新唐書卷二百二 列傳第一百二十七 鄭虔

三絶の博学

  • 鄭州滎陽の人。天寶初、協律郎として当代の事跡を編み『会稡』の元となる著作を残したが、私撰国史の嫌疑をかけられ焼却し十年の左遷。玄宗に才を愛され、専用の広文館博士に任じられたが、部署も定まらぬまま雨漏りの官舎で放置され、事実上廃止された。
  • 慈恩寺の柿の葉に書いて紙不足を補った逸話、自作の詩・画を献じて玄宗に「鄭虔三絶」と大書された逸話が伝わる。著作郎に遷った。
  • 安禄山の乱で偽官水部郎中を受けたが病と称して市令の閑職に就き、密かに霊武へ通報した。乱平定後、崔圓の下で王維らとともに囚われ、絵の技で命を救われ台州司戶参軍に貶された。地理・軍事に通じ『天寶軍防録』を著し「鄭広文」と称された。清貧に甘んじ、杜甫が「才名四十年、坐客寒くして氈なし」と詩に詠んだ。
  • 弟子の鄭相如が孔子の予言を援用し、鄭虔の生涯(開元三十年で改元、その十五年後に天下大乱、賊臣が僭位)と自らの死(三年後、衢州で没す)を予言し、いずれも的中したという逸話が伝わる。鄭虔はこれを信じ賊に与しなかった。