父の忠死と剛毅な統治
- 趙隠、字は大隠、京兆奉天の人。祖父の趙植は、徳宗が出奔した際の混乱の中、羽衛が寡少で朱泚が城を激しく攻めたので、植は家人・奴僕を率いて死を賭して守り、家財を献じて軍を労い、帝はこれを嘉した。賊が平定されると渾瑊が幕府に招いた。鄭州刺史に累擢された。鄭滑節度使の李融が副使に表挙し、融が病むと軍政を委ねられた。大将の宋朝晏がその陣営を焼き夜に乱を起こしたが、植は兵を並べて動かず時が来るのを待ったところ、明け方には賊は潰走し、捕らえて残らず斬った。優詔で慰労された。嶺南節度使に累擢され、任地で没した。父の趙存約は興元の李絳の幕府に招かれた。軍の乱に遭遇し、まさに絳と宴を開いていた際、吏が賊の来襲を報告すると、絳は存約に去るよう促したが、存約は「あなたの厚い恩を受けている以上、義として独り免れるべきではありません」と答え、左右を率いて防戦し、共に殺された。
- 隠は父が難に死んだことにより、兄の趙騭と共に廬墓の礼を十年近く守り、門を閉じて書を誦し、招聘に応じなかった。親友たちが交々に励まし出仕を勧めたため、会昌中、進士に及第し、州刺史・河南尹を歴任した。兵部侍郎として塩鉄転運使を領した。咸通末年、同中書門下平章事に進み、中書侍郎に遷り、天水県伯に封じられた。
- 性格は仁愛と兄弟愛に篤く、あえて高位権勢の身をひけらかすことはなかった。まだ布衣であった頃、家に資財がなく、兄の騭と共に耕して母を養い、富裕な姻族があっても財を頼ることはなかった。官が次第に顕達すると、家に帰れば衣を替え左右で仕え、なお布衣のままのようであった。騭は宣歙観察使で終わった。
- 政権を輔けるようになると、他の宰相や百官は皆その邸を訪れ堂に上って母を祝賀し、季節ごとに公卿が必ず訪問した。懿宗の誕生日、慈恩寺で宴が催された際、隠は母を輿に乗せて共に観覧し、宰相が百官を率いて廷で恩に拝謝する段になると、班を回して夫人の様子を伺った。士大夫はこれを栄誉とした。のちに崔顏昭・張浚が政権を握った際も、共に母がいたためこの礼を踏襲した。
- 僖宗の初め、罷められて鎮海軍節度使となった。王郢の乱の際、対応が不適切であったことに連座して太常卿に降された。広明初年、吏部尚書となった。母の喪に服して没した。
- 子の光逢・光裔・光胤はいずれも進士に及第し、台省の要職を歴任した。光逢はとりわけ規矩を守り、中書舎人から翰林学士となった。当時、光裔は膳部郎中知制誥として内外の詔令を共に掌り、士人はこれを羨んだ。