賈敦頤
- 賈敦頤は曹州冤句の人。貞観年間、幾度も州刺史を歴任し廉潔さで知られた。入朝の際は常に家族を伴い一乗の車で行き、痩せ馬に縄の轡をつけていたため誰も刺史とは思わなかった。洛州司馬時代、公務の連座で獄に下されたが太宗が赦免を望むと有司が反対、帝は「人に過ちなきはない、過度な者だけ罰する。すべて法で縛れば臣が君に仕えられなくなる」と述べ許された。瀛州刺史に転じ滹沱・滱の二水の氾濫で家屋が浸水する地域に堤を築き民を救った。弟の賈敦実も饒陽令として清静な政を敷き、大功の親等は本来同官に就けない規定があったが兄弟の治績が並外れて優れていたため特例で移されなかった。永徽中、洛州に転じ、田を規定以上に占有する豪族三千余頃を没収して貧民に分配、奸を暴いて下の者を欺かせなかった。任地で没した。
附 楊德幹
- 咸亨初、賈敦実が洛州長史として寛厚な統治を続ける一方、洛陽令楊徳幹は苛烈に杖殺で威を示したため、賈敦実は「政治は民を養うためのもの、生命を損なうことが多すぎては尊いとは言えない」と諭し、楊徳幹はやや緩めた。洛陽の人々が賈敦頤のために市の傍らに碑を立て、賈敦実が太子右庶子となった際にも並べて碑を立て「常棣碑」と呼ばれた。懐州刺史として美績を残し、永淳初、致仕。病篤い際、子孫が医者を迎えようとしても「老いを治せる名医など聞いたことがない」と拒み享年九十余で没した。子の賈膺福は左散騎常侍・昭文館学士となったが竇懐貞の党に連座して誅された。
- 楊徳幹は沢・斉・汴・相の四州刺史を歴任し威厳を示し「三斗の炭を食らうとも楊徳幹には会うな」と語られた。天授初、子の楊神譲が徐敬業の挙兵に加わり共に誅された。