牛僧孺
- 字は思黯、隋の僕射奇章公牛弘の裔。幼くして孤児となり、下杜樊郷の賜田で生計を立てた。文章に優れ進士に及第。元和初、賢良方正の対策で李宗閔・皇甫湜と並び首席、政治の失を鋭く指摘し宰相を憚らなかった。試験官の楊於陵・鄭敬・韋貫之・李益らが公平を欠くとして左遷される事件が起きた。僧孺自身は伊闕尉、河南、監察御史、考功員外郎・集賢殿直学士を歴任。
- 穆宗初、庫部郎中知制誥。御史中丞として不法を取り締まった。宿州刺史李直臣の収賄事件で帝が才を惜しみ助命しようとしたが「有才の者ほど法で縛る必要がある、禄山・朱泚も才ゆえに乱を起こした」と諫め赦免を退けた。金紫服を賜り戸部侍郎・同中書門下平章事。
- 韓弘の子公武の権貴への賄賂事件が発覚した際、僧孺だけが受け取りを拒んでいたことが判明し帝の信頼を得た(「私は人を見誤らなかった」)。中書侍郎。
- 敬宗即位で奇章郡公。近幸が政を左右する中、しばしば辞位を願い、武昌軍節度使を新設して任じられた。鄂州の城壁を甎造に改め民の負担を軽減、沔州を廃して冗官を省いた。
- 文宗即位で李宗閔の推薦により兵部尚書・平章事に復帰。幽州の楊志誠が李載義を逐った事件では「范陽は建前上朝廷の管轄下にあるが実質は自律しており、深刻視するに及ばない」と楽観的な進言をした。門下侍郎・弘文館大学士。
- 吐蕃の維州帰順(大酋悉怛謀の投降)を巡り、李徳裕の積極策に対し「信義を守ることこそ辺境統治の要」と反対し、悉怛謀を送還させた(当時は素怨によるものと批判されたが、僧孺は誠実な判断だったと自認)。
- 宦官王守澄の専横下、帝の「太平の道」を問う下問に「四夷が乱れず民が生業に励み、上下に隠蔽・怨嗟がなければそれで治世と言える」と答え、辞位を願い淮南節度副大使に転じた。
- 開成初、東都留守。洛陽の邸宅(歸仁裏)で賓客と交遊した。莊恪太子薨去の折には父子君臣の大義を説き帝を感涙させた。山南東道節度使を経て会昌元年(841年)漢水氾濫の責で太子少保、少師。劉稹討伐後、稹との交流疑惑(石雄軍の証言、河南少尹呂述の讒言)で武宗の怒りを買い循州長史に流された。宣宗即位で衡・汝二州を経て太子少師に復帰。享年69で没し、贈太尉、諡は文簡。
牛蔚――僧孺の子
- 字は大章。両経に及第、進士も及第。監察御史から右補闕。大中初、直言で宣宗に「牛氏にも人材がいた」と評された。金州刺史、吏部郎中を経るが権幸に嫌われ国子博士に左遷、後に吏部召還・史館修撰。咸通中、戸部侍郎、奇章侯を襲爵。山南西道節度使として梁州を3年治め、徐州の乱に際し出資を渋り宦官に嫌われ吳行魯に交代された。黄巣の乱で山南に避難した際、民に慕われた。尚書右僕射致仕。子は徽。
牛徽――蔚の子
- 進士に及第、吏部員外郎。乾符中の選考の乱れを剛明さで正した。父蔚の避難行に随行中、盗賊に襲われても孝行を尽くし危機を脱した逸話が伝わる。諫議大夫を辞退し兄循の給事中在任に配慮した。中書舎人の召還も辞退し陳倉に留まった。
- 張濬の太原討伐への従軍要請を「河北諸侯の離反を招く」と辞退、案の定濬は敗れた。楊復恭討伐を巡る朝議で「李茂貞に招討使の節を与え制約すべき」と進言、その後茂貞が驕り杜讓能討伐案が出た際は「岐は西の要衝、慎重にすべき」と諫めたが聞かれず、案の定師は敗れた。刑部侍郎、太子賓客を経て刑部尚書致仕。贈吏部尚書。
牛叢――蔚の弟
- 字は表齢。進士に及第、藩帥幕府から補闕。宣宗が「牛叢ら3人で十分」と評した逸話がある。睦州刺史、劍南西川節度使として蠻族の侵攻を巧みに退けた。僖宗の蜀行幸時、太常卿。太原で客死。