剛直の文人
- 字は茂挺、梁鄱陽王蕭恢の七世孫。祖の晶は越王貞の挙兵を諫めて策が用いられず出奔し客死した。
- 穎士は四歳で文をなし十歳で太学生。開元二十三年、進士対策第一。父旻が罪に問われた際、府佐張惟一に「旻に佳児あり、憾みなし」と赦された逸話が伝わる。
- 天寶初、秘書正字。裴耀卿・席豫・張均・宋遙・韋述らに評価され名声を得た。趙・衛の遺書捜索の使命を果たせず免ぜられ、濮陽に多くの門人を集めて「蕭夫子」と称された(尹征・王恒・盧異ら)。集賢校理に召されたが、宰相李林甫の招きに応じず(父の喪中を理由に)憎まれ、広陵参軍事に貶され、『伐櫻桃樹賦』で林甫を諷刺した。
- 史書観:孔子『春秋』を規範とし、司馬遷の紀伝体は褒貶の体を失うと批判、漢元年から隋義寧までを『春秋』の義例で編年した伝百篇を著した。魏の高貴郷公の死を「司馬昭が帝を弑した」、梁の陳への禅譲を「陳霸先の反逆」と記すなど独自の史観を貫いた。太原の王緒の『梁書』編纂にも協力した。
- 史官韋述の推挙で史館に召されたが、李林甫との不和で免官、林甫死後に河南府参軍事となった。安禄山の驕慢を見抜き「乱は久しくない、東京がまず陥落するだろう」と予言、乱勃発後は河南採訪使郭納・封常清に献策したが用いられず嘆いた。南陽攻防戦では源洧を説得し襄陽死守を進言し功があった。
- 崔圓への書簡で東南防衛の重要性を説き(劉展の乱を予言)、揚州節度副大使李承式の宴楽に「天子が野に伏す時に何を楽しむのか」と諫言したが用いられず、揚州功曹参軍に転じすぐ辞した。汝南で客死、享年52、門人が「文元先生」と諡した。
- 人材育成に努め、李陽・皇甫冉ら数十人を名士に育てた。殷寅・顔真卿・柳芳・陸據・李華・邵軫・趙驊と親交を結び「殷・顔・柳・陸、李・蕭・邵・趙」と併称された。李華とは特に並称され「蕭・李」と呼ばれた。
子 存
- 字は伯誠、亮直な父の風を継いだ。韓会・沈既済・梁肅・徐岱らと親交。顔真卿の古今韻字研究にも参加。建中初、殿中侍御史から比部郎中に累遷。裴延齢との不和で辞官、風痺で没した。韓愈は若くしてこの存に学び、後に廬山の旧居を訪ねて遺族の面倒を見た。
附 陸據
- 字は徳鄰、河南の人、後周上庸公陸騰の六世孫。天寶十三載、司勲員外郎で没した。
附 柳並
- 字は伯存。大暦中、河東府掌書記から殿中侍御史。失明し家で没した。劉太真・尹征・閻士和とともに蕭穎士に師事したが独り黄老を好んだ。弟の談(字中庸)は穎士に才を愛され娘婿となった。
附 皇甫冉
- 字は茂政、十歳で文をなし張九齢に驚嘆された。弟の曾とともに詩に優れ、天寶中に相次いで進士及第、無錫尉、右補闕に至った。曾は字を孝常といい監察御史となった。