荊南の争奪と江陵の陥落
- 趙徳諲、蔡州の人。秦宗権に従って右将となり、黄巣討伐の功により申州刺史を授けられた。光啓初年、秦誥・鹿晏弘と共に兵を合わせて襄州を攻め、節度使の劉巨容は成都に逃れた。秦宗権は徳諲に山南東道節度留後を仮授し、進んで荊南を攻めさせ、宝物と財貨を悉く回収させ、裨将の王建肇を残して守らせ、わずか数百戸を残すのみとなった。翌年、帰州刺史の郭禹が討伐に来ると、建肇はこれを受け入れ黔州に逃れた。徳諲は荊南を失い、また秦宗権が必ず敗れると見て、その地を挙げて朱全忠に付いた。全忠がまさに蔡州四面行営都統であった際、すぐに徳諲を副使に表挙し、忠義軍節度使を加えた。秦宗権が平定されると中書令を加えられ、淮安郡王に封じられ、没した。子の趙匡凝が跡を継いだ。
子の趙匡凝
- 匡凝、字は光儀。唐州刺史から自ら山南東道節度留後となり、昭宗はすぐに節度使を授けた。三年と経たぬうちに、威信と恩恵で聞こえた。検校太尉兼中書令に累遷した。匡凝は厳格で身なりを整えることを好み、前後に鏡を掛けて自らを映していた。
- 朱全忠が清口で敗れた際、匡凝は奉国節度使の崔洪、河東の李克用、淮南の楊行密と共に兵を合わせて全忠を攻める盟約を結んだ。折しも方城鎮遏使の度軫が全忠に逃れ、その謀を明かした。全忠は書を送り厳しく責め、氏叔琮に唐州を攻めさせると、刺史の趙匡璠は降った。進んで隋州を包囲し、刺史の趙匡璘を捕らえ、五千の首を斬った。鄧州を落とし、刺史の国湘を捕らえた。匡凝は恐れて盟約を請うた。
- 全忠は親しい将の陳俊・王紳を氏叔琮の軍に遣ったが、崔洪はこれを留め、紳は逃げ帰った。洪は行密と共に友恭(氏叔琮の別名か将の名)の軍を要撃しようとしたが果たせなかった。折しも河東の客である伊超が淮南への使いから帰る途中、蔡州を通過した際、洪はこれも留め、これに乗じて陳俊も共に全忠に送り、部将の苛拘を理由に釈明し、兄の崔賢を人質として送った。全忠はこれを送り返し、洪の子を汴州に人質として留めた。全忠は賢に蔡州の兵二千を調え出兵させようとしたが、出発前に大将の崔景思が不満を抱き賢を殺した。洪は恐れ、民を駆り立てて申州に向かい、行密のもとに逃れ、その軍は百余里にわたって続いた。武昌の杜洪がこれを迎撃しようとしたが間に合わず、蔡州の士卒の多くは逃げ去り、従う者はわずか二千人であった。
- 天祐元年、匡凝は楚王に封じられた。当時、諸道は貢納を怠っていたが、匡凝だけは毎年貢賦を天子に届けていた。全忠がまさに天下を図ろうとし、人を遣ってこれを止めさせると、匡凝は涙を流して「私は国の屏藩となる者、どうして他心を抱こうか」と言った。副使の王筠は全忠との断交を勧めた。全忠は怒り兵を出して攻めた。弟の匡明は鄧州で汴軍を大いに破り、匡凝に王建との連合を勧めた。荊南の成汭が敗れると、匡凝は江陵を奪い、匡明を荊南節度留後に表挙し、詔により検校司徒・荊南節度行軍司馬を拝させた。
- 全忠は匡凝の兵が分散していることに乗じて図ることができると考え、楊師厚を遣って匡凝を攻めさせ、自ら中軍を率いてこれに続き、臨漢に駐屯した。匡凝は使者を遣り謝罪させたが、これを捕らえて送り返さず、荊南の救援軍を破りその将を捕虜とした。全忠は江に沿って南下し、師厚は陰谷から木を伐って橋を架けた。匡凝は兵二万で江のほとりで戦ったが大敗し、州を焼き払い、単身小舟で夜のうちに揚州に逃れた。楊行密はこれを見て「あなたは鎮にあった頃、軽車と重馬を賊(全忠)に輸送していたが、今敗れて私のもとに来るのか」と言った。王筠は自殺した。全忠は師厚を山南東道節度留後とし、そのまま江陵に向かった。匡明もまた淮南に逃れようとしたが、子の趙承規が「昔、諸葛の兄弟は二つの国にそれぞれ仕えました、もし揚州に赴けば、自ら疑いを招くことになります」と諫めた。匡明はこれを尤もだと考え、成都に向かい、王建は賓客の礼で迎え、武信軍節度使を授け、その衆を崇義・勇義・順義・広義の四都に分けた。全忠はついに荊南を得た。