孔穎達
- 孔穎達は字を仲達といい、冀州衡水の人。八歳で就学し日に千余言を暗誦、《三礼義宗》を暗記した。成長すると服虔《春秋伝》・鄭玄《尚書》《詩》《礼記》・王弼《易》に通じ、文章に優れ暦法にも通じた。同郡の劉焯を訪ねた際、初めは礼遇されなかったが疑問を質すと大いに畏服させた。
- 隋大業初、明経の高第に挙げられ河内郡博士となった。煬帝が天下の儒官を東都に集めた際、国子秘書学士と論議させると孔穎達が最年少ながら随一となり、老儒たちは恥じて密かに刺客を放ったが楊玄感の家に匿われて難を逃れた。太学助教に補され隋の乱では虎牢に避難した。
- 太宗が洛陽を平定すると文学館学士に招かれ国子博士に累進。貞観初、曲阜県男に封じられ給事中に転じた。即位したばかりの太宗にしばしば忠言を進め、「孔子は『能をもって不能に問い、多をもって寡に問い、有れど無きが如く、実あれど虚しきが如し』と述べたが、これはどういう意味か」と問われると「聖人が謙譲を人に教えたもの。己が能であっても不能の人に問い、己が多くとも少ない人に問う。内に道があっても外に無きが如くふるまう。これは匹夫だけでなく君主の徳にも通じる。ゆえに《易》は『蒙以て正を養う』『明夷以て衆に蒞む』と言う。もし尊極の位に居て聡明を誇り才を恃んで放縦になれば、上下は通ぜず君臣の道は乱れる。古来の滅亡はすべてこれによる」と答え、帝は称賛した。国子司業を経て太子右庶子兼司業となった。
- 太子(承乾)に《孝経章句》を撰させ、その文を通じて箴諷を尽くさせた。帝は孔穎達が太子の失を諫め続けたことを知り黄金一斤・絹百匹を賜った。祭酒に進み東宮で侍講した。帝が太学に行幸し釈菜を観た折、講経を命じられ終えると《釈奠頌》を上呈し詔で褒められた。のち太子の不行跡が続いても孔穎達は諫言をやめず、乳母に「太子も成人した、面と向かって折檻すべきでない」と諭されても「国の厚恩を受けた身、死んでも悔いない」と応じ厳しく諫め続けた。致仕後に没し昭陵に陪葬され太常卿・謚憲を追贈された。
- 孔穎達は顔師古・司馬才章・王恭・王琰と共に《五経》義訓百余篇を撰し《義賛》と号したが、詔で《正義》と改められた。諸家の説を包含し詳博であったが誤りや冗漫もあり、博士馬嘉運がその失を正して激しく論争した。詔で再び裁定させたが未完に終わった。永徽二(651)年、中書門下と国子三館の博士・弘文館学士に考正させ、尚書左僕射于志寧・右僕射張行成・侍中高季輔が増削を加えてようやく公布された。
- 孔穎達の子孔誌は司業で終え、孔誌の子孔恵元も学に励み寡黙で司業となり太子諭徳に至った。三代続いて司業を務めたことは世に称された。
附 王恭
- 王恭は滑州白馬の人。篤学で郷里に教授し弟子数百人を数えた。貞観初、太学博士に召され《三礼》を講じ別に《義証》を著し精博であった。当代の大儒蓋文懿・蓋文達も講義で必ず王恭の説を挙げた。
附 馬嘉運
- 馬嘉運は魏州繁水の人。若くして沙門となり後に儒学に転じ論議に長じた。貞観初、越王東閣祭酒を経て白鹿山に隠棲し各方から弟子千人が集まった。十一年、太学博士・弘文館学士に召され、孔穎達《正義》の煩瑣な点を鋭く指摘して当世の諸儒に精緻さを認められた。高宗が太子の頃、崇賢館学士として洗馬秦暐と共に侍講し、国子博士で終えた。