新唐書卷一百七十四 列傳第九十九 元稹

元稹

  • 字は微之、河南河南の人。六代祖岩は隋の兵部尚書。幼くして父を失い、母鄭氏が自ら経書を教えた。9歳で文章に優れ、15歳で明経及第、校書郎。元和元年、制科の対策で首席、左拾遺。
  • 王叔文・王伾の専横を憂い、太子輔導の重要性を説く長文の上疏を行った(周成王・秦二世・太宗の故事を引き、正しい師傅の選定を提言)。さらに、諫言の道を開くべきとの上疏(治乱の萌芽論、太宗の納諫の故事、10箇条の具体策:太子教育、諸王封建、宮女解放、宗女婚姻、宰相との定期協議、群臣との対話拡大、正衙奏事の復活、糾弾の自由、非時貢献の禁止、遊興の抑制)も行った。
  • 監察御史として東川で節度使嚴礪の違法徴税を弾劾、8千余家の田産・奴婢の没収を糾した。浙西観察使韓皋の杖殺事件など複数の不正を摘発。河南尹房式の罪を巡る越権行為で貶され、宦官仇士良との揉め事(面前で殴られる)を機に江陵士曹参軍に左遷(李絳・崔群・白居易は不当と弁護)、通州司馬、虢州長史を経て膳部員外郎。
  • 詩才は白居易と並び「元和体」と称され宮廷でも愛誦された。江陵謫居時代に交わった崔潭峻の推薦で穆宗に評価され祠部郎中知制誥、中書舎人・翰林承旨学士。宦官魏弘簡と結び裴度の淮西出兵時の上奏を妨害、度の弾劾で弘簡は罷免、稹も工部侍郎に降格したが帝の眷顧は続いた。
  • 同中書門下平章事に昇進するが公議に反する登用として軽んじられ、王廷湊討伐の深州包囲を巡り反間策(王昭・于友明の派遣)を企てたところ、李逢吉の策謀で「稹が裴度暗殺を企てた」との濡れ衣が着せられ両者とも罷免、同州刺史に出された。浙東観察使として明州の蚶貢の労役を廃止するなど善政も残した。
  • 太和3年(829年)、尚書左丞として綱紀粛正に努めるが、素行への評価は低く、武昌節度使で没した。享年53、贈尚書右僕射。竇鞏との詩の唱和(「蘭亭絶唱」)で知られた。若くして直言で名を立てようとしたが、10年の左遷で志を失い、宦官に頼って宰相となり在位わずか3ヶ月で罷免、晩節は節操を失ったと評された。