出自と行密配下での軍功
- 朱延寿は廬州舒城の人。楊行密に仕え秦彦・畢師鐸・趙锽・孫儒討伐で功が多かった。行密は寛恕で人心を得ようとしたが延寿は殺伐を好んだ。揚州で盗賊が多かった当時、行密は捕らえた盗賊に盗品を与えて釈放しつつ「延寿に知られないように」と戒め、実は密かに延寿に処刑を許していた。
- 壽州刺史高彦温が朱全忠に降った際、行密がこれを襲ったが諸将は堅城を恐れて手を出さなかった。延寿が士気を鼓舞して城を落とし淮南節度副使に表薦された。全忠がなお寿春に布陣していた際、延寿は新軍を旗ごとに5伍で並べ、李厚に10旗で西の敵陣を攻めさせたが不利となり斬ろうとしたところ、厚は「あと5旗を」と願い出て決死の戦いで持ちこたえ全忠は退いた。これにより黄・蘄・光3州を得て功により寿州団練使に昇進した。
- 昭宗が鳳翔にあった際、延寿は詔により蔡州を包囲して全忠の勢力を分断し奉国軍節度使に抜擢された。全忠の軍が来るたび延寿は門を開いて備えを見せず、しかし全忠も攻めきれなかった。延寿は寡兵で大軍と戦うことを常とし、敗走した兵は容赦なく斬った。
田頵との共謀と粛清
- 田頵が全忠に付いた際、延寿は密かに「あなたが事を起こせば私は従います」と約し、頵は喜んで二人は行密との絶縁を謀った。行密はこれを深く憂い、目を病んだと偽って柱にぶつかり倒れる芝居を打った。延寿の姉である妻に助け起こされると行密は泣いて「私は失明し子はまだ幼い、舅(延寿)が私に代わってくれれば安心だ」と語った。弁の立つ者を遣って延寿を召したが延寿は疑って赴かなかった。姉が事情を報告すると延寿は急いで揚州へ向かい、拝礼も終えぬうちに兵に捕らえられて殺され、妻も廃された。
史論
- 賛にいう。朱全忠は唐にとっての盗賊であり、楊行密はその首を梟ることを志として已まなかった。田頵が軍賦を出して全忠を助けたのは、行密への責めを転嫁し関係を絶つための謀に過ぎず、唐への忠義からではない。頼っていた者を捨てて上位を望んだのもまた妄りな振る舞いであった。孔子は孟公綽について「趙・魏の家老としては優れているが、滕・薛のような小国の大夫としては務まらない」と評した。高仁厚・田頵・朱延寿のような者たちは、その器量は呉・蜀の家老たるにも足りず、まして天子に仕えるに堪えようか。