新唐書卷二百二 列傳第一百二十七 王維

詩画両道の才

  • 字は摩詰。九歳で文をなし弟の縉と並び孝友で知られた。開元初、進士及第、太楽丞から済州司倉参軍に左遷されたが張九齢の抜擢で右拾遺、監察御史を歴任。母の喪では痩せ細るほど哀しんだ。
  • 安禄山の乱に際し薬で下痢を装い賊への出仕を拒もうとしたが強いて給事中とされた。凝碧池での宴で梨園楽工が泣くのを見て悲痛の詩を作った。乱平定後、弟縉の官位返上の嘆願と粛宗の同情で太子中允に減刑され、中庶子・尚書右丞に至った。
  • 蜀州刺史の弟縉との官位交換を願う上表(「己に五短、縉に五長あり」)も記される。上元初、享年61で没した。病篤い際、縉への遺書のほか多くの知人への手紙を書き終えるとともに絶筆したという。秘書監を追贈。
  • 草隷・絵画に長じ、山水画は天機の域と評された。輞川の別荘に華子岡・欹湖などの景勝を営み、裴迪と詩を唱和した。仏教に篤く、母の死後は輞川の邸を寺に施した。代宗が縉に「王維の楽章は今どれほど伝わるか」と尋ねた逸話も記される。