顏師古
- 顔師古は字を籀といい、瑯邪臨沂の出。祖父の顔之推は北斉から北周に入り隋で黄門郎で終え関中に居住し京兆万年の人となった。父の顔思魯は儒学で名高く、武徳初、秦王府記室参軍事となった。
- 顔師古は博覧強記で故訓学に精しく文章に優れた。仁寿中、李綱の推薦で安養尉に任じられた際、尚書左僕射楊素が若さゆえの不安を「割鶏に牛刀を用いず、なんとかなりましょう」と答え、後に治績で評判を得た。薛道衡が襄州総管であった頃、旧交から文章を批評してもらう関係にあったが、職を失い長安で困窮し教授を生業とした。
- 高祖入関後、長春宮で謁見し朝散大夫・敦煌公府文学を経て中書舎人として機密を専掌した。軍国の事務が多い中、詔令はことごとくその手を経て、冊奏の巧みさで並ぶ者がなかった。太宗即位後、中書侍郎・瑯邪県男に封じられたが母の喪で辞し、喪明け後復官、のち公事に連座して免官された。
- 帝が《五経》の伝写の誤りを嘆いた際、顔師古に秘書省で考定させると多くが正された。完成後、諸儒に議論させると各自の学説に固執して反論したが、顔師古は晋・宋の旧文を引いて的確に答え、皆感服した。通直郎・散騎常侍を加えられ、帝はこの定本を天下に頒布させ学者はこれを頼りとした。
- 秘書少監として校正事業を専掌、古い篇や難読の文字も本源を突き止めた。ただし門閥の高い者を先に用い商人・富家の子まで選抜に加えたため素朴な議論の反発を招き郴州刺史に左遷された。赴任前に帝がその才を惜しみ「あなたの学は称賛に値するが、親に事え官に居る態度については聞かぬ、今回の左遷は誰の責任か。かつての任用を忘れず留任させるので今後は自戒せよ」と諭し留任させた。
- 顔師古は性格が厳しく傲然として交際を好まなかったが才能を恃み早くから重用され期待は高かった。度重なる叱責で昇進が滞ると意気消沈し門を閉ざして賓客を謝絶、放縦な暮らしに転じた。古い書画・器物・書帖を多く収集し愛好した。《五礼》の編纂に加わり子に爵位を進め、太子承乾のために班固《漢書》に注釈をつけて献上し物二百段と良馬を賜り、当時「杜征南(杜預)・顔秘書は左丘明・班孟堅の忠臣」と評された。
- 泰山封禅の議論で諸説が対立する中、顔師古は「臣は貞観十一年に《封禅儀注書》を撰し当時の諸儒に適中と評された」と奏し、多くがこれに従った。秘書監・弘文館学士に累進し、貞観十九(645)年、遼東遠征に従い道中で病没、享年六十五、謚を戴とした。
- その注釈《漢書》《急就章》は当時大いに評判となった。永徽三(652)年、子の顔揚廷が符璽郎として顔師古撰《匡謬正俗》八篇を献上した。
- 父の顔思魯と母の不和を顔師古がしきりに諫めても父は聞かず、心の隔たりが残ったため後世の帝もこれを話題にした。
師古弟 相時
- 顔師古の弟顔相時は字を睿といい、学識で知られた。天策府参軍事から貞観中、諫議大夫に累進し諫臣の風があった。礼部侍郎に転じたが病弱で、兄の死を悲しみのあまり後を追うように没した。
師古叔 遊秦
- 顔師古の叔父顔遊秦は武徳初、廉州刺史に累進し臨沂県男に封じられた。劉黒闥平定直後で人心が荒れていたが、顔遊秦の着任後は礼譲が大いに行われ里に歌われた。高祖は璽書で労った。鄆州刺史で終え《漢書決疑》を撰し顔師古も多くその説を採った。