新唐書卷一百九十七 列傳第一百二十二 李素立

李素立

  • 李素立は趙州高邑の人。曾祖の李義深は北斉で梁州刺史、父の李政藻は隋の水部郎として淮南への使いの途中盗賊に殺された。武徳初、監察御史に抜擢され、死罪に当たらない罪人を高祖が処刑しようとした際「三尺の法は天下の共有物、一度揺らげば人は手足の置き場を失う。事業を始めたばかりの今、なぜ天子の膝下でまず刑書を棄てるのか」と諫め、帝はこれを容れ特別に目をかけた。父の喪で辞職した後、七品の清要職への任命が検討され、雍州司戸参軍の案には帝が「要職だが清くない」、秘書郎の案には「清いが要職でない」と評し、結局侍御史とした。貞観中、揚州大都督府司馬に転じた。
  • 突厥・鉄勒部が内附すると瀚海都護府を置き李素立に統べさせた。闕泥熟の別部が辺境を脅かした際、兵を用いず使者で降伏を諭すと夷人はその恩恵に感じ馬牛を献じたが、酒一杯だけを受け残りは返した。屯田を開き署を整えると異民族は威に服した。太僕・鴻臚卿を歴任し高邑県侯に累封。綿州刺史に出た後、永徽初、蒲州に転じる際、余った蓄えと什器をすべて州に置き家財のみで赴任、間もなく没し高宗は特別に一日廃朝し謚を平とした。

孫至遠

  • 孫至遠はもとの名を鵬といった。父の李素立(誤記に見えるが原文のまま)が使者として出立する際「昔は事にちなんで子に名をつけた、この役目で子孫の名を定めよう」と語りその名を付けたという。若くして聡明で《尚書》《左氏春秋》を治め、杜預の《釈例》を見ずして《編記》を著し大筋が一致した。また《周書》を撰し后稷から赧王までを伝記とし、令狐徳棻はこれを良史と評した。蒲州参軍から乾封尉に累進、上元年間、制策で高第となり明堂主簿を授かった。喪により辞した後、鴻臚主簿に転じ戎狄の簿籍を整理して高宗に喜ばれ監察御史裏行に抜擢された。貴幸に忤らい外遷したが、のち司勲・吏部員外郎中を歴任、天官侍郎として選事を知ると、令史の受賄を嫌い多くを罷免し吏は粛然とした。ある人物「王忠」が放免されるべきところ吏が誤って「士」姓と記したため別人に成りすまそうとした事件を、名簿に「士」姓の者がいないことから看破した逸話もある。李昭德の推薦で選事を知ったが、私的な感謝の訪問を勧められても「公が公用でわたしを用いたのに、私情で謝すのはおかしい」と拒んだため李昭德に恨まれ壁州刺史に左遷され、享年四十八で没した。
  • 父の孫休烈も文才があり郪令で終え享年四十九であった。世は父子ともに才を活かしきれなかったと嘆いた。孫至遠は桓彦範の賢を強く推し、まだ若かった盧従願を高く評価し、弟の孫従遠が貴顕になると予言し的中させた。蘇頲は孫至遠の甥にあたり、幼くして母を失った蘇頲を厚く世話し娘を娶らせた。兄弟仲良く寡姉にも礼を尽くし、その徳は世に称された。
  • 孫従遠は清廉で学があり、神龍初、中書令・太府卿を歴任し趙郡公に累封、謚を懿とした。兄弟いずれも徳望が並んだ。また従父の孫遊道も武后時代に冬官尚書・同鳳閣鸞台三品となった。

孫至遠子 畬

  • 孫至遠の子孫畬は字を玉田といい、若くして聡明であった。汜水主簿として事に鋭敏で、身分の低い者でも一度会えば姓名と職業を記憶したという。黜陟使路敬潜がその清廉を推薦し右台監察御史裏行に抜擢、台の廃止後は監察御史となり国子司業に累進。母への孝行が篤く、代々同居し長幼の礼を守った。妻を亡くした折も病の母に悲しみを知らせぬよう配慮し、母の死には毀れるほど悲しんで没した。
  • 孫従遠の子の孫巌は十余歳のとき、中宗の明堂祭祀で近臣の子として籩豆を執る役を務め、進退が礼にかなっていたため右宗衛兵曹参軍に任じられた。洛陽尉を経て兵部郎中に累進、扶風の兵を発して姚州・巂州の乱に応じ、諫議大夫・贊皇県伯に封じられ、兵部侍郎で終えた。草隷に優れ、参軍時代に作った裘を生涯着続けたという。