新唐書卷二百十 藩鎮魏博 田承嗣・史憲誠・何進滔・樂彥禎・羅弘信

序――河北藩鎮の由来

  • 安史の乱後、粛宗の代に大乱がほぼ平定されると、君臣ともに安堵し河北の地を分割して降伏した叛将にそのまま与え、賊の残党を温存したため、結局これが後の禍根となった。彼らは勝手に官吏を任命し、租税を私したまま朝廷に貢献せず、戦国時代さながらに土地を子孫に伝え、住民を脅して私兵化し、その地の人々もついには自らを異民族視するようになった。一人の賊が死ねば別の賊が生まれ、唐が滅ぶまで百年余り、この地はついに王土に帰さなかった。
  • 最盛期には蔡州(淮西)が斉(淄青)と結び河南を分裂させ、天子に対抗する連合を組んだ。杜牧は「山東は、王者が得なければ王たり得ず、覇者が得なければ覇たり得ず、賊が得れば天下は安からず」と評した。杜牧はさらに、大暦・貞元年間に朝廷が河北の藩鎮を法で罰しきれず、王侯の爵位を勝手に受けさせ、逆賊の子孫を皇女に嫁がせるなど際限なく妥協を重ねた結果、藩鎮の僭上と兵力は増大する一方であったと論じ、「大暦・貞元の守邦の術(懐柔策)」を永く戒めとすべきだと説いた。
  • 魏博は五代(田氏)を経て田弘正の入朝に至り、その後十年でまた乱れ、さらに四姓・十代を経て七州を領した。成徳(鎮冀)は二姓五代を経て王承元の入朝の翌年、王廷湊が反して六代・四州を領した。盧龍(幽州)は三姓五代を経て劉総の入朝の六か月後に朱克融が反し、十二代・九州を領した。淄青は五代で滅び十二州を領した。滄景は三代を経て程権の入朝の後、李全略が奪い、その子同捷の代で滅び四州を領した。宣武は四代で滅び四州、彰義は三代で滅び三州、沢潞は三代で滅び五州を領した。こうした由来を辿れば、地の軽重は結局のところ人の謀の巧拙によるものであろう。ここでは自ら勢力を築き世襲した者を『藩鎮伝』として立て、田弘正・張孝忠らのように忠節を尽くし王室を守った者は別伝に記す。

田承嗣――魏博の祖

  • 田承嗣は字も承嗣、平州盧龍の人。代々盧龍軍に仕え豪侠で知られ、安禄山の麾下で奚・契丹を破り武衛将軍に累進した。禄山の反乱に張忠志と共に先鋒となり河洛を陥落させた。ある大雪の日、禄山の閲兵に際し一人の欠員も出さず整列させたことで異能を認められ潁川を守らせた。
  • 郭子儀が東都を平定すると承嗣は郡を挙げて降ったがまもなく再叛、安慶緒が鄴に逃れると潁川から合流し、蔡希德・武令珣と共に慶緒を支えた。史思明の乱でも賊の先導を務め、朝義敗死の際は僕固瑒の追撃を欺いて莫州を保ち、最終的に張忠志・李懐仙・薛嵩と共に僕固懐恩に降った。朝廷は再乱を恐れ大赦し、承嗣を莫州刺史に、後に貝・博・滄・瀛等州節度使・検校太尉とした。
  • 猜疑心強く礼義を知らぬ性格で、戸口を計り重税を課し、老幼に耕作させ壮者を軍に編入して十万の兵を養い、精鋭一万を「牙兵」と称して私有化した。代宗はやむなく同中書門下平章事・雁門郡王に封じ、子の田華を永楽公主に娶わせて懐柔したが、承嗣の兇暴さは変わらなかった。
  • 大暦八年(773年)、相衛の薛嵩死後の混乱に乗じ磁州・洺州・衛州を奪い刺史薛雄を殺すなど七州(貝・博・魏・衛・相・磁・洺)を私有し、朝命に従わなかった。朝廷は河東・成徳・幽州・昭義・淄青・淮西・永平・汴宋の六万の兵で討伐させたが、承嗣は巧みに離間策や偽りの恭順で切り抜け、時に敗れても最終的には再び官爵と鉄券を得た。李霊耀の汴州反乱にも介入し敗れたが、上書して謝罪し官爵を復した。
  • 貝・博・魏・衛・相・磁・洺の七州を領したまま終生天子に臣従せず、大暦十四年(779年)享年七十五で死し、太傅を追贈された。

田悅(承嗣の甥)――魏王僭称と敗死

  • 田悅は幼くして父を失い、母の再嫁先で淄青を転々としたが、承嗣に見出され十三歳で号令を委ねられるほど信任された。剽悍で軍中随一の武才を誇り、承嗣の死に際し諸子が幼弱なため節度事を託された。
  • 徳宗即位後、諸鎮は緊張を強めたが、悅は当初七万の兵を四万に減らす詔にも巧みに応じ人心を得た。しかし劉晏の死や諸鎮の疑心に乗じ、李正己・梁崇義らと結んで建中二年(781年)、成徳の李惟嶽・淄青の李納と共に反乱、自ら「魏王」を僭称し官制を整えたが、馬燧らの官軍に洹水で大敗し、命惜しさに部下に「我が首を斬って富貴を得よ」と訴えるほど追い詰められた。
  • 朱滔・王武俊の援軍でいったん勢いを盛り返し、悅を盟主に推す動きもあったが、悅自身は臣下として振る舞い「魏」を号し百官を置いた。朱泚の反乱に際しては朱滔と結ぼうとしたが、部下許士則の諫言で思いとどまり、天子の赦免を受けて朝廷側に戻った。しかし興元元年(784年)、従弟の田緒に酔って寝ている隙を襲われ、家族もろとも殺害された(享年三十四)。

田緒(承嗣の第六子)――魏博節度使

  • 田緒は承嗣の第六子。田悅暗殺後、逃亡を図ったが邢曹俊に連れ戻され、諸将に推されて留後となり、後に節度使に任じられた。朱滔の攻撃を三か月凌ぎ、朱滔敗走後は昭義の李抱真らと友好を保った。
  • 貞元元年(785年)、嘉誠公主が降嫁し駙馬都尉となる。猜疑深く兄弟姉妹数人を殺害するなど暴虐であったが、暴病で三十三歳で死し、少子季安が跡を継いだ。

田季安(緒の少子)――専横と暴死

  • 田季安は字を夔、幼くして父を失い十五歳で節度使となった。当初は嘉誠公主の躾で礼法を守ったが、公主の死後は放埒となり軍事も恣意的に決するようになった。
  • 吐突承璀の王承宗討伐に際し、幽州の劉済の使者譚忠の献策により、王師には表向き厚遇しつつ内密に趙(成徳)と示し合わせて戦禍を回避する策を用い、堂陽を得て太子太保を加えられた。
  • 側近を生き埋めにするなど残酷な性格で、享年三十二で死し太尉を追贈された。

田懷諫(季安の子)――幼少での失脚

  • 季安の妻元誼の娘が最年少の子懐諫を立てたが、政務は私奴蔣士則に握られ、将士の怒りを買い、田興(後の田弘正)が留後に推されて士則らを殺し、懐諫は都に送られ右監門衛将軍に留め置かれた。田氏は承嗣から懐諫まで四代・四十九年続いた。

田縉(緒の弟)――夏綏の節度使

  • 田縉は字を雲長、貞元十年(794年)入朝し左驍衛将軍・扶風郡公。元和中、夏綏銀節度使となり宥州を再建し吐蕃の侵攻を防いだが、後任李聴の弾劾で軍糧横領・羌人の羊馬強奪が発覚し衡王傅に左遷、さらに房州司馬に落とされ、長慶初、左領軍衛将軍で終わった。

田華(緒の弟)――太常少卿

  • 田華は太常少卿となり、永楽・新都の二公主を娶った。

史憲誠――魏博節度使への台頭

  • 史憲誠はもと奚族で霊武に内属した建康人の家系、三代にわたり魏博の将を務めた。田弘正の李師道討伐に先鋒として従軍し功をあげ御史中丞を兼ねた。
  • 長慶二年(822年)、田布の自殺後の軍乱に乗じ中軍兵馬使として実権を握り、穆宗はやむなく節度使に任じた。表向き朝命に従いながら幽州・鎮州と通じるなど二心を抱き、大和中には李全略の子同捷の反乱を密かに支援したが発覚を恐れ王師に加わり、滄景平定後は自ら地の返上を申し出て河中節度使に転じることになった。
  • しかし転出に際し軍の動揺を恐れ弟史憲忠の策で相・衛を分割し弱体化を図ったところ、魏軍は李聴の進駐を疑い、「我々を売って恩を売ろうとしたのか」と怒り、夜襲を受けて監軍史良佐と共に殺された(大和三年=829年)。何進滔が後継に推された。

何進滔――魏博の安定

  • 何進滔は霊武の人、代々魏博の軍校の家柄。田弘正に仕え王承宗討伐で功をあげ、史憲誠殺害後に軍中の信望を得て留後、次いで節度使となった。前任者殺害の首謀者九十余人を斬る一方で脅されて従った者は赦し、喪服で哭礼を行うなど人心を収攬し、十余年魏を治めて民に安定をもたらした。開成五年(840年)死し、太傅を追贈され諡は「定」。

何重順(弘敬、進滔の子)――澤潞討伐

  • 子の何重順(弘敬と改名)は武宗の即位後の混乱に乗じて挙兵しようとしたが福王綰を節度大使に戴くことで抑えられた。劉稹討伐では劉稹との縁を重んじ消極的であったが、王元逵の圧力でやむなく出兵、澤潞平定後に同中書門下平章事を加えられ、懿宗初に中書令・楚国公。咸通七年(866年)死し、太師を追贈された。

何全臯(進滔の子)――暴政と滅亡

  • 何全臯は龐勛討伐の功で検校司空・同中書門下平章事に進んだが、若く残虐な性格で軍中の恐怖を買い、軍糧不正の噂から兵乱が起き単騎で逃走、韓君雄に殺された(咸通十一年=870年)。何氏は進滔から全臯まで三代・四十二年続いた。
  • 懿宗は普王を大使とし、韓君雄(賜名允中)を留後とした。允中は死後太尉を追贈され、その子何簡が留後を継いだが、諸葛爽との抗争に敗れ、楽彦禎が代わった。田氏系(何氏系)は簡の代まで二代・十二年。

樂彥禎――魏博の衰乱

  • 楽彦禎も魏の人。簡の代に博州刺史から澶州刺史を経て軍に推され節度使となった。公乗億・李山甫ら文人を幕府に招いたが、王室の衰退を見て驕慢となり城郭を大増築、民の怨みを買った。
  • 子の従訓が王鐸を襲い財産を奪うなど非行を重ね、五百人の無頼「子将」を私兵化して軍中の反感を招いた。彦禎自身も不吉な夢を見て軍乱に囚われ僧の姿にされた末に殺され、大将趙文㺹が留後を代行した。従訓は朱全忠に援軍を求めたが文㺹軍に敗れ、羅弘信に討たれた(文徳元年=888年)。楽氏は七年続いた。

羅弘信――朱全忠との連携

  • 羅弘信は字を徳孚、魏州貴郷の人。巫女の予言(「白頭の老人が君に地を与える」)を機に軍中に推戴され留後、次いで節度使となった。
  • 朱全忠の黄巣・秦宗権討伐を支援する一方、雷鄴殺害事件で緊張が生じたが、朱全忠の河北経略に協力し李克用と対抗、内黄・白龍潭などの戦いを経て光化元年(898年)に李克用の兵を退けた。朱全忠との密接な関係を築き、同年死し(享年六十三)、太師・北平王を追贈され、子の羅紹威が継いだ。

羅紹威(弘信の子)――牙軍の粛清

  • 羅紹威は字を端己、精悍で吏事に明るかった。父の跡を継ぎ節度使となり、劉仁恭の侵攻を朱全忠の援軍で撃退した。全忠が帝を洛陽に遷す際には太廟の造営を担当し侍中・鄴王を加えられた。
  • 魏博の「牙軍」(田承嗣以来の世襲軍団)は代々驕慢で法令を無視し、紹威はこれを恐れて朱全忠と謀り、婚礼を口実に武装した部隊を城内に引き入れて牙軍八千族を一夜で誅殺した。残党の史仁遇・李重霸らも各地で討伐された。
  • しかし牙軍粛清により魏博自体が弱体化し、以後は朱全忠に完全に従属する州刺史同然の存在となった。紹威は蔵書一万巻を集め、江東の詩人羅隠と親交を結び自作の詩集を『偸江東集』と名付けたという。

史論

贊にいう。田承嗣はほとんど捕らえられかけたが、李宝臣は承嗣の子承倩への怒りを収めて魏を赦した。建中年間、三将軍(田悦・王武俊・朱滔)が刃を振るい血にまみれたが、最終的に成し遂げた者はいなかった。四つの叛乱が連なり戦禍が続いても天子は宗廟すら守れなかった。田弘正の代に至りようやく汚名を雪いで入朝したが、数年でまた乱れ、唐はついに魏を取り戻せなかった。斉の桓公の代の豎刁の乱と比べて、どちらが重いといえようか。