名族の栄達と最期
- 裴坦、字は知進、隋の営州都督裴世節の後裔。父の裴乂は福建観察使であった。坦は進士に及第し、沈伝師が宣州観察府に招き、左拾遺・史館修撰として召された。楚州刺史を歴任した。令狐綯が政権を握ると、職方郎中知制誥に推薦したが、裴休がこれに反対し、押し切ることができなかった。旧例では、舎人が初めて省に着任し職務を執る際、四人の丞相が送り、堂上に一つの榻を設けて上座に座ることになっていた。坦が裴休に会って重ねて謝意を示したところ、休は激しく怒り「これは令狐丞相が決めたことだ、私に何の力があろうか」と言い、左右に肩輿を求めて急ぎ出て行った。省の吏は皆驚愕し、唐が興って以来このような屈辱はなかったと考え、人々は坦のために恥じたという。礼部侍郎に再進し、江西観察使・華州刺史を拝した。中書侍郎・同中書門下平章事として召されたが、数ヶ月経たぬうちに没した。
- 坦は性格が簡素倹約で、子が楊収の娘を娶った際、多くの金玉で飾られた嫁入り道具が贈られてきたが、坦はこれを撤去させ「我が家の法を乱すものだ」と言った。世はその清廉さを称えた。従子に裴贄がいる。
- 贄、字は敬臣。進士に及第し、右補闕・御史中丞・刑部尚書に累擢された。昭宗は中書侍郎兼本官・同中書門下平章事に引き入れ、まもなく戸部尚書を兼ねさせた。帝は贄が外面は端正でありながら私生活に乱れがあるのではと疑い、翰林学士の韓偓を召して問いただした。偓は「贄は咸通年間の大臣であった裴坦の従子で、内では和やかで身内を疎遠にせず一族と共に暮らすため、召使いが多く出入りに一定の秩序がなく、これが誹謗の元になっているのでしょう」と答えた。帝はいつも咸通年間の事を聞くと必ず居ずまいを正したため、偓はこれをもって贄を弁護したのであった。
- 帝が鳳翔に行幸した際、大明宮留守を務め、罷められた。まもなく尚書左僕射に進み、司空として致仕した。朱全忠が簒奪を図る際、青州司戸参軍に貶され、殺された。
- 鄭延昌、字は光遠。咸通末年、進士に及第し、監察御史に遷った。鄭畋が鳳翔を鎮めると、その府に招かれた。黄巣が京師を乱した際、畋は延昌に頼って兵糧を調え、諸軍を慰諭させた。畋が再び政権を握ると、司勲員外郎・翰林学士に抜擢された。兵部侍郎に累進し、京兆尹を兼ねて度支を判じた。戸部尚書を拝し、中書侍郎で同中書門下平章事となり、刑部尚書を兼ねた。特に功績はなく、病により罷められ、尚書左僕射を拝して没した。