新唐書卷一百九十八 列傳第一百二十三 朱子奢

朱子奢

  • 朱子奢は蘇州呉の人。同郷の顧彪に《左氏春秋》を学び文辞に優れた。隋大業中、直秘書学士となったが天下大乱で病と称し帰郷、後に杜伏威に従い入朝し国子助教に任じられた。
  • 太宗貞観初、高麗・百済が共に新羅を伐ち連年戦が続いた際、朱子奢は員外散騎侍郎を仮授され三国の憾みを解く使者となった。威儀に優れ夷人にも尊畏された。両国は謝罪の上書をし厚く贈り物をした。出発前、帝は「海夷は学を重んじる、大義を講じよ、ただし贈り物は受けるな、帰れば中書舎人にする」と戒めたが、高麗で《春秋》の題を講じた際に美女を受け取ってしまい、帝の叱責を受けながらも才を惜しまれ、散官のまま国子学に直し諫議大夫・弘文館学士に転じた。
  • 武徳の頃、太廟の享祀は四室に留まっていたが、高祖崩御に伴う祔祭の議論で朱子奢は「漢の丞相韋玄成は五廟を、劉歆は七廟を奏し、鄭玄は玄成説を、王粛は歆説を支持し歴代の廟議は一致しない。天子は七廟、諸侯は五廟が礼の正道であり、天子と子・男が同格では厚薄の別がなくなる。古の制に倣い七廟とし、親盡きれば王業の基たる祖を太祖とし、太祖の室は空けて永遠に備え、逓遷させるべき」と建言した。尚書省は「《春秋》以来、天子七廟・諸侯五廟・大夫三廟・士二廟は不変の法」として親廟六を建てることを奏し、詔で許され弘農府君・高祖の神主を六室に祔した。高祖崩御後、礼部尚書許敬宗は「弘農府君廟は毀すべき」と論じ、玄成説では毀廟の主は瘞めるものだが、天下が常に宗仰する神を瘞めるのは道理に合わず、晋の范宣は別廟を、あるいは天府(瑞物の蔵)に納める説もあると紹介した上で「唐家の宗廟は共殿異室、右を上位とする。遷主を右夾室に納めれば尊きを保ちつつ祈禱も絶えない」と論じ、詔でこの説が採用された。七廟説の淵源は朱子奢にある。
  • 帝が「起居注に善悪を記録させ朕が見て得失を知りたい」と詔した際、朱子奢は「陛下に過失なくとも見られることを前提にすれば、後世の史官に禍を招く恐れがある。史官が保身のために事実を書かなくなれば、千年後に何が伝わろうか」と諫めた。
  • 池陽令崔文康の事件で御史の枉法を訴えた櫟陽尉魏礼臣が、逆に上書不実で死罪に問われかけた際、朱子奢は「律には上書不実の定罪があるが、死罪では自新の機会がない。天下が『上書すれば罪を得る』と恐れて誰も直言しなくなる」と諫め、詔でこれを容れた。
  • 朱子奢は人柄が温和で議論に長け経誼を引いて飾った。宴席で帝が群臣に論難させる際も恩礼を厚く受けた。官にあって没した。