律令編纂と辺境宣慰
- 劉瑑、字は子全、高宗の宰相劉仁軌の五世孫。進士に及第し、鎮国の陳夷行が判官に招いた。入朝して左拾遺に遷り、武宗が方士を用いることを諫め罷めさせ、その言葉は多く切実であった。大中初年、翰林学士に抜擢された。宣宗が初めて関隴を回復した頃、繁多な事務を裁いており、書や詔は夜に数十通に及んだが、瑑は筆を執ればすぐに書き上げ、言葉はいずれも適切であった。党項討伐の際、行営宣慰使に任じられた。
- 刑部侍郎に遷り、武徳から大中に至るまでの用いるべき勅令を集め、あわせて二千八百六十五件を分類整理し、軽重を参照校訂して『大中刑律統類』と名付けて上呈し、法家はその詳細さを称えた。
- 河南尹から宣武軍節度使に進んだ。以前、大きな宴では雑多な演芸や踊り子を招くのが常であったが、瑑は「これは軍中の楽といえるだろうか」と言い、壮士千人を選び甲冑を着せ矛盾を持たせて撃刺の訓練を行わせ、吏士と共に観覧した。また夜間の通行を禁じないよう命じ、民を自由にさせたところ、境内は安定した。河東節度使に転じた。
- まもなく戸部侍郎として召され度支を判じた。当初、瑑が翰林にいた頃から帝は元来彼を器量ある人物として遇していた。この時、手ずから詔を書いて追い戻したが外には誰も知る者がなく、太原を発ったところで人々が大いに驚いた。のちに間を得て、帝は机上の暦を見せて「朕のために良い日を選んでくれ」と言った。瑑は跪いて「某日が良いでしょう」と言うと、帝は笑って「その日、卿はそのまま宰相となるがよい」と言った。すぐに同中書門下平章事の詔が出され、度支もそのまま領した。
- かつて崔慎由と共に帝の前で議論した際、慎由が流品(家柄・格式)を厳格に区別すべきだと請うと、瑑は「王夷甫(王衍)は晋の宰相として虚談を尊び、これにより流品を論じましたが、ついに国を滅ぼす結果を招きました。今、名実を問わず官吏がそれぞれ職務を果たすことをせず、流品を先にするのでは、治世をもたらす所以とは思えません」と質した。慎由は答えられず、これにより宰相を罷められた。まもなく瑑は重病にかかったが工部尚書を加えられ、病床で拝命し、なお手ずから政事について上疏した。在位半年で没し、六十三歳。尚書左僕射を追贈された。
- 瑑は名節を自らの信条とし、あらゆる議論・処事において私を挟まず、正当と思うところで止め、言葉や表情によって権貴に阿ることはなかった。瑑と共に政務を執ったのが夏侯孜である。
- 夏侯孜、字は好学、亳州譙の人。婺州・絳州刺史に累遷した。兵部侍郎・諸道塩鉄転運使から同中書門下平章事となり、塩鉄使もそのまま領した。懿宗が即位すると門下侍郎・譙郡侯に進んだ。まもなく同平章事のまま西川節度使として出た。召されて尚書左僕射を拝し、戻って政権に復帰し、司空に進み、貞陵の山陵使を務めた。墓道が崩れたことに連座して河中節度使として出たが、同平章事はそのままであった。当初、堂史が制書を署する際、誤って孜の懐に落として即座に死んでしまうという事があった。数日と経たぬうちに孜は罷められた。
- 咸通中、蛮族が蜀に深く侵入した際、士卒は糧食に乏しく、孜が蜀を治める間に備えをしなかったことを責められ、太子少保分司東都として、没した。