張後胤
- 張後胤は字を嗣宗といい、蘇州昆山の人。祖父の張僧紹は梁の零陵太守、父の張沖は陳の国子博士から隋に入り漢王李諒の并州博士となった。
- 張後胤は元服したばかりで学識家風を継ぎ、高祖が太原を鎮めていた頃、客分として招かれ秦王に経を授けた。義寧初、斉王文学として新野県公に封じられた。武徳中、員外散騎侍郎に抜擢され邸宅を賜った。
- 太宗即位後、燕王諮議として王の入朝に従い引見された。かつて太原にいた頃、太宗が「隋の運が尽きようとしている、天下を得るのは何氏か」と問うと張後胤は「公の家の徳業は天下の心を得ている、天に従い動けば河北から関右まで長駆できる」と答え、太宗は「そのことは忘れていない」と語り燕王府に近い池を賜った。「今日の弟子ぶりはどうか」と太宗が問うと、張後胤は「昔孔子の門人三千人でも子男の位に達した者はいない、臣が一人を輔けただけで王が天下を得たのだから、臣の功は先聖を超える」と答え、太宗は笑い群臣に《春秋》で酬答させた。帝は「朕は昔あなたから大義を学んだ、今も覚えている」と語り、張後胤は「陛下は生まれながらの知恵者、臣が天の功を己の力と僭称したのは罪です」と頓首した。帝は大いに喜び燕王府司馬に転じさせた。睦州刺史を経て致仕を願うと、帝はその強壮ぶりから望む官を問い、張後胤は謝辞したが「朕はあなたから経を学び、あなたが朕に官を求めるのに何の疑いがあろう」と説得され国子祭酒を望んで授けられた。散騎常侍に転じ、永徽中、致仕して金紫光禄大夫を加えられ朔望に朝賀し禄賜と防閣は旧のままとされた。享年八十三で没し礼部尚書・謚康を追贈され昭陵に陪葬された。
後胤孫 齊丘
- 孫の張斉丘は監察御史・朔方節度使を歴任、東都留守で終え謚を貞献とした。子の張鎰には別伝がある。