新唐書卷一百九十九 列傳第一百二十四 徐齊聃

徐齊聃

  • 徐斉聃は字を将道といい、湖州長城の人で馮翊に寄寓した一族、梁の慈源侯徐整の四世孫。八歳で文章を能くし太宗が試して佩びていた金削刀を賜った。弘文生に挙げられ曹王府参軍を務めた。高宗の代、潞王府文学・崇文館学士として皇太子の講義に侍し芳林門で修書に従事した。当時、伯母が帝の婕妤であったため恩恵による昇進を嫌い桃林令を求めて外任した。沛王侍読に召され司議郎に累進したがいずれも辞退、西台舎人に進んだ。
  • 咸亨初、突厥酋長の子弟が東宮に仕えることを許す詔に対し、徐斉聃は「氈裘冒頓の裔を左右に置くのは『恭慎威儀、以て有徳に近づく』『任官は賢才を、左右はその人を』との義に反する」と諫めた。また長孫無忌が讒言で死に家廟が毀された際、「斉献公(長孫無忌の父)は陛下の外祖、後嗣に罪があっても先廟を毀すべきでない。今、周忠孝公(武后の父武士彟)の廟はかえって規格を超えて飾られており、天下への示しがつかない」と述べ、帝はこれを容れ斉献公の官を復し長孫無忌の孫延にその祀を主させた。
  • 文章に優れ帝に愛され、皇太子・諸王への作文指導を任され、職務が繁多であったため隔日出仕が許された。禁中の事を漏らしたことで蘄州司馬に貶され、さらに欽州に流され享年四十四で没した。睿宗の代、礼部尚書を追贈された。子は徐堅。

齊聃子 堅

  • 徐堅は字を元固といい、幼くして聡明であった。沛王がその名を聞き紙を与え賦を作らせ驚嘆した。十四歳で孤児となり、成人すると寛厚な長者となった。秀才に挙げられ汾州参軍事から万年主簿に転じた。
  • 天授三(692)年、上書して「書経には五聴、令には三覆があり情実の見誤りを防ぐためのもの。近年、大逆罪は使者が調べて実情を得ればすぐ処刑してしまうが、人命は重く万一の誤りがあれば訴える術もなく族滅に至る、あまりに酷い。令の通り覆奏を経てこそ死者に恨みが残らない。また昔から罰は嗣子に及ばぬもの、卻芮の乱国に升(升進した子孫)が朝廷に列した例や、嵇康が戮されても子の嵇紹が難に殉じてから他の親族への疑いが晴れた例がある。今、選部は逆賊の親族を無服の者まで数十条にわたって責めている。詔書は『同堂親は京畿に任じず、緦麻親は侍衛を許さず』とするが、これ以上は禁じず寛大にすべき」と論じた。
  • 聖暦中、東都留守楊再思・王方慶が共に判官に招いた。王方慶は《礼》学に優れ、疑問を質すと徐堅の説明でしばしば新知見を得た。文章が典雅で楊再思は「鳳閣舎人の手本」と称した。徐彦伯・劉知幾・張説と《三教珠英》の編纂に従事し、当初総裁の張昌宗・李嶠が長らく着手しなかったのを徐堅と張説が実務を担い体裁を整えたことで完成させた。給事中に累進し慈源県子に封じられた。
  • 中宗が韋月将を即座に処刑しようとした際、徐堅は「盛夏は万物の生長期、秋まで待つべき」と上奏し多くの助命嘆願と共に処刑は杖死に減じられた。まもなく礼部侍郎兼修文館学士となった。
  • 睿宗即位後、太子左庶子兼崇文館学士・修史官として東海郡公に進み黄門侍郎に転じた。監察御史李知古が姚州渽河蛮を撃破し降した後、築城と輸賦徭を求めたことに対し、徐堅は「蛮夷は羈縻でこそ属すべきで中国の法をそのまま適用すべきでない、遠征は損の方が大きい」と反対したが聞かれず、李知古は詔により築城を強行し、蛮族の豪酋を誅そうとして李知古自身が殺され、姚・巂の道は数年間閉ざされた。
  • 太平公主が権勢を振るった頃、武攸暨がしばしば徐堅を招いたが応じず、妻が岑羲の妹であることを理由に機密を辞退し太子詹事に転じ「高位を求めているのではない、禍を避けているのだ」と語った。岑羲失脚の際も汚名を免れ絳州刺史に出た。以後何度か外任を経て秘書監・左散騎常侍に累進した。
  • 玄宗が麗正書院を集賢院に改めた際、徐堅は学士として張説の副として院事を知った。帝が集賢院で大酺を催した際、幔舎が百司の上座に設けられ張説が大きな榜を掲げてその寵を誇示しようとすると、徐堅は「君子はどうして人の上に出ることを誇るのか」とすぐ撤去させた。典故に博く、七度も撰次の高選に選ばれた。享年七十余で没し、帝は使者を送って弔い太子少保・謚文を追贈した。
  • 徐斉聃の伯母は太宗の充容、叔母は高宗の婕妤でいずれも図書・史学に明るく、世は徐堅父子を漢の班氏一族になぞらえた。

堅子 嶠

  • 子の徐嶠は字を巨山といい、開元中、駕部員外郎・集賢院直学士から中書舎人・内供奉・河南尹に進み慈源県公に封じられた。父子相次いで学士を務め、祖父・父・子の三代にわたり中書舎人を輩出した。