沈伯儀
- 沈伯儀は湖州呉興の人。武后時代、太子右諭徳となった。
- 太常少卿韋万石が明堂大享の儀について「鄭玄は五天帝を、王粛は五行帝を祀るべきとする。《貞観礼》は鄭玄説、《顕慶礼》は昊天上帝、乾封の詔書は五天帝と昊天を併せて祀り、上元の詔書は再び《貞観礼》に、儀鳳初の詔書は周制に一本化するとした、今回はどれに従うべきか」と上言すると、高宗は尚書省に諸儒を集めさせたが定まらず、当面は《貞観》《顕慶》二礼を併用することになった。
- 垂拱元(685)年、成均助教孔玄義は「父を配するのは天への嚴父の礼として最大、《易》に『先王作楽崇徳、殷薦之上帝、以配祖考』とあり、昊天の祭には祖・考を共に配すべき、太宗・高宗を圓丘の上帝に、神堯皇帝(高祖)を感帝南郊に配すべき」と奏した。これに対し沈伯儀は、虞・夏・殷・周それぞれの禘・郊・祖・宗の配食制度を挙げ、鄭玄の解釈が最も詳細であるとした上で「周だけが礼の秩序を正しく得ており、明堂だけが文王・武王の両者を配する。文王を上位の五帝に、武王を下位の五神に配し父子を区別する。『厳父莫大於配天』というのは武王を天に配せよという意味ではない、武王は明堂にあっても配としては斉一でない、緯書にも『后稷は天地の主、文王は五帝の宗』とある、一神を二重に祀るのは瀆れである。貞観・永徽の礼は専配としていたが顕慶以後から両配となった、今は高祖を圓丘・方沢に、太宗を南北郊に、高宗を五天帝に配すべき」と論じた。鳳閣舎人元万頃・范履冰らは「今の礼は昊天上帝以下五祀に高祖・太宗を共に配し孝を申べている、《詩》『昊天』章の『二后受之』、《易》の『薦上帝、配祖考』にも両配の義がある、高祖・太宗は既に五祀に配されているのでそのまま続け、高宗も次第に配していくべき」と論じ、以後、郊・丘の祭祀には三帝が並んで配されることとなった。
- 沈伯儀は国子祭酒・修文館学士を歴任し没した。