薛大鼎
- 薛大鼎は字を重臣といい、蒲州汾陰の人。父の薛粋は隋の介州長史として漢王李諒の反乱に連座し誅された。薛大鼎は官奴に落とされ辰州に流されたが戦功で復帰した。高祖の兵興に際し龍門で謁見し、龍門の防衛を解いて永豊倉に拠り天下の要地を示す策を説いたが、諸将が既に河東攻撃を決めていたため採用されず、大将軍府察非掾に任じられた。山南道副大使として屯田を開き倉廩を実らせ、趙郡王李孝恭の輔公祏討伐では饒州道軍師として彭蠡湖を渡る功を挙げ浩州刺史に累進、のち滄州に移った。
- 無棣の渠が長く塞がれていたのを開通させて海に通じさせ商人の往来を活発にし、里民の歌に「新溝が通じ舟が利す、滄海に属し魚塩が至る、昔は徒歩、今は駟馬、美しきかな薛公の徳」と詠われた。長蘆・漳・衡の三渠も疏通させ水害を防いだ。当時、鄭徳本が瀛州、賈敦頤が冀州で同じく治績を挙げ「鐺脚刺史」(河北の名治)と称された。永徽中、銀青光禄大夫・荊州大都督長史に累進し没して謚を恭とした。
薛大鼎子 克構
- 子の薛克構は見識に富み、永隆初、戸部郎中に累進。族人の黄門侍郎薛顗が弟の薛紹を太平公主に娶らせようとした際、意見を求められ「傲慢な妻を家に容れるのは善士の嫌うところ、淑徳の女を娶らせるのが君子の道」と答えたため薛顗は阻めなかったが、薛紹はのち誅された。父の喪に出仕を強制された陳思忠が客の弔問を辰日ゆえに断った際「事親の礼は生前避けるべきだが、孤となった今は避けるべきでない」と諭し世に賞賛された。天授中、麟台監に累進したが、弟が酷吏に陥れられたことに連座し嶺南で死んだ。