楊復恭一門の興亡
- 楊守亮、曹州の人、もとの姓は訾、名は亮。弟の訾信と共に王仙芝に従って盗賊となった。亮は身長七尺余り、色は鉄のようであった。仙芝が死ぬと、さらに徐唐莒に仕え、洪州・饒州の二州を掠奪した。楊復光が江西を平定した際、その兄弟を得て仮の子として養い、信は弟の楊復恭の家に養われ、それぞれ守亮・守信と名乗った。復恭が京師を回復すると、守亮は戦功が多かったため山南西道節度使・検校太保を拝し、守信は興平軍節度使となり、共に同中書門下平章事を加えられた。復恭はまた仮の子である楊守貞を龍剣節度使とし、楊守忠を武定軍節度使とし、楊守厚を綿州刺史とした。
- 当初、朱玫が興州・鳳州を取った際、虢州刺史の満存は兵を率いて行在に馳せ参じ、二州を回復させ、昭宗は感義軍節度使に抜擢し、検校司徒・同中書門下平章事に累加した。復恭の四人の仮の子や利州・閬州観察使の席儔らと共に王建を攻めた。建の軍は既に楊晟を包囲していたが、軍を分けて守厚に迫り、軍がまだ陣を組む前に敗れた。これより先、守貞・守忠は建の軍が出撃したと聞くと衆を率いて綿州に逃れ、力を合わせて東川を攻めたが勝てなかった。建の将である華洪は兵一万で綿州の郊外に陣を構え、守忠・守厚を破り、二人は道を分かれて進み、兵を収めて閬州に向かった。
- 当初、復恭が敗れると守亮を頼った。鳳翔の李茂貞、邠寧の王行瑜、鎮国の韓建らは共に守亮が叛人を受け入れたと弾劾し、鎮の兵で討伐することを請うた。茂貞は自ら興元節度使となり、書を送って宰相を非難した。帝は守亮の官爵を削り、茂貞に問罪させる詔を出した。満存が救援に来たが果たせず、衆を率いて興元に入った。茂貞は興州・鳳州・洋州の三州を落とし、守亮を西で破り、勝ちに乗じて興元に入った。復恭は諸々の仮の子と満存を伴い閬州に逃れた。華洪が進んでこれを包囲した。帝は徐彦若に鳳翔を統率させ、興元を茂貞に授けた。茂貞はこれを受けなかったため、帝はその子の李継密を興元節度使とした。
- まもなく華洪が閬州を落とし、守亮らは皆単身で逃走し、北の太原に逃れようとして商山に向かったが、飢えが甚だしく、野で食を乞い、巡邏の兵に捕らえられ、韓建に引き渡された。守亮は建の左右にいる八百人を見ると、皆かつて自分の配下だった者たちであったため、建に「これらの者は私が平素厚く養ってきた者たちだが、誰一人私のために死んでくれる者はいない。あなたが衣食の費用をかけるまでもない、殺してしまうのがよいだろう」と言った。建はこれに応じることにした。守亮はさらに「あなたが幸いにも私を助けてくださるなら、生きて天子にお目にかかり、先人の功を陳べることができましょう、万に一つ、死を免れるかもしれません」と言った。建は檻車で京師に送り、吏は帛で縛り、口の中に球を入れた。帝は延喜楼で謀反の状況を問うたが、守亮は語ることができず、ただうなずくのみであった。左右の者が服罪を代弁し、太廟に献じられ、独柳の下で斬られ、市に梟首された。守厚は巴州で死に、麾下の兵の多くは王建に帰した。満存は京師に逃れ、左武衛大将軍となった。