張士衡
- 張士衡は瀛州楽寿の人。父の張文慶は北斉の国子助教。張士衡は九歳で母の喪に哀慕して礼を超え、博士劉軌思がこれを見て涙し「昔は親が子を教えぬものだが、わたしがあなたのために成し遂げよう」と《詩》《礼》を授けた。さらに熊安生・劉焯らに学び大義に通じた。隋で余杭令となり老いて帰郷した。
- 大業の兵乱で儒学は廃れたが、唐が興ると張士衡は郷里で講学を再開した。幽州都督燕王李霊夔が礼を尽くして招き師事した。太子承乾もその風を慕い招き、洛陽宮で太宗に謁見し食を賜り朝散大夫・崇賢館学士に抜擢された。
- 太子は同郷の張士衡に「北斉はなぜ滅んだか」と問い、張士衡は「高阿那瑰の凶険、駱提婆の佞、韓長鸞の虐、いずれも奴隷同然の器量の者を信任し重用したため、忠良は外で誅され骨肉は内で離反し、民は疲弊した。ゆえに周軍が国境に迫っても誰も戦おうとしなかった」と答えた。「仏事で福を求める効果は」との問いには「仏に仕えるとは清静仁恕にあり、貪婪驕虐な者がいくら財を投じても禍は減らない。善悪は必ず報い、影が形に従うように聖人はこれを詳しく説いている。君は仁を、臣は忠を、子は孝を為せば福祚は永く、反すれば禍が至る」と答え、太子の過失を諫める意図があったが受け入れられなかった。太子の廃位後、張士衡も官を辞し郷里に帰り没した。
- 張士衡の《礼》学の弟子で当時著名だったのは永平の賈公彦・趙の李玄植である。
附 賈大隱
- 賈公彦は太学博士で終え多くの章句を撰した。子の賈大隠は儀鳳中、太常博士となった。太常が仲春に太廟で瑞祥を告げた際、高宗が「いつの世代からの慣例か」と礼官に問うと、賈大隠は「古は祭祀を四季の初めに行い薦めは仲月に行った。近世は元日に瑞を奏し二月に廟へ告げるが、告げるには必ず薦めが本来伴うべきで、本来の時期を得ていない」と答えた。中書舎人に累進した。垂拱中、博士周悰が武氏廟を七室、唐廟を五室にして諸侯並みにする案を出した際、賈大隠は「秦・漢の母后が称制した例に古を乱す越礼はなかった、周悰の案は国廟の数を損ない大義に悖る、従うべきでない」と反対、武后もやむなく表面上受け入れる形をとった。当時の人々は賈大隠の沈着な正論を大臣の器と称した。礼部侍郎で終えた。
附 李玄植
- 賈公彦の学を継いだ李玄植はさらに王徳韶に《左氏春秋》を、斉威に《詩》を学び諸家の書に通じた。貞観年間、弘文館直学士となる。高宗にしばしば召され方士・僧侶と講論したが、帝の暗弱を憂い諫めても改まらなかった。事に連座して巴令に左遷され任地で没した。