたが武后は寛容だった。来俊臣にならい趙郡の李自挹の娘を娶ろうとしたが、宰相李昭德に阻まれ、搒殺された。
王弘義――「白兔御史」
- 王弘義は冀州衡水の人。密告で遊撃将軍となり、来俊臣と残忍さを競った。暑い季節に狭い牢に囚人を押し込め蒿を積んで蒸し殺すなど酷刑を用いた。若い頃、隣家の瓜を求めて拒まれると「園に白兎あり」と偽って住民に踏み荒れさせた逸話から「白兎御史」と皮肉られた。
- 来俊臣が失脚すると弘義も瓊州に流されたが、詔を偽って還ったところを発覚し、侍御史胡元礼に杖殺された。
郭弘霸――「四其御史」
- 郭弘霸は舒州同安の人。天授中、革命(則天革命)に乗じて召見され「徐敬業討伐で筋を抜き肉を食い血を飲み髄を絶つ」と誓う異様な言辞で左台監察御史に抜擢され「四其御史」と呼ばれた。大夫魏元忠の病床で便を舐めて病状を占い「味苦ければ治る」と諂ったが、元忠に軽蔑された。
- 芳州刺史李思征を拷問死させた後、幻覚に苦しみ自ら腹を切って死んだ。同年、旱魃の後に雨が降り、洛陽橋も完成したため、司勲郎中張元一が「三つの慶事(旱天の雨・洛橋完成・弘霸の死)」と皮肉ったという。
姚紹之――王同皎事件
- 姚紹之は湖州武康の人。中宗期、武三思の不法を憎んだ王同皎・張仲之・祖延慶らの暗殺計画が発覚した際、左台大夫李承嘉と共に取り調べを担当。宰相李嶠らの手心を見て取ると強硬に転じ、囚人を拷問し謀反罪をでっち上げて全員を族滅させた。
- その後左台侍御史に進んだが、贓罪で告発され、韋后の妹の助命嘆願で死罪を免れ瓊山尉に左遷、開元中に地方官のまま死んだ。
周利貞――五王誅殺
- 周利貞は系譜不詳。武后期、銭塘尉として禁漁中に届いた魚を「はぐれ魚だから構わない」と刺史に贈った機知の逸話がある。
- 神龍初、五王(敬暉・桓彦範・袁恕己ら)に憎まれ嘉州司馬に左遷されたが、崔湜を通じて武三思に通じ、五王流罪後は湜の指示で敬暉・桓彦範・袁恕己を嶺外で矯詔により殺害、左台御史中丞に進んだ。
- 崔湜の陥れで劉幽求も殺害しようとしたが桂州都督王晙に阻まれた。広州都督時代の酷政で夷獠の反乱を招き、贓罪で涪州刺史に左遷。開元初、玄宗が利貞ら酷吏の名を挙げて「終身用いず」と詔したが、その後も何度か地方官に任じられては黄門侍郎張廷珪らに厳しく弾劾された。桓彦範の子敬譲の訴えもあり、最終的に邕州長史に落とされ、梧州で賜死された。
王旭――「黒豹」
- 王旭は貞観の名臣・王珪の孫。神龍初、張易之誅殺の際にその兄昌儀を独断で斬首するなど酷薄な行いを重ね、崔湜が失脚した際にその舅盧崇道一族を拷問死させるなど、多くの冤罪を作った。
- 監察御史李嵩・李全交と共に「三豹」と称され、王旭は「黒豹」と呼ばれ里巷では恐れられた。宋王の属官紀希虬の兄を殺しその妻を奪うなど不正を重ね、最後は発覚して龍川尉に左遷、憤死した。
吉溫――「羅鉗吉網」
- 吉温は宰相吉頊の甥。陰険で権謀に長け、蕭炅・高力士に取り入って便宜を得た。李適之・張垍らの失脚工作で拷問を駆使し、李林甫に才を認められた。
- 楊慎矜の讖書事件では史敬忠を脅して自白を捏造させ、慎矜一族を族滅に追い込んだ。羅希奭と共に「羅鉗吉網」と恐れられた。
- 安禄山に取り入り宰相への口利きを求め、河東節度副使等を歴任したが、楊国忠との対立で澧陽長史に左遷、さらに端渓尉に落とされ、最終的に始安で殺された(享年不明)。安禄山反乱の五か月前のことで、反乱後、安禄山は温の十歳の子を探し出し河南参軍に任じてその恩に報いた。
崔器――安史の乱後の粛清
- 崔器は深州安平の人、貞観の駙馬都尉恭礼の曾孫。安禄山が長安を陥落させた際、賊の官職を受けたが、後に符敕を焼き捨て義兵に応じ、粛宗のもとで御史中丞・戸部侍郎、三司使を歴任。
- 二京平定後、賊に降った官吏を露頭跣足で罪を請わせる儀式を主導し、陳希烈ら数百人を死罪にすべしと建議したが、李峴の反対で刑は六等に緩和された。上元元年(760年)、病床で「達奚珣が訴えてくる」とうわ言を言い、三日後に死んだ。
毛若虛――財貨掠奪の酷吏
- 毛若虚は絳州太平の人。天宝末は武功丞、六十過ぎで粛宗還京後に監察御史に抜擢され、国庫窮乏を口実に財産没収を巧みに行い頭角を現した。
- 乾元中、鳳翔七坊士の殺人事件(尉謝夷甫の処断)をめぐり中丞崔伯陽と対立、帝に直訴して伯陽を失脚させ嶺外に追いやり、権勢は朝廷を震わせた。上元元年(760年)、罪を得て賓化尉に左遷され死んだ。
敬羽――「尾榆」の拷問
- 敬羽は河中宝鼎の人。安史の乱後、監察御史となり「尾榆」と呼ばれる巨大な枷や、門扉で腹を轢く拷問、棘を敷いた穴に落とす拷問などを考案した。御史中丞・宗正卿に進んだ。
- 鄭国公李遵を贓罪で取り調べた際、肥満の李遵をわざと不安定な椅子に座らせる嫌がらせで自白させ数百万の贓を得た。嗣岐王珍の謀反事件では竇如玢ら九人を斬り、趙非熊ら六七人を杖殺した。胡人の富商康謙を史朝義との内通で誣告し拷問死させた。
- 毛若虚・裴升・畢曜と共に「毛敬裴畢」と称された。宝応初、道州刺史に左遷され誅殺を命じられると喪服姿で逃亡を図ったが捕らえられ、袖に隠していた訴状を出しながら「取り調べも受けられずに死ぬのか、州の統治にはこれから注意すべきだ」と嘆いたという。