出自と昇進
- 鄭注は絳州翼城の人。出自は微賤で、方術を用いて江湖を渡り歩いた。元和末年、襄陽に至り、節度使の李愬に仕えた。李愬のために黄金を煮て服させ、次第に親しく遇されて衙推に任じられ、徐州まで従い次第に軍政に参与するようになった。注は多芸で、詭譎陰狡、人の内心を探り当てることに長け、計略はいつも用いられたが、邪でもって権を市い、軍中はこれを患いとした。
- 監軍の王守澄が李愬にこのことを告げると、愬は「彼は奇士である、将軍も試しに語ってみるとよい」と言った。守澄は初め拒んで会わなかったが、対面すると機知に富んだ弁舌が横溢し、その意図を巧みに読み取ったため、守澄は大いに驚き後堂に引き入れて夜通し語り合い、遅く出会ったことを恨んだ。「まことに公の言う通りだ」と言い、巡官に任じた。
王守澄との結託と専横
- 守澄が枢密の総轄に入ると、共に京師に至り厚遇された。日夜守澄のために計議し、これを機に密かに賂を通わせた。当初は狭い範囲の者だけが近づいたが、後には要人・貴人も出入りするようになった。宋申錫を陥れた後、士大夫は彼を白眼視した。金吾将軍の孟文亮が邠寧を鎮めた際、司馬に取り立てられたが赴任を肯んじず、御史中丞の宇文鼎が弾劾し、ようやく道に上ったが奉天を過ぎたところで引き返した。御史が再び注の奸状を訴え、有司に治罪させるよう請うたが、王涯が注の力によって再び宰相となり、また守澄を憚っていたためその上奏は握りつぶされた。かえって通王府司馬・右神策判官に抜擢され、士人の議論は騒然となった。
- 劉従諫はその人物を憎み、これを機に遠ざけようと考え、副として昭義節度に表挙した。赴任して一月も経たぬうちに文宗が突然眩暈の病にかかり、守澄が再び注を推薦すると、その日のうちに召され、浴堂門で対面して厚い賞賜を賜った。その夜、彗星が東方に現れ、長さ三尺、光芒が急激に強まった。まもなく太僕卿・兼御史大夫に進んだ。
- 注は貪欲で、権寵を頼みに専ら官職を売って利を貪り、蓄財は巨万に上ってなお止まなかった。善和里に邸宅を建て、長い通路を通し、飛廊や隠し壁を設け、京師の軽薄な者や方鎮の将吏を集めて声望を煽った。宦官府にも頻繁に出入りし、守澄と語る際は終日、あるいは夜が更けるまで続くこともあった。危険な人物や落ち着きのない者が頼み事をしに日々門を訪れた。李訓が既に注に付き従って進んでいたため、この二人の権勢は天下を震わせるほどになった。まもなく工部尚書・翰林侍講学士に抜擢され、この頃訓は既に禁中にあり、日々帝の前で議論し互いに調子を合わせて宦官排除を謀り、成功は目前だと自負し、帝もこれに惑わされた。この機に乗じて士大夫の進退を左右し朝廷の法を撓め、賢愚を混乱させ、それを当然のこととした。人々は皆いずれ乱を招くと予測していた。
献策と鳳翔赴任
- 帝が富国策を問うと、注は茶の専売を進言した。その法は茶官を置き、民の茶園を籍に登録して代価を給し、栽培・製茶を自ら行わせ、利益を全て官に収めるというものであった。帝は初め王涯を榷茶使とする詔を出した。また秦・雍の災いは工事を興して鎮めるべきだと説いた。帝がかつて杜甫の『曲江辞』を詠じ「宮殿千門」の句があるのを踏まえ、天宝の頃には曲江のあたりに観榭・宮室があったと考え、注の言を聞いて両神策軍に曲江・昆明池を修治させ、紫雲楼・采霞亭を作らせ、公卿には堤上に舎を並べることを許す詔を出した。
- 注はもとの姓を魚といい鄭に冒したため、当時「魚鄭」と呼ばれた。権勢を握るようになると人々は隠語で「水族」と呼んだ。容貌は醜く近視で、常に粗末な毛皮を着て質素を装った。かつて李愬が中風を患った際、注が治療して効果があったため、守澄はその術を神業のように扱い、宦官は皆彼を親しみ愛した。
- まもなく検校尚書左僕射・鳳翔隴右節度使となり、月ごとに入朝して奏事するよう詔された。属官の選任を訓に頼むと、訓は舒元輿と謀り注を最終的に殺すつもりでいたため、注の豪俊な部下が助けとなることを恐れ、あえて台閣の温厚な人物を選んで、銭可復を副使、李敬彜を司馬、盧簡能・蕭傑を判官、盧弘茂を掌書記とした。旧制では節度使が任命を受けると戎服で兵部に参内するのが慣例であったが次第に廃れており、注はこれを復するよう請い、王璠・郭行余も皆これに倣うのが常となった。この日、度支・京兆などが供応を整えた。暇乞いの際、帝は通天犀の帯を賜った。都門を出る際、旗竿が折れ、注はこれを不吉とした。
事変と最期
- 先立って、王守澄が死んで十一月に滻水に葬られることになった際、注は「守澄は国の勲功ある旧臣である、自ら喪を護りたい」と奏し、宦官たちが揃って会葬に来るのに乗じ、鎮の兵で一斉に捕らえて誅殺しようと図った。訓は注に功を独占されることを恐れ、五日前に先んじて事を起こした。注は五百騎を率いて至ったが、扶風令の韓遼はその謀を知り武功へ逃げた。注は訓の事が敗れたと聞いて引き返した。配下の魏弘節は注に監軍の張仲清や大将の賈克中ら十余人を殺すよう勧めたが、注は驚き動揺して聞く余裕がなかった。仲清は前少尹の陸暢と共に配下の李叔和の策を用い、注を訪ねて事を計るふりをしてその首を斬り、兵はみな潰走した。
- 注の妻の兄である魏逢はことに軽薄で危険な人物で、注の奸事を助け、たびたび賄賂を顧み、率更令・鳳翔少尹となっていた。逢を京師に遣わし訓と約させたが、そのまま誅殺された。銭可復ら及び親衛の兵千余人も皆一族を誅された。仲清は内常侍に、韓遼は咸陽令に抜擢され、李叔和は検校太子賓客とされ銭千万を賜り、陸暢は鳳翔行軍司馬となった。
- 注の首は光宅坊に梟首され、三日後に埋葬されると、群臣は皆祝賀し、その一族は滅ぼされた。当初、注がまだ捕らえられていなかった頃、京師は戒厳となり、涇原・鄜坊の節度使である王茂元・蕭弘はいずれも兵を整えて非常に備えていた。事が定まると人々は互いに祝いあった。その財産を没収したところ絹百万匹、その他の物もこれに相当した。注が敗れる前、身に着けていた帯の上に菌が生じ、褚(綿入れ)の中の薬が数万の蠅と化して飛び去ったという。
附伝――銭可復
- 銭可復は錢徽の子で、礼部郎中であった。盧簡能は盧簡辞の弟で駕部員外郎、蕭傑は蕭俛の弟で主客員外郎、盧弘茂は右拾遺であった。可復が死に臨んだ際、十四歳の娘が助命を願ったが「父を殺されて、どうして生きる面目があろうか」と言って可復を抱いて共に死のうとし、共に斬られた。盧弘茂の妻の蕭氏は刑に臨んで「私は太后の妹だ、下郎ども、殺しに来られるものなら来い」と罵ると、兵は皆手を出せず免れた。魏弘節は勇にして謀多く、初め鄜坊の趙儋節度府にあり、注に招かれた人物であった。李敬彜は路隋に招かれた人物で、路隋が没すると江淮に寓居し、赴任していなかったため罪を免れ、兵部員外郎に抜擢され、衢州刺史で終わった。