新唐書卷二百八 宦者下 李輔國・王守澄・劉克明・田令孜・楊復恭・劉季述・韓全誨・張彥弘

李輔國――出自と粛宗擁立

  • 李輔国は本名を静忠といい、去勢された下僕として厩の小者から出発した容貌の醜い人物で、書算を多少解した。高力士に仕え、四十過ぎで厩の帳簿管理を任された。王鉷の推薦で皇太子(後の粛宗)の東宮に仕えるようになった。
  • 安禄山の乱で陳玄礼らが楊国忠を誅殺した際、輔国もその謀議に加わり、太子に朔方へ向かい河隴の兵を集めて再興を図るよう勧めた。太子が霊武で即位すると重用され、家令・元帥府行軍司馬に進み、「護国」次いで現名に改名。四方の上奏・軍符・禁中の宝物を一手に握った。
  • 帝が長安に還ると殿中監、閑廐・五坊・宮苑・営田・栽接総監使、隴右群牧使、京畿鋳銭使、長春宮使、少府・殿中二監を兼ね、成国公に封じられ実封戸五百を得た。宰相以下の群臣は輔国を通さねば天子に会えぬほどの権勢となり、独自に諜報組織(察事聴児数十人)を置いて官吏の些細な過失も摘発した。詔書も輔国の署名を経て初めて施行され、外出には武装した護衛三百人を従えた。世人は畏怖して「五郎」と呼び、宰相李揆は輔国を「五父」と称した。

李輔國――上皇幽閉と失脚

  • 宰相李峴が輔国の専横を戒めたため、輔国はこれを憎んだ。
  • 上皇(玄宗)は興慶宮に住み、市中の民と親しむ様子を見た輔国は自らの威を固めるため、上皇が興慶宮で高力士・王承恩・魏悦・玉真公主・梨園弟子らと歓を尽くし、剣南の吏や郭英乂・王銑らを招いて酒を賜ったことを取り上げ、「上皇の側近が反乱を企てている」と粛宗に讒言し、上皇を大明宮の西内へ移すよう仕向けた。興慶宮の馬三百匹のうち十匹を残して奪い、粛宗が病臥した隙に輔国は詔と偽って上皇を睿武門で足止めし、射生官五百人で威嚇した。高力士が一喝して輔国を叱り、辛くも上皇を西内の甘露殿へ移した。上皇はまもなく気落ちして崩じた。輔国はこの功で兵部尚書に進み、南省での視事に武装兵を従え太常の楽を備えるなど驕り高ぶり、宰相の地位も欲したが、帝が難色を示したため裴冕を通じて自薦させようとし、蕭華に阻まれた。
  • 張皇后が輔国と程元振の専権を憎み、粛宗の病床で太子(後の代宗)に両者の誅殺を図らせたが太子は従わず、皇后は越王・兗王に謀った。元振がこれを輔国に告げ、輔国は淩霄門に伏兵を置いて太子を迎え、皇后と二王・宦官朱輝光・馬英俊らを捕らえ、皇后は他殿で殺された。
  • 代宗が即位すると輔国は擁立の功でますます驕り「大家(帝)は宮中に座しているだけでよく、外事は老奴が決する」とまで言い、代宗は除きたいが兵権を恐れて尚父と尊称し、司空兼中書令・実封戸八百を加えた。まもなく彭体盈・薬子昂に諸使の職を奪われ、輔国は外の邸に移された。恐れをなして辞表を出すと博陸郡王・司空・尚父の地位を与えられたが、実権のない閑職となり、中書省に入ろうとして門番に拒まれ「老奴は死罪に値するが、郎君(帝)に事えきれなかったのなら、先帝に地下で仕えよう」と嘆いた。
  • 帝は上辺だけ慰めたが、内心では市中の同情を恐れ、代宗即位後に密かに刺客を放って輔国を殺させた(享年五十九)。首を厠に投げ捨てられ右腕も切断されたが、事件は秘され木で作った首を代わりに葬儀を行い、太傅を追贈、諡は「醜」に近い蔑称に等しい字が与えられた。後に梓州刺史となった杜済という武人が、自ら輔国を刺した者だと語ったという。

王守澄――憲宗弑逆と穆宗・文宗の擁立

  • 王守澄は経歴の初めが不明だが、元和中に徐州軍の監軍となり、召還された。憲宗が方士の説を好み、天下に不老長生の術者を求めたことに乗じ、宰相皇甫鎛や李道古が推薦した楊仁晝(柳泌と改名)や僧大通らが金石の薬を憲宗に献じ、憲宗は服用のたびに癇癪を起こすようになり、病がちとなった。
  • 元和十五年(820年)、憲宗の病状が隠された中、守澄は内常侍の陳弘志と共謀して中和殿で憲宗を弑逆し、暴病死と偽って発表、梁守謙・韋元素らと共に穆宗擁立を主導、まもなく枢密使となった。
  • 文宗擁立にも功があり驃騎大将軍に進んだ。文宗が元和の弑逆の罪を長く問えずにいたため宰相宋申錫に密かに討伐を謀らせたが失敗し、逆に鄭注・李訓の策により楊承和・韋元素らが流罪となり、殺害された。訓は軍容使の職を解いて第宅に退かせた守澄に、内養(宦官)を使って毒殺させた。事は秘され、揚州大都督を追贈された。弟の守涓も監軍を解かれ召還の途中で死んだ。

劉克明――敬宗弑逆

  • 劉克明も出自不詳だが、撃毬を好む敬宗の寵愛を受けた。陶元皓・靳遂良・趙士則・李公定・石定寛ら神策軍出身の無頼の徒が球技の腕で殿中に出入りし、帝と戯れた。角抵見物で死傷者が出ても帝は喜んで厚く賞し、近臣は驕り、小さな過失にも辱められた者たちが怨みを抱いた。
  • ある夜、帝が更衣の際に灯りが消えた隙に、克明は蘇佐明・石定寛らと共に敬宗を弑逆し、翰林学士路隋に詔を偽作させて絳王に軍国事を委ねさせ、翌日即位の詔を発した。しかし枢密使王守澄・楊承和、中尉梁守謙・魏従簡が宰相裴度と共に江王(後の文宗)を迎え、神策軍と六軍飛龍兵で討伐、克明は井戸に身を投げて死に、屍を晒された。田務澄ら一味は斬首、家産は没収、党類数十人も殺された。克明の母は当初その謀反を止めていたため、文宗は母の忠節を賞し銭千緡・絹五百匹・婢二人を賜った。

田令孜――僖宗の擁立と蜀行

  • 田令孜は字を仲則、蜀の出身で本姓は陳氏。咸通年間、小馬坊使を歴任し、僖宗即位で左神策軍中尉に抜擢された。西門匡範が右中尉となり「東軍」「西軍」と呼ばれた。
  • 僖宗は幼く闘鵝や競馬を好み、令孜はその寵臣として国庫を蕩尽させ「父」と呼ばれるほど信任された。市場の商人や外国人の財貨を内庫に集めさせ、訴え出た者を杖殺する強引な手法を用いた。
  • 宰相盧携と結んで政を専断し、黄巣討伐の機を誤らせて東都陥落を招いた。責任を携に負わせ、僖宗を奉じて西へ蒙塵(西幸)、途中で兵士に非難されるも羽林騎を斬って抑え、成都に至った。義兄の陳敬瑄が西川節度使であった縁で蜀行を勧めたのも令孜であった。成都では左金吾衛上将軍・晋国公に進んだ。
  • 黄頭軍の将郭琪への不公平な処遇から反乱を招くなど失政が続き、左拾遺孟昭図の諫言を握りつぶし溺死させた。楊復光の死後、その功を軽んじ、王建らの武将を養子として取り込みつつ河中の王重栄と対立し、沙苑での大敗を招いた。李克用の圧迫で長安の宮城に放火し僖宗を伴い興元へ逃れる(このとき宮城はほぼ焼失した)。最終的に諸鎮の圧力で解任され、剣南監軍使に留め置かれた。
  • 昭宗即位後、養子王建に成都を包囲されて降伏、幽閉された。同じく養子とした宋文通(後の李茂貞)を助命したことなどもあったが、乾寧中に敬瑄と同日に処刑された。刑に臨み従容としていたという。乾寧中に官爵を復された。

楊復恭――昭宗擁立と失脚

  • 楊復恭は字を子恪、本姓林氏、楊復光の従兄。父玄翼も枢密使を務めた宦官の家系。龐勛の乱で功をあげ、樞密使に累進。田令孜の専横に敢然と異を唱え、一時飛龍使に左遷されたが、僖宗の興元蒙塵後に再び枢密使となり、還京後は田令孜に代わり左神策中尉・六軍十二衛観軍容使となった。
  • 僖宗崩御に際し昭宗擁立を主導、金吾上将軍を加えられた。当初は倹約を勧める忠言もあったが、次第に驕慢となり、皇太后の弟王瑰の節度使就任を阻止し、後にその舟を沈めて一族もろとも殺害する事件を起こした。
  • 一族を各地の刺史に、養子六百人を諸道の監軍に配して勢力を張り、「外宅郎君」と称された。養子李順節(本名胡弘立)を通じて宦官内部の権力争いに巻き込まれ、孔緯に朝廷で弾劾されるなどして帝との溝が深まった。
  • 大順二年(891年)、兵権を解かれ鳳翔監軍を命じられたが赴任を拒み、致仕して興元へ逃れた。李茂貞・王行瑜らに討伐され、景福元年(892年)城が落ちて閬州へ逃亡、最終的に韓建の兵に捕らえられ、養子守信と共に斬られた。子の守亮は檻車で長安に送られ梟首された。

劉季述――昭宗廃立事件

  • 劉季述も微賤の出で、僖宗・昭宗の間に頭角を現し枢密使に進んだ。李茂貞討伐失敗の責任を負わされ西門重遂・李周潼が斬られると、駱全瓘・劉景宣が中尉となった。乾寧二年(895年)、李茂貞・王行瑜・韓建の入朝や李克用の討伐で昭宗は長安を追われ石門に避難、還京後も宦官の専権が続き、宰相崔胤らが排除されていく中で季述・王仲先が左右中尉となった。
  • 帝の酒色を憂えた季述らは、朱全忠との内通を疑われることを恐れ、昭宗を廃して皇太子を擁立する謀をめぐらせ、光化三年(900年)、皇后を欺いて偽の令を発し、太子監国の名目で昭宗を少陽院に幽閉した(少陽院の錠を溶かした金で塞ぐという徹底ぶり)。多数の側近を粛清し、帝の弟睦王も殺された。
  • 崔胤は朱全忠に密かに助力を求め、内部対立を突いて都将孫徳昭・董従実らを動かし、光化三年末、王仲先を殺害、季述と王彦範を捕らえて梃で撲殺、屍を晒した。功臣孫徳昭・董従実・周承誨には節度使や検校官が与えられ「三使相」と称された。

韓全誨・張彥弘――昭宗の鳳翔連行と誅殺

  • 韓全誨・張彦弘も出自不詳の宦官で、共に鳳翔軍を監督していた。全誨は内枢密使となる。劉季述誅殺後、崔胤は神策軍の指揮権を文官に握らせようとしたが李茂貞らの反対で失敗し、全誨・彦弘が左右の中尉となった。両者は李茂貞・朱全忠双方に兵を都に入れさせるなど混乱を深めた。
  • 全誨らは崔胤に誅殺されることを恐れ李茂貞と結び、天復元年(901年)十一月、昭宗を鳳翔へ連行、宮城に放火した。朱全忠は華州・同州を取り関中を制圧、鳳翔を包囲した。籠城は長期化し、天復三年(903年)正月、李茂貞は形勢不利を悟り全誨らの誅殺を条件に朱全忠と和解、韓全誨・張彦弘・袁易簡・周敬容ら四名は殺され、内諸司使韋処廷ら二十二人も同夜に誅された。首は布袋に納められ朱全忠に送られた。
  • 昭宗は朱全忠の軍中に入り、長安へ帰還。崔胤・朱全忠は宦官第五可範ら八百余人を内侍省で誅殺し、宦官勢力はほぼ一掃された。しかし史論が述べる通り、この争いを経て朱全忠の権勢は決定的となり、後に昭宗は弑逆され唐は滅亡に至る。禍の根は韓全誨・張彦弘に発するとされる。

史論

贊にいう。後漢末、袁紹が宦官(常侍)を誅殺して快とし、結果として曹操が漢の実権を奪った。唐末、崔胤(丞相)が宦官の血で快哉を叫び、朱温(朱全忠)が唐を簒奪した。おおむね外部の武力を借りて内部の奸人を除こうとすれば、その大臣が権を専らにして王室は衰える。漢と唐は五百年隔たるが、乱を生み亡国に至る経緯は軌を一にしており、天命の廃絶というより、人の謀の巡り合わせがそうさせたのではないか。