新唐書卷二百 列傳第一百二十五 陳京

禘祫論争の中心人物

  • 字は慶復、陳の宜都王叔明の五世孫。父兼は右補闕・翰林学士。進士及第、太常博士に累遷。
  • 徳宗が奉天にあったとき、段秀実が賊に殺されたことを聞き七日朝せずにいたのを宰相が批判した際、陳京は「大節を褒め賢臣を恤むことこそ天下が安んじる所以」と諫めた。盧杞の饒州刺史起用に対しては趙需・裴佶らと連署して弾劾し、これを廃させた。徳宗の生母の行方を密かに助言した逸話も伝わる。
  • 禘祫論争:玄宗・粛宗を祔廟した際、始祖に近い献祖・懿祖の位置づけ(東向位を太祖に譲るか)を巡り、於休烈が二祖を夾室に藏すべきと議して以来約二十年、東向位が空位となっていた。建中初、陳京は太常博士として二祖を別廟に立てるべきと上言。以後、顔真卿・柳冕・李嶸・張薦・裴樞・韓愈ら多数の議論を経て、貞元十九年、景皇帝(太祖)を東向とし献祖・懿祖を興聖廟に遷す案(王権らの説)でついに決着した。陳京自身も博士獻議から二十年にわたりこの議論を主導した。
  • 晩年、病により奇行が目立ち、崔邠・李汶を讒訴したとされる事件があり、後に秘書少監に左遷されて没した。徳宗が李吉甫に述懐したところによれば、陳京と趙贊が税架屋・貸商銭の策を進めたことが朱泚の乱の遠因になったとされる。
  • 子はなく、甥の褒が嗣いだ。孫の伯宣は著作佐郎を辞して受けなかった。

史論

  • 徳宗の弊政として税間架・借商銭・宮市を挙げ、順宗が太子時代にこれを諫めようとして王叔文の諫めに懲りて止めた経緯を述べる。憲宗は暴斂の令が賊臣に始まったことを聞いて感憤したが、程異・皇甫镈を用いて諫言を聞かなかったことを批判する。