郎餘令
- 郎余令は定州新楽の人。祖父の郎穎は字を楚之といい、兄の郎蔚之と共に名を知られ、隋大業中、尚書民曹郎となり、蔚之は左丞に至った。煬帝は二人をまとめて「二郎」と呼んだ。武徳の頃、郎穎(楚之)は大理卿・常山郡公として李綱・陳叔達と律令を定め、山東への使者として竇建徳に捕らえられ刃を突きつけられても屈しなかった。賊平定後、老齢を理由に致仕し謚を平とした。
- 郎余令は学に博く進士に及第、霍王李元軌府参軍事となった。従父の郎知年も同じく王友として仕え、元軌は「郎家の二賢が共に府に入るとは、培塿(小山)が松柏の林になったようなものだ」と評した。幽州録事参軍に転じた際、仏僧が薪を積んで焼身しようとする噂に長史裴𤦺が観覧しようとするのを「人は生を好み死を厭う、彼が教義に背いて自らの欲を遂げようとするのを公が見に行くべきでない」と諫め、調べさせると実際に不正が発覚した。
- 孝敬太子(李弘)が東宮にいた頃、郎余令は梁元帝の《孝徳伝》に倣い《後伝》数十篇を撰して献じ太子に称賛された。著作佐郎に転じ没した。
郎餘令兄 餘慶
- 兄の郎余慶は清廉ながら法に厳しい吏であった。高宗の代、万年令として道に落し物を拾う者がいないほど治めた。御史中丞に累進し謙虚で下の者を尊重し、御史を席に招いて議論させた。吏部侍郎楊思玄が貴族ぶって選考対象者を無礼に扱ったため弾劾して免官させた。のち蘇州刺史に出て事に連座し交州都督に左遷された。
- 驩州司馬裴敬敷が郎余慶と旧知の間柄で、ある事件で郎余慶の寵愛する婢の父を鞭打ったところ、その婢の讒言で裴敬敷は獄中で死んだ。さらに郎余慶が節度なく財を貪ったため民が朝廷に訴え、十人の使者が調査したが真相を掴めなかった。最後に広州都督陳善弘が調査に当たると、郎余慶は朝廷での長年の経験と法律知識を恃んで陳善弘を軽んじ対応しなかった。陳善弘は怒り「法を弄ぶことではあなたに及ばないが、今日は天子の命であなたを裁く、わたしの力は十分だ」と告げ拷問しようとすると郎余慶は恐れて罪を認めた。高宗は瓊州に流す詔を下し、赦免の機に戻れることになったが朝廷はその暴虐を憎み春州に移した。
- 郎余慶が万年令であった頃、父の郎知運はその酷薄さを危ぶみ杖罰しようとしたが免れた。父は「国家がこの子を用いてしまった、どうしようもない」と嘆いた。御史中丞になったときも「郎氏は危うい」と嘆き、心労のうちに死んだ。郎余慶自身も結局貪残の罪で廃された。