新唐書卷一百九十 三劉成杜鍾張王 劉建鋒・馬殷・成汭・杜洪・鍾傳・劉漢宏・張雄・王潮・劉知謙
劉建鋒
- 劉建鋒は字を鋭端といい、蔡州朗山の人。忠武軍の部将として、孫儒・馬殷とともに秦宗権に仕えた。孫儒が敗れると、劉建鋒と馬殷は敗残兵をまとめて江西へ転じ、七千の兵を得て劉建鋒を主に推し、馬殷を前鋒、張佶を謀主として洪州・虔州など数州を攻略、やがて十余万の勢力となった。乾寧元(894)年、潭州を取って武安節度使鄧処訥を殺し、自ら節度留後を称して朝廷に上表、検校尚書左僕射・武安軍節度使に任じられた。
- 建鋒は志を得ると酒に溺れて政務を顧みなくなった。御者の陳贍の妻が美しく、これに通じたことから陳贍の怒りを買い、鉄撾で撃たれ喉を斬られて死んだ。衆は張佶を推したが固辞し、馬に蹴られて左股を傷めたため「わたしは主に非ず」と告げ、当時邵州を攻めていた馬殷を迎えることとなった。
馬殷
- 馬殷が至ると張佶はその謁見を受け、諸将吏を率いて馬殷を留後に推した。朝廷は検校太傅・潭州刺史を授けた。馬殷は成汭・楊行密・劉隠がいずれも士を養って覇を図っているのを見て、部下の高郁に「四隣に厚く贈って国境を固めたい」と諮ると、高郁は「荊南は弱く恐れるに足りない。淮南は仇敵で援けにならない。まず京師に邸を置いて朝貢し、天子の使者を迎えて四方に威を示し、その後に不服の者を討てば覇業は成る」と答えた。馬殷はこれを容れ、朱全忠と結んで湖南節度兵馬留後を授かった。高郁はまた鉛鉄銭の鋳造(銅銭一枚に対し十枚換算)や、茶の専売(「八床主人」と号する豪戸に茶を管理させる)を進言し、歳入は数十万に及んで財政は豊かになった。
- 邵・衡・永・道・郴・連の六州を収め、桂州を攻めて留後劉士政を捕らえた。諸城は次々降り、昭・賀・梧・象・柳・宜・蒙などの州も得た。さらに容管を攻め、寧遠節度使龐巨曦を捕虜とし、その兵と財貨を奪った。昭宗が鳳翔で難に遭ったとき、密詔により馬殷と楊行密に汴州(朱全忠)攻撃を命じたが、馬殷の兵はついに出動しなかった。
- 弟の馬賨は沈勇で書史に通じ、孫儒の賊軍から楊行密の黒雲軍使となり、銭鏐との戦で数々の功を立てた。楊行密が兄(馬殷)に返そうとすると、馬賨は「湖南はいつ亡ぶとも知れぬが、公への恩義のため去るに忍びない」と述べ、行密は物を持たせて送り出し、両国の交易通好を頼むよう告げた。馬賨は帰って馬殷の副となり、行密との連和を勧めたが、馬殷は朱全忠を恐れて実現しなかった。
- 馬殷と劉建鋒は同郷で、秦宗権の散らばった部下は皆酷烈さを誇り、当時「蔡賊」と呼ばれた。
成汭
- 成汭は青州の人。若くして行状悪く、酒に酔って人を殺し出家して逃れた。のち蔡賊に投じて賊帥の仮子となり、名を郭禹と改めた。江陵で戍卒となったが逃げて盗賊となり、荊南節度使陳儒に降って裨校となった。のち張瓌が陳儒を幽閉し、郭禹の凶暴さを恐れて殺そうとしたため、千人を率いて峡中に逃げ込み、夜に蛇が周囲を取り巻いた奇瑞から祈誓し、帰州を襲って自ら刺史を称した。流亡民を招き寄せ兵三千を得、秦宗権の旧将許存が投じてきたため彼に兵を与え、荊南の部将牟権を清江で討たせて捕らえ、また王建肇を破った(建肇は黔州へ逃亡)。昭宗は郭禹を荊南節度留後に任じ、ここで名を汭と改め本姓成に復した。
- 秦宗権の残党常厚が夔州を攻めたとき、西川節度使王建の軍と夔州刺史毛湘の軍が呼応し、常厚は白帝に駐屯した。成汭は許存とともにその間隙を突いて攻め、両軍が汭を辱めたため恥じて誓い、許存が常厚の営を夜襲して破った。常厚は綿州へ逃げた。韓楚言の妻李氏は夫が軍を辱めたことで自ら首を刎ね三子を殺した後自刎した。成汭はその烈しさを悼んで礼葬し「烈女」と表した。夔州は司馬劉昌美に守らせ、許存に雲安まで進撃させると建の将は皆逃走した。
- 黔州にいた王建肇を趙武・許存に攻めさせて逃走させ、趙武を留後、許存を万州刺史とした。許存が不満を抱いたため成汭は将を遣わして襲わせ、許存は夜に堞を越えて逃げ、王建肇とともに王建へ降った。
- 成汭は吏治に明るく、獄を録して情を尽くした。墊江の賊が県令を殺した事件では、真犯人の主簿を推理で暴いた話が伝わる。統治は次第に整い、民籍は当初千に満たなかったが二年足らずで一万余に増えた。朝廷は数度石に功を刻むよう詔したが固辞した。当時、鎮国節度使韓建も治績で知られ「北韓南郭」と称された。累進して検校太尉・中書令・上谷郡王となった。雲安の塩の専売権を鹽鐵司から奪って独占し、五万の兵を養った。晩年、妻の父の讒言によって諸子を皆殺しにし、嗣が絶えた。澧・朗の二州はもと荊南の隷州であったが雷満に奪われ、成汭が返還を求めても宰相徐彦若は許さず、彦若を面罵して恥をかいた。晩年は術士を好み、丹薬を服して瀕死になったこともある。
- 天復三(903)年、帝の詔で楊行密が鄂州の韓を包囲した際、朱全忠は成汭・馬殷・雷彦威に呼応させようとした。成汭は巨艦を整えて自ら出陣したが不吉の兆に迷い、部下楊師厚の説得でようやく進んだ。雷彦威が江陵を奇襲し、諸将は私心から戦意を失った。楊行密の将李神福は成汭軍の首尾断絶を見抜いて君山で撃破、船を焼いて大潰させ、成汭は投江して死んだ。天祐年間、朱全忠は成汭の死を国事に殉じたものとして杜洪とともに廟を立てるよう求めた。
杜洪
- 杜洪は鄂州の人で、もとは俳優。乾符末、黄巣の乱で永興の民が挙って盗賊となる中、刺史崔紹が土団軍を組織すると賊は侵さなくなった。中和末、崔紹の死後、杜洪は募兵三千で鄂州を守り、功により岳州刺史も逐って併せ、光啓二(886)年、周通の攻撃で審中(路審中)が去った隙に鄂州に入り、自ら節度留後を称し僖宗に本軍節度使を認められた。
- 永興の吳討・駱殷らも土団出身で軍紀は荒かった。杜洪は朱全忠に付き東南の貢路を絶った。乾寧初、自ら出兵し楊行密に援軍を求めると、朱延壽が助けて駱殷の地を得た。昭宗の使者が武昌を通るたび杜洪は皆殺しにした。楊行密軍が鄂州を包囲、杜洪は汴(朱全忠)に救援を求めたが果たせず、劉存に鄂州を陥とされ、曹延祚とともに捕らえられた。行密は「逆賊に与して主を弑した仇である」と責めたが、杜洪は「朱公に背けなかった」と謝し、曹延祚とともに揚州の市で斬られた。劉存が鄂州を守り、行密の死後は馬殷がその地を取った。
鍾傳
- 鍾傳は洪州高安の人。行商を業としていたが、王仙芝の乱に乗じて衆を集め自ら高安鎮撫使を称した。柳彦璋が撫州を守れないと見て入って占拠、朝廷から刺史を授かった。中和二(882)年、江西観察使高茂卿を逐って洪州を得た。撫州民危全諷が離間して州を奪い、弟の危仔昌に信州を守らせた。僖宗は鍾傳を江西団練使に、のち鎮南節度使・検校太保・中書令・潁川郡王に進め、さらに南平に移した。
- 鍾傳が撫州を囲んだとき天火で城が焼け、諸将は急襲を求めたが「人の危急に乗じるべきでない」と留まると火はやみ、危全諷は罪を謝し娘を鍾傳の子匡時に嫁がせた。匡時は袁州刺史となり馬殷を攻め、彭玕は吉州刺史となり重用された。
- 広明以後、州県が郷貢を行わなくなる中、鍾傳だけは毎年士を推挙して郷飲酒礼を行い、士人が遠方から集まった。若い頃虎に襲われて格闘した逸話があり、貴人となってからは「わたしの暴虎の真似をするな」と子らを戒めた。天祐三(906)年に没した。
- 子の匡時が節度観察留後を自称。次子の匡範は江州刺史であったが兄の立場を恨み、淮南に付いて兄が汴人と結び揚州を図っていると讒言した。楊渥が秦裴に匡時を攻めさせ洪州を三月囲み、陥落後匡時は許されたが司馬陳象は斬られた。
- 彭玕は援けを失うと馬殷に厚く結び、《左氏春秋》に通じ西京の《石経》を求めるなど文人を厚遇し、士人が多く投じた。
- 危全諷は匡時擁立を喜んで機を窺ったが、楊渥の勢いに阻まれ、亡命した王茂章の評に諸将の未熟さを衝かれた末、楊氏に併合された。
劉漢宏
- 劉漢宏はもと兗州の小吏で、王仙芝を討つ軍から輜重を奪って叛いた。乾符末、江陵を略奪して家々を焼き払った。都統王鐸の招降を受け宿州刺史とされたが恩賞に不満を抱いた。浙東観察使柳瑫が失脚するとその後任となり、僖宗の蜀への貢納が続いたため義勝軍・節度使を授かった。七州を有し驕り、「天下が乱れるとき天子となるのはわたしだ」と語るなど誇大な言動が多かった。
- 中和二(882)年、弟劉漢宥に杭州を攻めさせたが董昌に敗れ、七万の兵を再び送ったが銭鏐に破られた。翌年、洞獠と結んで董昌を攻めるも、銭鏐の反撃で大潰し、弟劉漢容と将辛約を斬られた。当時、明州・処州・婺州・台州・温州の各刺史が独立し、温州の朱褒が最強で艦戦の準備をしていた。帝は焦居璠を送って和睦を促したが応じなかった。
- 光啓二(886)年、銭鏐は越州を攻め、朱褒の艦を焼いて豊山に進駐した。施堅実は降り、劉漢宏は台州へ逃げるも銭鏐が母と妻を屯所で斬った。杜雄が軍を酒宴で酔わせ、劉漢宏を捕らえて董昌に献じた。董昌は市で斬らせ、「わたしを裏切った」と罵った。
張雄
- 張雄は泗州漣水の人。同郷の馮弘鐸とともに武寧軍の偏将であったが、節度使時溥に疑われ三百の兵で江を渡り蘇州を得た。次第に勢力を増し、戦艦千余・兵五万を擁して「天成軍」を自称した。
- 鎮海節度使周寶が敗れて常州に逃げると、高駢の将徐約を誘って蘇州を譲らせた。張雄は別将趙暉に上元を守らせ、周寶の兵の多くが暉に降って数万に膨らんだ。上元を西州と称し、台城を府としようと僭上な仕度をした。
- 楊行密が揚州を囲んだとき、畢師鐸が財宝で張雄を誘い連和させた。張雄軍は東塘に進駐し、飢饉に苦しむ揚州城内へ暴利で米を売って利を得ると、戦わず引き上げた。趙暉が江道を剽掠したため討ち滅ぼし、上元に自ら駐屯した。大順初、上元は昇州とされ張雄が刺史に任じられたが、間もなく没した。人々は張雄を慕って廟を建て、馮弘鐸が刺史を継いだ。
馮弘鐸(張雄の後継)
- 馮弘鐸は騎射に優れ儒者のように振舞った。楊行密が淮南を得た後は好誼を結んだが、潤州奪取を謀って行密の田頵に警戒された。天復二(902)年、州に怪異が続き「州はまもなく主が変わる」と噂され、馮弘鐸は鍾傳討伐と称して実は田頵を襲おうとしたが、行密に漏れ、田頵に曷山で大敗した。行密は自ら迎えて厚遇し、淮南節度副使とした。
徐約(張雄の後継)
- 徐約は曹州の人。蘇州刺史に任じられたが、銭鏐の弟銶に攻められ、士民を鏨で「南都に戦わん」と誓わせて奮戦した末、海へ入って死んだ。銭鏐は沈粲に蘇州を守らせた。
王潮
- 王潮は字を信臣といい、光州固始の人。僖宗の蜀入りの頃、光州で王緒・劉行全が群盗を率い、王潮は県吏から軍正に抜擢された。緒は秦宗権に付いたが、貢納の遅れを責められて南へ移り、汀州・漳州を得た。糧が乏しいため老幼を連れる者は斬るとの軍令が出たが、王潮兄弟は母を守り「人は皆母がある」と抗弁して助けられた。
- 王緒は望気者の言により有能な者を次々殺そうとし、王潮は行全とともに緒を捕らえて追放、衆は行全を将軍に推したが辞退し、剣を地に立てて占う形で王審知(三男)が推され、王潮が主、審知が副となった。「天子が難に遭う今こそ交・広から巴・蜀へ進み王室を助けるべき」と説き、泉州刺史廖彦若の貪暴を憎む州人に迎えられて泉州を包囲・攻略した。
- 福州では、陳巌の婿范暉が留後を自称していたが、陳巌の旧将が王潮に投じたため、従弟王彦復・王審知(白馬将軍と称される)を派して攻略、建・汀二州も帰順し王潮は五州を領した。
- 昭宗は福建等州団練使、のち観察使に任じ、義学を興し流民を還らせ賦斂を定めて民を安んじた。乾寧年間、福州は威武軍とされ王潮は節度使・検校尚書左僕射に任じられ、没して司空を贈られた。
- 病中、王潮は弟王審知に権節度を委ね、兄王審邽に譲ろうとしたが許されず、王審知が検校刑部尚書・節度観察留後となった。朱全忠に厚く仕え、節度使・同中書門下平章事に任じられ、天祐初、瑯邪郡王に進んだ。
王審邽(王潮の弟、附伝)
- 王審邽は字を次都といい、泉州刺史・検校司徒。儒学を好み《書》《春秋》に通じ、吏治に優れ流民の還住を助けた。中原の乱で楊承休・鄭璘・韓偓・帰伝懿・楊贊図・鄭戩ら公卿が多く身を寄せ、子の王延彬が招賢院を作って礼遇した。
劉知謙
- 劉知謙は壽州上蔡の人。乱を避けて封州に寄寓し清海の牙将となった。節度使韋宙は兄の娘を娶らせ、周囲の反対に「この人物の人相は尋常でない」と答えた。
- 黄巣が嶺表から北帰した後、湖・湘に群盗が蠢く中、劉知謙は封州に拠り刺史兼賀水鎮使を授かって梧・桂の抑えとした。流亡を撫で兵を養い、精兵一万・戦艦多数を擁するに至った。病の際、子らに「五嶺で盗賊が興る今こそ功を建てよ」と遺言した。
- 没後、子の劉隠が跡を継ぎ、清海軍節度使劉崇龜が封州刺史に推挙した。嗣薛王李知柔が節度を継ぐことになったが、牙将盧琚が叛いたため劉隠は李知柔を奉じて広州に進み盧琚を捕らえて献じた。昭宗は劉隠を本軍行軍司馬、のち副使に任じ、天復初、節度使徐彦若の死後、劉隠は自ら留後を称した。
盧光稠(劉隠の項の附伝)
- 虔州の盧光稠は数万の衆を擁して留後を自称し、韶州も奪った。劉隠が争って敗れ、虔州を総攻撃するも盧光稠の伏兵に敗走した。天祐初、朝廷は劉隠を権節度留後に認め、朱全忠に賄賂を贈って地位を固めた。この年、盧光稠が死に、子の盧延昌が刺史を自称したが部下に殺され、李図が州事を統べたが死後、鍾伝がその衆を奪い子匡時に守らせようとして果たせず、州人が譚全播を刺史に立てて朱全忠に付いた。