田仁會
- 田仁会は雍州長安の人。祖の田軌は隋幽州刺史・信都郡公、父の田弘は爵を継ぎ陵州刺史に至った。田仁会は制挙に及第し左武候中郎将に累進。太宗の遼東遠征中、薛延陀が数万騎で河内を襲った際、詔で執失思力と共に撃破し数百里追撃、延陀を捕らえかけるほどの功を挙げ璽書で称された。
- 永徽中、平州刺史として大旱に自ら暴露して祈ると大雨が降り豊作となり、民は「父母がわたしを育てるように田使君が誠を尽くし天に届いた」と歌った。五度昇進して勝州都督となり、山賊を掃討して道の安全を回復した。太府少卿を経て右金吾将軍。得た俸禄の余剰は必ず官に納め、法に厳しく親旧にも容赦せず、京師では貴賤ともにこれを憚った。人を惑わす巫を辺境に流すなど不正を許さず、右衛将軍で致仕を願い享年七十八で没し謚を威とした。
田仁會子 歸道
- 子の田帰道は明経に及第し通事舎人内供奉・左衛郎将に累進。突厥の默啜が和を求めた際、将軍閻知微が可汗の号を冊立する使者となった。默啜の使者への過度な礼遇を諫め「虜は久しく背いてきた、悔い改めて入朝するなら天子の意向を待つべき」と述べたが聞かれなかった。默啜が単于都護府に至った際、田帰道が司賓卿代理として慰労に赴き、六胡州の割譲を拒まれた默啜に捕らえられ殺されかけたが動じず理を説き、默啜も悔い、粟三万石・彩五万段・農具三千と婚姻の約束が示されて田帰道は礼をもって送還された。帰還後、默啜の不臣の状を詳細に報告して辺境防備を求め、後に默啜が実際に反したため夏官侍郎に抜擢された。
- 左金吾将軍・司膳卿として千騎を率い玄武門を守衛。桓彦範らが張易之兄弟を誅した際に関与を求められず、騎兵の招集を拒んだため彦範に誅されかけたが理を主張して免れ、私邸に戻った。しかし中宗はその節操を評価し太僕少卿に召し、殿中少監・右金吾将軍を歴任、没して輔国大将軍・原国公を追贈され謚を烈とし帝自ら祭文を作った。
田歸道子 賓庭